第4話
翌日、朝の五時に帰庫した僕は、洗車の後、売上を納めて部屋に戻った。熱いシャワーを浴びてベッドにもぐり込み、前の晩に録画しておいた連続ドラマを見始める時、僕は、ほんのささやかな幸せに浸った。
不眠症の僕は、目覚ましをかけると眠れなくなる。例えそれが八時間先でも、その時が迫ってくるプレッシャーで目が冴えてしまう。しかし、明け番の日は目覚ましをかける必要もない。眠ろうと思えば二十四時間だって眠ることができるのだから。それにしても、なんてちっぽけな安心感だろう。そして、そんなにちっぽけなものに、しがみつくようにして眠る自分はいったい何なのだろう。未来に希望を持たない者の睡眠は、何のために必要なのだろう。
渋滞の赤いテールランプの帯と、街路樹を飾る温かい電球のイルミネーションが、この世をおとぎの国に変えたその日、僕は、浮き立つような気分でそこを歩いていた。僕には、そこを歩く全ての人々が幸せそうに見えた。全く動かないタクシーの中のカップルでさえ、渋滞を楽しんでいるように見えた。
表参道を歩く僕の隣には、背の高い男性がいた。その男性を見上げながらおしゃべりをするだけで、僕の胸は高鳴った。ずっと憧れていた人の隣を歩けるだけで、本当に楽しかった。その時のときめきを、心から湧き出るような悦びを、いったいどう表現すれば良いだろう。
抱きしめていた彼女の身体を離したとき、僕は、それまでの視点が彼女の視点だったことに気づいた。彼女が一緒にいた男は僕の親友だった。僕は彼女の記憶を見て、彼女になりきり、自分の親友に心をときめかせていたのだ。
僕は彼女に別れを告げた。「なぜ?」彼女が戸惑いながらそう言う。「君は本当に好きな人と付き合うべきだよ」僕がそう答える。彼女は泣きながら、「本当に好きな人って誰のこと?」と言い、「なぜ?」を繰り返す。僕は沈黙する。
遠いところから意識が戻ってくるのを感じると、いったい今は何時だろうと思う。しかし、そこで目を開ければ、現実の世界が動き出してしまう。だから僕は、もう一度、夢の世界へ逃げ込もうとする。そうやって、夢と現実の狭間をさ迷うのは嫌いじゃない。でも、結局、最後に勝つのは、空腹という味気ない現実に決まっていた。
ベッドからはい出て、床に落ちていたジーンズを履き、パジャマ代わりに着ていたTシャツの上に革ジャンを引っかけ、顔も洗わずに少しだけ髪を直し、踵を踏み潰したバスケットシューズに足を突っ込んで、真っ暗な部屋の扉を開けた。フラッシュのような閃光が僕を襲う。僕はまるで、闇の世界から太陽の下に引き出されたドラキュラのように、太陽に手をかざし、日陰を求め、素早く階段を下りた。
バス通りに出て坂を上った。バス通りといっても、通り沿いに大した店がある訳じゃない。クリーニング店、夜しか開かないスナック、蕎麦屋、ファミレス、コンビニ、そして牛舎。郊外とはいっても、一応は東京都なのだから、引っ越してきてそれを見つけたときには少し驚いた。当然、牧場があるわけでもなく、そこの牛たちは、せまい区画の中にずっとつながれている。僕は、いつも牛と目を合わせないように、そこを通り過ぎることにしている。結局僕はいつもそういうものから目をそむけていた。
眩しさに目が慣れてくると、今度は、日なたが恋しくなり、信号を待って通りを渡った。そして、この季節になると毎年必ずつがいでやって来る沈丁の香りと日差しの暖かさの調和を感じながら公園へ向かった。
公園には豆から淹れるコーヒーの自販機があるから、コンビニでは、レタスとチーズのサンドイッチだけを買った。もしあの自販機がなかったら、こうして明け番の度に公園に通うようにはならなかっただろう。
公園に着くと、いつものベンチに腰掛け、コーヒーを右に置いてサンドイッチのセロハンを剥がしにかかった。仕事明けの午後をそう過ごすようになってもう三年が過ぎていた。暑い日も寒い日も、僕はこのリズムをひたすら守り続け、ただ時が流れていくのを静かに見送ってきた。しかし、リズムを守るといっても、意図的にそうしてきた訳ではなかった。ただそれ以外の過ごし方を考えつかぬ間に、それが習慣になってしまっただけのことだ。
サンドイッチのセロハンがうまく剥がれず、僕は、目の前に白い靴が二つ並んでいることにも気づかなかった。あわてて顔を上げると、そこには藤色のカーディガンを着たあの少女が立っていた。