第3話
翌日は雨だった。その日は、いつもより二十分早く部屋を出て営業所に向かった。自転車ならわずか五分足らずの距離でも、歩くとなると十五分以上かかる。寮なのだからもう少し近くにあればと思うのだが、月二万の家賃では贅沢は言えない。
事務所へ行く前に、駐車場に止めてある自分の車をチェックした。「6283」の無線番号が僕に割り当てられた車だった。その車を交替で使っている前橋さんは、スタンドで洗車を済ませてくるから、車内を点検する必要もない。仕事を始めたばかりの頃は、空いている車を使わせてもらっていたから、前に乗っていたドライバーによって洗車がいい加減だったり、灰皿の中が水拭きされていなかったり、車内が煙草臭かったりと面倒なことが多かった。
営業所を出ると、高田馬場駅に車を付けた。その日、最初に乗ってきたのは、ぱりっとしたスーツを着たサラリーマン風の若い男だった。
「霞ヶ関までお願いします」
男は礼儀正しくそう言うと、鞄から新聞を取り出した。霞ヶ関に行くのになぜわざわざ高田馬場でタクシーに乗り替えるのだろう。僕は、少し不思議に思いながらも車を出した。その日はひどい渋滞で、幹線道路はどこも車でびっしりだった。その様子を見て、男は新聞を傍らに置き、
「八時までにつきますかね?」
と言った。
八時まででは、たとえ道が空いていたとしても難しかった。
「いえ、この渋滞ですし、二十分では難しいと思います。お急ぎでしたらあのまま電車で行かれた方が早かったかもしれませんね」
その後、信号が青に変わったが、先がつかえていて交差点に入ることもできなかった。
「そこを何とかお願いしますよ、運転手さん。プロなんですから」
男はあくまでも丁寧な言葉遣いでそう言った。しかし、「プロなんですから」という一言は、ある種の威圧感を持って僕に脇道へ入る決心をさせた。僕は、信号が黄色から赤に変わる直前にハンドルを左に切り、一方通行路に入った。
「さすがはプロですね。こんな道、普通知りませんよ」
男は気を良くしてそう言ったが、順調に走っているように見えても、スピードは遅いし、距離的にも遠回りだったから八時に着くというのは土台無理な話だった。最初は余裕で新聞を読んでいた男も、八時まであと十分という頃になると、少しいらいらした様子で、
「今どこを走っているんです?本当に八時に着くんですか?」
と切り出した。
「まだ飯田橋の辺りです。八時はちょっと難しいですね」
そう答えると、男は身を乗り出すようにして、
「こんな訳のわからない細い道なんか使うからだよ。こんなことならあのまま大きな道を走っていればよかったんだ。知ったかぶりしやがって。ああ、もうどうしてくれるんだよ。会議が始まっちゃうよ」
と泣きそうな声で訴えた。そして、八時を十分程過ぎて霞ヶ関に着くと、
「こんなに遠回りしやがって、そんなに金が欲しかったのかよ。それなら、ほら、くれてやるよ」
そう言って彼は、千円札二枚と数枚の小銭を運転席に投げ付けた。僕は、散らばった小銭を拾いながら、平常心を取り戻そうと努力した。僕に向けられる憎しみや怨みや敵意は、僕から平常心を奪っていく。僕は、冷静になるために無理に推理をした。あの男は電車でそのまま行けば遅刻すると思ったからタクシーに乗り換えたのだ。そうすれば奇跡的に会議に間に合うかもしれないし、もし間に合わなかったとしても、それは無能なドライバーのせいにすることができる。それなら全てのつじつまが合うではないか。今頃彼は、遅刻した理由を無能なタクシードライバーのせいにして上司に報告しているのだろう。いいさ、それならそれで。あいつがどんなに狡猾で嫌なやつでも、もう二度と顔を合わせることなどないのだから。それがこの仕事の良いところではないか。僕は、自分で自分に言い聞かせるようにして、少しずつ落ち着きを取り戻していった。
僕らに敬語を使って話し掛けるような人間は、本当は心の中でさげすんでいるのだ。自分達が社会的に優位な立場にあるからこそ、まるで、貧しい国の子供たちに小銭を寄付するような気持ちで、礼儀正しく話しかける。人間なんてものは、自分よりも力のあるものには媚びへつらい、力のないものには、偉そうにしたり、残酷な仕打ちをしたり、時には優越感を感じながら丁寧に接したりするものなのだ。そして、その力というのは、社会的な身分や経済力であって、絶対に魂の崇高さなんかじゃない。