第30話
目の前の破間川は岸辺をコンクリートに固められていたが、川の曲がり方や流れの早さはあの時と変わらなかった。上流に目を向けると、橋のかかっている場所も同じだったし、さらにその先に連なる雄大な越後山脈は、六十年以上の歳月を経ても、何一つ変わっていなかった。僕は目をつぶってみた。あの時は夏だったから、匂いは今と違っても、流れの音は同じだった。そして、僕は、ここが間違いなく、あの時二人が座っていた場所なのだと確信した。ここで沙那子さんは庄吉さんに、戦争になんて絶対行って欲しくない、と訴えたのだ。そしてあの橋の向こう側で彼女は川に身を投げた。僕はその時の光景と庄吉さんの気持ちを胸に刻み、来た道を引き返した。
鉄男さんの家の前に着くと、四十位の女性が、庭木に水をやっていた。
「すいません。こちらは木下鉄男さんのお宅でしょうか?」
僕がそう声をかけると、その女性は振り向いて、
「はい。そうですけど、どちら様ですか?」
と言った。
「私、東京から来た、桐野といいます。鉄男さんの幼馴染みだった岡崎庄吉さんという人の知り合いで、できたら鉄男さんとお話しさせて頂きたいのですが」
「岡崎庄吉さん、ですか?ちょっと待って下さいね。お父さんに聞いて来ますから」
そう言うと、その女性は家の中へ入っていった。きっと鉄男さんの息子さんのもとへ嫁いできたお嫁さんなのだろう。二、三分すると、その人は玄関のドアを開けて、
「どうぞお上がり下さい」
と笑顔で言ってくれた。
鉄男さんは、庄吉さんのことをどう思っているだろう。妹を裏切った庄吉さんを恨んでいるだろうか。鉄男さんのいる部屋へ通されるまで、僕は、そんなことを考えていた。
そこは、がらんとした八畳ほどのフローリングの部屋で、鉄男さんは、介護用のベッドにこちらを向いて寝ていた。髪も髭も真っ白の、とても穏やかなおじいさんという感じの人だった。顔に刻まれた深い皺の一本一本が、長年の苦労を感じさせる。昔、庄吉さんや三郎さんと、そりで遊んだり、犬と綱引きをして遊んでいた頃の面影はほとんど無く、意識してよく見れば、目元の辺りに、ほんの微かにその痕跡らしきものが見られるだけだった。
「あの、初めまして。桐野といいます。桐野光二です」
そう言って僕は、仰向けに寝たままこちらを見ている鉄男さんに頭を下げた。鉄男さんは、枕元にあるリモコンに手を伸ばし、それを操作して、上半身をゆっくりと起こしていった。
「まあ、どうぞ」
僕は鉄男さんにベッドの横に置いてある椅子を勧められた。僕をここへ案内してくれた女性は、「お茶でも入れて来ますね」と言って部屋を出ていった。
「あなたは庄吉の知り合いですか?」
鉄男さんはしゃがれた声でそう言った。
「はい。そんなに親しい訳ではないのですが」
「庄吉は今、どこでどうしていますか?」
「庄吉さんは、東京の老人ホームで一人で暮らしています」
「老人ホームで一人暮らしですか・・・」
「はい」
「連れ合いはいないのですか?」
「はい。庄吉さんは、結婚したことがありません」
「そうですか・・・。それで、あなたは、どうして私を尋ねてここへ来たんです?」
「実は、沙那子さんのことをお聞きしたくて、それでここまでやってきました」
僕がそう言うと、鉄男さんの表情が少しこわばった。
「庄吉が沙那子のことを知りたがっているんですか?」
「いえ、庄吉さんから直接頼まれた訳じゃありません。庄吉さんのいる老人ホームで、庄吉さんのお世話をしているボランティアの人から頼まれたんです」
「ボランティア?」
「はい。高校生の女の子です。彼女は、庄吉さんは認知症で、もうすぐ全ての記憶を無くしてしまうだろうと言っていました。それに・・・もうあまり長くないだろうとも・・・。実は、庄吉さん、眠るとよく涙を流すそうなんです。そのボランティアの女の子は、何とかして庄吉さんが泣く理由を突き止めて、庄吉さんの心から悲しみを取り除いてあげたいと思っていました。そんな時、僕は、彼女と知り合ったんです。そして、それからは二人でその理由を考えるようになりました」
「なるほど。それでわかったのですか?その理由」
「はい。たぶん、沙那子さんが原因ではないかと。庄吉さんは、ずっと沙那子さんのことが好きだでした。いえ、今でもです。庄吉さんは、沙那子さんと一緒になろうと約束をしたのに、それを破って一人で東京に出てきてしまいました。東京でいい仕事を見つけたら、沙那子さんを呼び寄せようと思っていたんです。でも、何をやってもうまくいかなくて、結局、庄吉さんは、沙那子さんと一緒になることをあきらめました。でも、庄吉さんは、いつまでも沙那子さんを忘れることができず、今までずっと一人で生きてきたんです。そして、庄吉さんは、沙那子さんとの約束を守れなかった自分の過去を夢に見る度に、眠りながら泣いていたんだと思います」
鉄男さんは、ずっと天井を見ながら僕の話を聞いている。
「それで、本当に余計なことだと思ったのですが、せめて、沙那子さんの消息というか、その後、沙那子さんがどうなったかを庄吉さんに伝えてあげたいと思いまして、突然、こうしてここへやってきた訳です」
鉄男さんは、目を閉じたまま何も言わなかった。そうしているうちに、さっきの女性がお茶を持って部屋へ入ってきた。
「うちの息子の嫁です」
沈黙を破るきっかけを見つけたように、鉄男さんはそう言った。
「春子です。東京からいらっしゃったんですか?新幹線で?東京はもうすっかり暖かいでしょうね。いいわねぇ。どうぞゆっくりしていって下さいね。お父さん、話し相手ができて良かったわね」
天真爛漫という言葉は、きっとこの人のような人のためにあるのだろう。春子さんは自分の言いたいことを言い終えると、笑顔を残して部屋を出ていった。
「いいお嫁さんですね」
「ああ、明るくてね、家のこともよくやってくれますよ」
その時僕は、目の前の老人の人生と庄吉さんの人生を比べずにはいられなかった。どうして庄吉さんは、こんな人生が送れなかったのだろう。
「お幸せですね」
そんな言葉が、ふと、僕の口から自然に出てきた。というより、僕の心の中の庄吉さんが、僕の喉と口を借りて、直接、鉄男さんに語りかけたという方がニュアンス的に近いかもしれない。
「姉はね、もう死にました」
「え?あの、いつ頃のことですか?」
「そう、今から、三十年も前のことです」
「そうだったんですか」
思いがけない言葉だった。僕は、ずっと沙那子さんが元気なものとばかり思っていた。
「あの、沙那子さんは幸せな人生を送られたのでしょうか?」
「さあ、どうでしょう、私にはわかりません。だけど、私は、庄吉を恨みましたよ。だってね、庄吉が一人で何処かへ行ってしまったときの姉の落ち込みようといったら、それはもう、痛々しくて見ていられない程でした。それに何ヵ月かしたら、庄吉から手紙が来ましてね、そうしたら姉は急に家を出ると言い出したんですよ。そして、何の事情も説明しないまま出ていってしまってね、そのまま何年も行方がわかりませんでした。それから、五、六年たったでしょうか。姉から手紙が来ましてね。佐渡で所帯を持って暮らしているから安心してくれと言ってきたんです」
「佐渡ですか。ということは、沙那子さんは、佐渡でどなたかと一緒になって家庭を持ったということですね?」
「まあ、たぶん、そうなんでしょう。でも、私は、その相手には会ったことすらないんです」
「なぜですか?」
「姉は一度もここへ戻って来ませんでしたから」
「一度も?どういうことです?」
「自分は一度故郷を捨てた人間だからって。帰りづらかったんでしょう」
「それじゃあ、鉄男さんは、ずっと沙那子さんに会っていないのですか?」
「いや、会ったことはあります。二度だけですがね。一度目は姉から手紙をもらった後、どれくらいだったか、とにかく心配でね、手紙にあった住所を頼りに、佐渡まで姉を探しに行ったんです。着いてみたら、それはもう、本当にみすぼらしい家でした。私たちが育った家より酷かった」
「沙那子さん、どんな様子でしたか?」
「それが家には誰もいなかったんです。それで、近所の人に聞いたら、港に行けば会えるというじゃありませんか。私はその人の言う通り港へ出てみたんです。そうしたら、いました。水揚げされた途方もない量のイカを、大きなバケツに仕分けしてる何十人という女の人の中に、姉はいたんです。あんなに美人だった姉がそれはもう酷くやつれていましてね。最初は分からなかったくらいですよ。私は近づいていって、姉に声をかけました。そうしたら、びっくりしたんでしょう。姉は、そこで、泣き出しましてね。だから、私は、姉を人気のないところまで連れていって、大丈夫か?元気なのか?って聞いたんです。でも、姉は、頷くだけで何も言いませんでした。ただ、お父さんは元気か、お母さんは元気か、あなたは今、何をしているのかって、人のことばかり心配してね。でも聞かなくたってわかりました。幸せなら、あんなあばら家に住んで、あんなところで、働いている訳がありません」
沙那子さんが港で働いている姿は想像できた。でも、それは、何か希望に満ちて働いている沙那子さんの姿で、あれほど明るくて可憐だった沙那子さんが、疲れ果てたようにやつれて働いている姿は、どうしても想像できなかった。
「でもね、私がそんな風に思っていたら、小さな女の子がこっちへ向かって走ってきたんですよ。姉を『お母さーん』と大きな声で呼びながらね。姉はその子を抱き上げて、『鉄っちゃん、この子、私の娘!ユキ』って言ったんです。その時の姉は、それはもう、こぼれるような笑顔でした」
そう言いながら、鉄男さんも顔をほころばせた。目じりの皺に鉄男さんの優しさがにじみ出ている。その場の空気さえ明るく変わったような気がした。
「沙那子さんにお子さんがいたんですか?」
「ええ。かわいい女の子でした。目がくりっとしていてね。しかし、私が、『この子の父親は?』と聞いても、姉は首を横に振るだけでね、何も言いませんでした。姉は昔から頑固でしたから、私もそれ以上、何も聞きませんでした」
鉄男さんが移した視線の先を見ると、そこにはまだたくさんの雪が積もっていた。その雪に反射して入ってくる光が、この部屋を眩しすぎるほどに白く照らしていた。
「ということは、沙那子さんは、佐渡で知り合った人と一緒になって、そのユキちゃんという子を産んだあと、ユキちゃんの父親とは別れてしまったということでしょうか?」
「まあ、そうなんでしょうね」
「その後、沙那子さんとユキちゃんは、ずっと佐渡で暮らしたんですか?」
「いや、そこから先は、またわからなくなったんです。音信不通ですよ。私たちの父親が死んだ時にも連絡がつきませんでした。電話をかけてもつながらないし、手紙を出しても返ってこないし。結局、私はまた佐渡まで行って、あの家を訪ねてみたんです。けれどね、姉はもうその家には住んでいませんでした。近所の人に聞いてみても、みんな『ユキちゃんと一緒に何処かへ引っ越しましたよ』と言うだけで、どこへ行ったかわからなかったんです。姉の消息は、そこでぷっつりと途絶えてしまいました」
「でも、もう一度お会いになったんですよね」
「ええ。でも、それはもう、それから三十年もたってからのことです。ある日突然、姉から電話がかかってきましてね、会いたいっていうんですよ。私に。何処にいるんだって聞いたら、新潟の大学病院にいるっていうじゃありませんか。私はとるものもとりあえず、すぐに見舞いに行きました。病室に着きますとね、姉は寝ていましたよ。随分歳をとった姉がね、小さな顔をして寝ておったんです。姉は、私に気づきますとね、目に涙をいっぱいためて、『鉄ちゃん、来てくれたの?ありがとう』そう言いました」
「沙那子さんの具合はどうだったんですか?」
「良くありませんでした。癌でね。それで私を呼んだんでしょう。最後のお別れにね」
「あの、その時、沙那子さんの娘さん、ユキさんはいなかったんですか?」
「顔は合わせませんでした。でも、もう、結婚して子どももいると姉は言っていました。入院するまでは一緒に暮らしていたって」
「それで、沙那子さんとはどんなお話しをされたんですか?」
「それが、姉は、その場で私に手紙を一通よこしましてね。もし、庄吉に会うようなことがあったら渡して欲しいと言うんです。最後のお願いだからって」
「あの、その手紙、今は何処にあるんですか?」
「ああ、ほら、そこ。その引き出しに入っていますよ」
そう言って、鉄男さんは出窓に置いてある木製の古い小物入れを指さした。モダンな造りの部屋に、ただ一つだけぽかんと時代に取り残されたように存在するその小物入れは、きっとあの貧しかった昔のこの家にあったものなのだろう。
「あの、見せていただいて構いませんか?」
僕がそう尋ねると、鉄男さんは、
「いいですよ。どうぞ」
と言った。
鉄男さんの言うように、下から二段目の引きだしを開けると、そこには、古びた茶色の封筒がきちんと横に置かれていた。鉄男さんが初めて佐渡へ行ったとき、沙那子さんが二十五だったとすると、その三十年後、鉄男さんが新潟でこの手紙をもらったとき、沙那子さんは五十五才、今、庄吉さんや鉄男さんは、八十四才だから、二つ上の沙那子さんが生きていれば、八十六才になる。つまり、この手紙は、沙那子さんによって書かれてから、約三十年間ずっとここで、自分が行くべき相手に届けられるのを待っていたのだ。
封筒の表には、ブルーブラックのインクで、「岡崎庄吉様」とあり、裏には、「沙那子」とだけ書いてあった。封はしっかりのり付けされていて、手に持つと、それは、随分厚く、それに見合う重みも感じられた。これは、どうしても東京へ持って帰って庄吉さんに渡さなければならない、僕はそう思った。
「あの、鉄男さん、この手紙、僕に預けて頂けませんか?必ず、庄吉さんにお渡ししますから」
「ああ、そうして貰えるのならありがたい。是非お願いします。ずっと気がかりだったんです。私ももう、いつ死ぬかわかりませんからね。だけど、一つお願いしたいことがあるんですが」
「何ですか?」
「この手紙にどんなことが書いてあったのか、そして、それを読んだ庄吉がどんな様子だったか、私も気になるんです。できたら、手紙にでも書いて教えてくれませんか?」
「わかりました。お約束します。必ずお知らせします」
「申し訳ないです」
「いえ、とんでもありません。あの、その後、沙那子さんはどうなったんですか?」
「ああ、私が新潟からこっちへ戻ってきて半月くらいたった頃ですか。姉の娘、ほらユキっていう、その人から手紙が来たんです。姉が亡くなったってね。結局、私は、姉の死に目に会えませんでした」
「あの、お墓はどちらにあるのでしょうか?」
「佐渡です。姉は娘夫婦と新潟市内で暮らしていたんですがね、墓は佐渡につくって欲しいと生前言っていたようで。私も一度だけ、墓参りに行きました。姉と娘のユキが暮らしていたあのあばら家のすぐ近くの小さな寺にありました」
鉄男さんがそう言った時、携帯の着信音が鳴った。岬さんからのメールだった。
今どこですか?庄吉さんが危篤です。早く帰ってきて下さい。
岬
僕は、庄吉さんが危篤だと鉄男さんに伝え、急いで手紙を鞄にしまった。そして、「必ず連絡しますから」と言って、鉄男さんの部屋を出た。タクシーが来るのを待つ間、僕は、鉄男さんの家の住所と、沙那子さんのお墓の場所を春子さんに聞いた。




