最終話
庄吉さんは、老人ホームから少し離れた、西東京医療センターに入院していた。岬さんから、六階の東病棟の一番奥の個室だと聞いていたから、病室はすぐにわかった。扉を軽くノックして横へ引くと、そこには、こちらへ背を向けながら、振り返って扉が開くのを待っていた岬さんの瞳があった。
「桐野さん」
「庄吉さんは?」
「今は落ち着いています。メールした時は本当に危なくて、すいませんでした。少し前までホームの人たちもいたんですけど、もうみんな帰りました」
「大変だったね」
「もう私、どうしたらいいかわからなくて。だって、もしかしたら、いい知らせを桐野さんが持ってきてくれるかも知れないでしょう。それなのに、その前に亡くなってしまったら、どうしようって。とにかく桐野さんが帰ってくるまで死なないでって、ただそれだけをずっとお祈りしていました」
「良かった。間に合って」
「あの、何かわかったんですか?」
「うん、鉄男さんから、沙那子さんが庄吉さんに宛てて書いた手紙を預かってきた」
僕はそう言って、カバンから手紙を取り出し、それを岬さんに手渡した。
「沙那子さんに会えたんですか?」
「いや、沙那子さんはもう亡くなっていた。三十年も前に」
「ということは、この手紙は三十年以上前に書かれたものなんですか?」
「うん。だから内容もわからない。もしかしたら、庄吉さんに対する恨みが書かれているかもしれない」
僕はその時、一瞬、彼女に、「どうする?」と聞こうとした。しかし、そう聞いたところで、彼女の答えはわかりきっていた。この手紙は庄吉さんの手紙なのだ。
「ああ・・・桐野くんか・・・」
その声に僕も岬さんも驚いて庄吉さんの方を見た。庄吉さんは、薄く目を開けて僕らを見ていた。
「庄吉さん、大丈夫ですか?」
「悪いね・・・来てくれたのか・・・」
声はかすれていたが、庄吉さんの意識ははっきりしているようだった。話すなら今しかない、僕はそう思った。
「庄吉さん、僕、新潟へ行ってきました。村上へ行って鉄男さんに会ってきたんです」
「鉄男に?君が・・・鉄男に・・・会ってきたのか?」
「そうです。庄吉さんの代わりに鉄男さんと会ってきました」
「そうか、鉄男と会ってきたか・・・鉄男は・・・元気だったかな」
「はい、息子さんご夫婦とお孫さんと、一緒に暮らしていらっしゃいました」
「そうか・・・それは良かった」
「それで、沙那子さんなんですが」
僕がそう言っても、庄吉さんの表情は変わらなかった。
「沙那子さんは今から三十年前に亡くなっていました」
庄吉さんは何も言わなかった。その時の狭い病室の中は、無音と言っても良いほどの静けさだった。そして、
「そうか。まだ若かったろうになあ」
庄吉さんは、ぽつんとそう言って目を閉じた。
「それで、実は、沙那子さんが、生前、庄吉さんに宛てて書いた手紙があったんです。僕は、それを、鉄男さんから預かってきました」
僕がそう言うと、岬さんが、その手紙を、庄吉さんの目に見えるように掛け布団の上に立て掛けた。すると、庄吉さんは、再び目を開き、
「桐野くん、悪いがベッドを起こしてくれないかな」
と言った。
僕がベッドの下についているハンドルをぐるぐる回すと、庄吉さんの上半身は、少しずつ起き上がっていった。そして、それと共に、庄吉さんの表情も、しっかりした表情へ変わっていった。庄吉さんは、封筒の文字をずっと眺めていた。そして、
「岬さん、悪いがこれを開けて読んでくれないかな。私はもう、よく目が見えないんだ」
と言った。
「私が?私が読んでいいんですか?」
「ああ、お願いします」
庄吉さんがそう言うと、岬さんは手紙の封を丁寧にハサミで切り、中から数枚の便箋を取り出した。そして、それを広げて、静かな声で読み始めた。
庄ちゃん、元気ですか。
今、どうしていますか。
私は、今、病院のベッドの上で、この手紙を書いています。
この手紙がいつか庄ちゃんに読んでもらえることを心の中でお祈りしながら、この手紙を書いています。
今は、昭和五十六年、私も五十五になりました。人生なんて、早いものですね。
実は、私の病気は随分悪いらしくて、もう長くは生きられないそうです。たがらこうして手紙を書くことにしました。どうしても庄ちゃんに伝えておきたいことがあったから。
庄ちゃんが一人で東京へ行ってしまった時、私はとても寂しくて、悲しくて、何も手につかない程でした。でも、庄ちゃんが一人で行ってしまった理由は何となくわかっていました。高村のご隠居様のお気持ちを考えたら、恭二郎さんの婚約者の私を連れて行くなんていうことができなくなってしまったのだろう、私はそう思っていました。
それから三ヶ月程過ぎた頃、私はまだ家から一歩も出ず、絶望の中、毎日塞ぎ込むようにして暮らしていました。でも、その頃、私は自分の体の異変に気づいたのです。私は、十日町まで行って、お医者さまに見て頂きました。そうしたら、妊娠していたのです。私のお腹に、庄ちゃんと私の赤ちゃんがいたのです。
私は嬉しくて嬉しくて、それはもう、叫び出したいくらい、飛び上がりたいくらいでした。それからの私は、もう、心の中が希望で一杯になりました。だって、もう、一人なんかじゃなかったのですから。いつでも私のお腹には、私と庄ちゃんの赤ちゃんがいたのですから。
でも、私は、どこでどうやって、お腹の子を産むか迷いました。恭二郎さんの婚約者だった私が、あの村で恭二郎さん以外の人を父親に持つ子を産むなど許される訳がありません。
そして、その頃、庄ちゃんから手紙が来たのです。庄ちゃんが恭二郎さんに命を救ってもらったこと、その時初めて知りました。
庄ちゃん、辛かったでしょう。私は、庄ちゃんの苦しみを、何もわかっていませんでした。ごめんなさいね。それに、庄ちゃんが刑務所に入ったのにも、きっと何か訳があったのでしょう。あの手紙を読んで私は胸が張り裂けそうになりました。
でもね、庄ちゃん。私はその時、決心したんです。この世の誰も頼らずに、お腹の子を産んで育てていこうって。
それでね、私はそのあと、故郷とは縁を切って、もう二度と村上には帰らないと覚悟を決めて、佐渡に渡りました。佐渡に小さな家を借りて、お腹の子を産みました。
庄ちゃんと私の子はね、女の子でした。新潟には雪がたくさん降るから、「雪」と名付けました。私はその子を初めて抱いたとき、「私のところへ生まれてきてくれてありがとう」って言ったの。だって本当に嬉しかったから。
雪を産んでからは、生活は苦しかったけれど、雪の顔を見たらどんなことでも乗り越えられました。疲れも悩みも、雪の顔を見るだけで、ふっ飛んでしまうの。
ここに入院するまで、私は、その雪と、雪の旦那さまと、それから雪の子の薫と四人で新潟市内で暮らしていました。薫は今、三歳。とてもかわいい女の子です。もちろん、薫は、庄ちゃんの孫です。
庄ちゃん、庄ちゃんは、あの嵐の日のことを悔やんでいますか?
私は悔やんでなんかいません。私にとっては、あの日が人生のすべてだったんです。あの日に私が授かったもの、あなたの愛も、それから雪も、それは、私の一生の心の支えになりました。それがあったから、私は今まで生きてこられたの。
だから、庄ちゃん、もう自分を責めるのはやめて下さいね。だって、庄ちゃんのことだから、きっと酷く自分を責めているに違いありません。私は、庄ちゃんのおかげで十分幸せな人生を生きさせてもらいました。だから、庄ちゃんにも、自分の人生をしっかり生きて欲しいのです。
同封の写真は、一歳になった雪と私の写真です。これがあなたの娘ですよ。かわいいでしょう。
私はもうすぐあの世に行きます。けれど、いつか、そこで庄ちゃんに会えると思うと、死ぬこともそれほど怖くはありません。
もし、本当に会えたら、また、昔のようにお話ししましょう。私は、庄ちゃんとお話しをするのが好きでした。そして、あなたのことが、本当に本当に大好きでした。
沙那子
手紙を読んでいる間、岬さんは何度も声がつまり、僕は途中で岬さんが読むのを諦めてしまうのではないかと思った。しかし、岬さんは最後まで手紙を読み切り、封筒の中から一枚のモノクロ写真を取り出して、それを庄吉さんに渡した。庄吉さんは震える手でその写真をつかみ、食い入るように見つめ続けた。そして、そのあと、むせび泣くように、
「俺に娘がいたのか・・・孫まで・・・オレは父親だった・・・父親だった・・・」
と言うと、あとはもう、子どものように大きな声で泣き始めた。
それはいったいどれくらいの時間だっただろう。庄吉さんは、その写真を胸に抱いてずっと泣いていた。僕と岬さんは、庄吉さんが泣いているのを、ずっと見守っていた。たぶん同じ気持ちで。
そして、しばらくすると、庄吉さんは、僕たちを見て、
「ありがとう。君たちには何と言っていいのか。本当にありがとう」
と言った。
僕は無意識のうちに、
「庄吉さん、ありがとうございます。こちらこそ、本当にありがとうございます」
と、庄吉さんの手をとって、そう言っていた。
その時に見えた庄吉さんの心の中は、金色に輝いた世界だった。そこには、何の映像があるわけでもなく、ただ、全てが幸福な金色の光に包まれていただけだった。僕はそれを見て、庄吉さんが全ての呪縛から解き放たれたことを知った。
僕は、庄吉さんと沙那子さんの人生に、とても美しいものを見た。そして、僕は、そのことが心底嬉しかった。僕は、そういう人間だった。美しいものを見て嬉しいと感じることができる人間だった。僕はまだ、辛うじて、人としての純粋さをつなぎ止めていた。
岬さんは、泣きじゃくった子どものような顔をして、庄吉さんの手を握っていた。少しすると、庄吉さんの顔が急に穏やかになり、庄吉さんは少しずつ目を閉じていった。庄吉さんは、夢の入り口で、きっと岬さんの手のぬくもりを感じたと思う。
船は三度汽笛をあげて、両津港を出港した。庄吉さんの遺骨を沙那子さんのお墓に納めてきた僕と岬さんは、船尾のデッキに立ち、少しずつ小さくなっていく佐渡を見ていた。空の青、島の緑、雲の白、そして海の群青、言いようのない鮮やかな世界が僕たちの目の前に広がっていた。何羽ものカモメが春の強い風に乗りながら船を追いかけてくる。子どもたちは、菓子を投げ、カモメたちがそれをうまくキャッチするたびに歓声をあげていた。岬さんは、欄干に手をのせ、その景色と光景と風と日射しに身を委ねているように見えた。
「桐野さん」
海を見ていた彼女が僕を見てそう言った。僕は何も言わずに彼女を見た。
「良かったんですよね、これで」
「たぶん」
「私、桐野さんがいなかったら、何もできませんでした」
「そんなことない。今回のことは、みんな君がしたことだよ。僕は君に感謝しているんだ」
「なぜですか?」
「なんて言ったらいいだろう。僕はね、人間の棲む世界には、本当に美しいものなんてないと思っていたんだ。でも、そうじゃなかった。わかるよね。君が僕を導いてくれなかったら、僕はたぶんずっと変われなかったと思う」
彼女は少しはにかむように俯いた。そして俯いたまま話し始めた。
「私、変わっていますよね。桐野さんもそう思うでしょう?自分でもわかるんです、私が人と違うこと。今まで生きてきて、たくさんの人と出会ったのに、『ああ、この人は自分と近い人なんだな』って感じたことがほとんどないんです。自分の家族でさえ。たった一人出会った人は、私が十五の時、私の前から突然消えてしまいました。人から見た私は、孤独なんていう言葉とは縁のないただの高校生かもしれません。けれど私は孤独でした。ずっと。でも、不思議なことに、庄吉さんと会ったとき、『あ、もしかしたら』って思ったんです。『庄吉さんは私に近い人かもしれない』って。七十歳近くも歳が離れているのに。それで、私、どうしても何とかしたくて。お別れするにしてもちゃんとお別れしたくて。何も分からないままに庄吉さんが消えてしまうなんて、絶対に嫌だったんです。だから、見ず知らずの桐野さんに、たくさん迷惑をかけてしまいました。私も、庄吉さんのためじゃなくて、自分のために一生懸命になっていたのかもしれません。本当にごめんなさい」
俯いていた彼女はさらに深く頭を下げた。
「たしかに君は変わっているかも知れない。でも、君がそういう人に出会えないのは、単に君が若いからだと思う。それから、謝る必要なんてない。さっきも言ったけど、僕は君に感謝しているんだから」
僕がそう言うと、彼女は顔をあげて僕を見た。彼女の短い髪が風に揺れていた。
「桐野さん、いつか私の手を握って私の心の中を見てください。そうしたら私がどんな人間なのか、きっとわかると思います。でも、その時、がっかりしたりしないでくださいね」
「僕は、君の心を覗いたりしない。そんな大切なことは、君の口から聞くよ。そして、その結果、何がわかったとしても、僕は、決してがっかりなんてしない」
もう、佐渡は遥か遠くにかすんでしまった。この真っ青な海に残る白い航跡はいったいいつまで残っているのだろう。庄吉さんは七十年以上前に、これと同じ航跡を見たのだろうか。そして、その航跡に身を投げた兵士たち。僕は、その兵士たちの心に想いを馳せた。
毎日繰り返される戦闘。いつ果てるとも知れぬ命。目の前に広がる夕日に照らされた金色の空と海。そして、白くたなびく航跡。彼らがそうしたように、僕も身を投げるだろうか。いや、そうはしない。庄吉さんがそうしなかったように。たとえ、ほんの僅かでも可能性が残されているのなら、僕は自らの命を断つことはしないだろう。
岬さんは、もうほとんど見えなくなってしまった佐渡を見つめている。もし、庄吉さんが、沙那子さんと一緒にここへ立っていたら、この景色をどんな気持ちで眺めるだろう。
僕は、そんなことを考えながら、ただ、真っ白い航跡の彼方を見つめていた。




