第28話
原宿駅から竹下通りに向かって左になだらかな坂を上っていくと、道は大きく右にカーブする。そこを道沿いに曲がらず、そのまま真っすぐに細い路地へ入ると、そこは驚くほど静かで、まるで数十年前の世界へタイムスリップしたかのようだった。そのギャップに戸惑いながら歩いていた僕は、やがて彼女の言った通り、右側のビルに、地下へと続く小さな階段を見つけた。大人二人がやっと並んで下りられるほどの狭い階段を下りると、そこに彼女と待ち合わせたカフェはあった。
ガラスと木枠でできた重い扉を引くと、店内は想像していたよりずっと広く、床もカウンターもテーブルも椅子も、全て濃い茶色の木で統一されていた。天井と壁には少しくすんだ色の漆喰が塗られていて、十席ほどのカウンターの中には、バーテンダーを思わせるような姿勢の良い男性が一人立っていた。ダブルカフスの白いシャツに黒いネクタイを締めた彼は、僕と目が合うと、「いらっしゃいませ」という穏やかな声と共に、本当に綺麗なお辞儀をした。バーならたくさんのボトルが並べられるべき彼の背後の棚には、色とりどりのカップが飾られていて、一つとして同じものはなさそうだった。しかし、テーブル席のプライバシーを守るために、フロアのところどころに置かれた観葉植物は、待ち人を探す僕を困らせた。観葉植物の陰の席を一つ一つ確認することをためらっていると、カウンターの男性が奥の席をさりげなく示してくれた。僕は、彼の手のひらの延長線上、一番奥の観葉植物に遮られた窓際の席に、こちらを見て小さく手を振っている彼女を見つけた。
彼女は、紺のセーラー服の上下にエンジのスカーフを結び、紺のカーディガンを着ていた。制服姿の彼女は、この前より何かとても幼く見えた。一見、どこにでもいるようなこのあどけない少女に、東京へ来てからの庄吉さんの半生を語るのは心が重かった。僕は、彼女と目を合わせぬように椅子に座り、平静を装って声をかけた。
「待った?」
「いえ。そんなことないです。桐野さん、迷いませんでしたか?ここ、わかりづらかったでしょう」
「いや。すぐにわかったよ。でも素敵な店を知っているんだね。良く来るの?」
「はい。ここ、好きなんです」」
そう言って微笑むときの彼女の表情は、本当に「眩しい」という表現がぴったり合った。
「そう。友達と?」
「いえ、本当は寄り道しちゃいけないんです。しかも制服だし。もし学校に知れたら大変なので、友達は誘えません。それに・・・一人の方がいいんです。一人でこうしていると落ち着くから」
背筋をピンと伸ばし、静かな声でゆっくりと喋る彼女とそうして向き合っていると、彼女の年齢を忘れそうになった。化粧もしていない。髪を染めてもいない。体にも持ち物にもアクセサリーのようなものは何一つつけていない。頭のてっぺんから足の先まで、彼女は完璧な優等生だった。それなのに、彼女は、制服のまま、しかも、一人でよくここへ来るという。ここでこうして一人コーヒーを飲む彼女と、いつか公園で無邪気にクリームパンを頬張っていた彼女は、僕の頭の中ではどうしてもうまく重ならなかった。重なるといえば、むしろ沙那子さんの方だ。僕は、大人びた彼女の内面と、庄吉さんに抱かれながらも悲しげに笑った沙那子さんを、まるで一つの人格のように重ね合わせて見ていた。
僕は、コーヒーを注文し、初めて彼女と目を合わせた。
「庄吉さんのことだったね」
「はい。お忙しいのにすいません」
「あの後、庄吉さん、東京に行ったんだ。仕事を探しに」
「そうですよね。この前、そこまで聞いたんです。でもその後、時間がなくなってしまって。あの時はすいませんでした」
彼女は、黒く大きな瞳で、僕を見つめながらそう言った。彼女はまっすぐに人を見る。きっと、誰に対してもそうなのだろう。そして、彼女にとって、それは当たり前のことなのだろう。でも実際、そんなふうに見つめられることなんて、そうある訳じゃない。
コーヒーを飲みながら、僕がそんなことを考えているなんて、彼女は思ってもいなかっただろう。
「庄吉さん、東京へ来てもいい仕事が見つからなくてね。そのうち、ふとしたことから地回りの男と知りあったんだ」
「地回りって何ですか?」
「一言で言ったらやくざみたいなものかな。闇市で店を開いている商売人から場所代というか、用心棒代というか、そういうお金をとるんだ。違法な商売をやっている訳だから、もし、何かあっても警察を呼ぶわけにはいかないよね。だから」
「無理矢理にお金をとるんですか?」
「そうだね。払わなければ店は開けないし、既にある店なら暴力的につぶされる」
「どうして庄吉さんがそんな人と知り合ったんですか?」
「庄吉さん、東京へ出てきても、何もいいことなくてね。仕事はないし、持っていたお金も騙し取られるし。それで、食べるものも食べられずに野宿していて、それでもう、情けなくて、このまま死ぬしかないのかな、なんて思った時、三島っていう人に助けられたんだ」
「その人がその地回りの人だったんですね」
「うん。でも、三島さんは人間的には優しい人でね、庄吉さんを家に連れて帰って、ご飯を食べさせてくれて、その後もずっと面倒みてくれた。何も言わずに何も聞かずにね」
「庄吉さんはその人が悪い仕事をしている人だって知っていたんですか?」
「いや。知らなかった。最初はね。でも、ずっと三島さんの世話になるうちに、だんだんわかるようになって、自然に三島さんの仕事を手伝うようになったんだ。もちろん、庄吉さんは好きでそんな仕事をやった訳じゃない。でもね、東京で、たった一人、住む所も食べるものもないどん底の生活をしている時に、初めて人の優しさに触れて、庄吉さんは本当にありがたいと思ったんだ。だから、どんなことでもいいから三島さんの力になりたいと思うようになって。恩返しみたいな気持ちかな。だけど・・・」
「だけど?」
「庄吉さん、人を刺したんだ」
僕がそう言うと、彼女は口を小さく開けたまま、人形のように静止してしまった。
「岬さん?」
彼女は僕を見つめたままだったが、目の焦点は僕に合っていなかった。僕は少し間をおいて、ゆっくりと話を続けた。
「縄張り争いがあってね、三島さんが刺されそうになって、それで庄吉さんが、相手が持っていた刃物を取り上げて、それで・・・。」
もう「刺した」という言葉は使いたくなかった。その言葉は、車椅子に乗っているあの庄吉さんしか知らない彼女の前では使ってはいけない言葉だと思った。
「相手の人はどうなったんですか?」
消え入るような声で、彼女はそう聞いた。
「亡くなった」
僕はそう答えた。そう答えるしかなかった。彼女の落胆と動揺は、彼女を見なくても手に取るようにわかった。
ふと、窓の外を見ると、さっき下りてきたコンクリートの階段に日が差しこんできていた。僕は、ただ、その日差しをぼんやりと眺めていた。やがて、その日差しが、窓辺にまで伸びてきた頃、彼女は喋り出した。
「庄吉さんはどうなったんですか?」
「庄吉さん、刑務所に入ったんだ。十年間。庄吉さんが出所する頃には、三島さんは自分の組を一つ持っていてね、庄吉さんは三島さんの右腕としてその組に迎えられることになって、それで・・・」
「桐野さん、すいません。沙那子さんはどうなったんですか?」
彼女が僕の話に割って入るなんて初めてのことだった。彼女はその時、庄吉さんというよりはむしろ沙那子さんに感情移入していたのかもしれなかった。
「庄吉さん、沙那子さんへは刑務所から手紙を書いて出していた。なぜ恭二郎さんが亡くなったのかも全部正直に書いてね。自分はもう沙那子さんと一緒になれるような人間じゃないから、自分のことは忘れてくれって、そう書いて」
僕がそう言った時、彼女は鞄を引き寄せ、何かを取り出そうとした。でも、そうしているうちに、彼女の目から大粒の涙がこぼれ出て、テーブルの上に落ちた。彼女は、取り出したハンカチを目の下にあて、そのあとテーブルの水滴を拭いた。
「すいません、私・・・ごめんなさい。それで、その後、庄吉さんと沙那子さんはもう会えなかったんですか?」
「うん。でも、庄吉さんの心の中にはずっと沙那子さんのことしかなくて、結局、庄吉さんは、今まで一人の女性と付き合うことなく、たった一人で過ごしてきたんだ。私生活ではずっと一人だった」
「老人ホームに来る前の庄吉さんはどんな暮らしをしていたんですか」
「三島さんが病気で亡くなった後、庄吉さんが組を継ぐことになってね。麻薬、賭博、売春、暴力、悪いことにはほとんど手を染めた。お金も十分すぎる程手に入れた。でも、庄吉さんの心の中にはいつでも沙那子さんがいて、歳をとるごとにそれがやりきれなくなったんだ。お金があればあるほど、そのお金と引き換えに沙那子さんを失ったような気持ちになってね。それで、ある時、全てを投げ出してしまった。老人ホームに入るために必要なお金だけを残して」
「そうやって庄吉さん、今のホームにきたんですね」
「そうだね」
「庄吉さんは、結局、お金以外、正しい生き方も、沙那子さんも、どちらも手に入れることができなかったんですね」
彼女はずっと目を伏せて、しばらくそのままじっとしていた。何かを考えているのか、そうでないのか、僕にはわからなかった。僕はその時になって初めて、他のお客さんが話す声や、コーヒーカップがたてる音が意外に大きいことに気がついた。
「沙那子さんはどうなったんでしょう?」
「それは、わからない。庄吉さんにもわからないことは当然僕にも」
「そうですよね。変なこと聞いてすみません」
彼女はそう言うと、両手でカップを包むようにして、もうとっくに冷めてしまっているコーヒーに口を付けた。僕も何を話して良いかわからず、彼女と同じように、やはり冷めたコーヒーを口に運んだ。それはきっととても美味しいコーヒーだった筈なのに、僕にはその苦ささえ、感じることができなかった。
「私、新潟に行ってきます」
彼女は突然そう言った。僕には最初、彼女が何を言っているのかわからなかった。
「新潟に行くって、なぜ?」
「沙那子さんの消息を調べたいんです。だから鉄男さんの家に行ってきます。もしかしたらそこに住んでいるかもしれないし」
「どうしてそこまで?」
「庄吉さんの人生って、このままじゃあんまりじゃないですか。庄吉さん、若い頃、一生懸命に生きてきたのに。何も悪いことなんかしてないのに。それなのにどうしてそんな人生になってしまったのか納得出来ないんです。庄吉さん、きっと、もうそんなに長くないと思います。だから、早く沙那子さんの消息を突き止めて、もし少しでもいいことが見つかったら、庄吉さんに伝えてあげたいんです」
「岬さんの気持ちは良くわかるよ。だけど、ディズニー映画みたいに、美しい心の持ち主が最後は必ずハッピーになるなんて、現実はそんなにうまくいかないんじゃないかな。それに、もし沙那子さんが他の誰かと一緒になっていて、庄吉さんとは真逆みたいな幸福な人生を送っていたとしたら、それは、庄吉さんにとって嬉しいことなのかな。どんなことが庄吉さんにとって、良いことなのか想像がつかないよ。沙那子さんにとっても、庄吉さんとのことは、もう思い出したくない過去になっているかもしれないし」
普段は自分が悩み苦しんでいることなのに、反対の立場になると、大人の論理がいかに単純で使いやすいものかよくわかった。しかし、その時の僕は、彼女にそう伝えることが正しいことだと本気で思っていた。
「桐野さんは本当にそう思っているんですか?私、てっきり桐野さんも私と同じように思っているんだと思っていました」
彼女の落胆は、僕をも落胆させた。それでも僕は彼女の説得を続けた。
「岬さん、僕はこれまでの人生の中で、今の君と同じように考えたことがどれだけあったかわからない。でも、期待通りになったことなんて一度もなかった。くやしいけど、最終的に人は皆、自分が一番かわいいんだ。あるときは人を踏み台にして、あるときは人を傷つけて、その挙げ句、その卑劣さに気づかぬふりをしたり、気づいても、あの時は誰だってああするしかなかったさ、なんて自分の罪が少しでも軽くなるように自分で自分に暗示をかけたりして、富や、地位や、名誉や、そして愛する人までもそうやって手に入れていく。僕には、それがやりきれない程汚く見えたんだけど、世の中全体から見れば、そんなふうに感じるヤツは少数派で、さっき言ったような大人たちがスタンダードなんだ。結局、異端児は大きな社会や組織からはドロップアウトせざるを得なくなる。だから庄吉さんの人生もあんなふうになってしまったんじゃないかな。庄吉さんも異端児だったんだよ。君もいつまでも庄吉さんや僕みたいに夢ばかり追い求めていると、いつかは一人ぼっちにな
ってしまう。それに、新潟へ行って、もし酷い現実を知ったら、君は傷つくに決まっている」
彼女は、ハンカチを目にあてながら、黙って僕の話を聞いていた。
「桐野さんも、ずっとつらい人生を生きてきたんですね。でも、私も似たようなものです」
彼女が、制服姿で、一人でここへ座ってる姿が目に浮かんだ。たった十七の少女が、「僕と似たような人生」を生きてきた・・・。どういう意味だろう。僕は、彼女の中に潜む「陰のようなもの」を見逃してきたのかもしれなかった。そして、それを、「大人びている」と、見間違えたのかもしれなかった。
「でも私は新潟へ行きます。その結果、何もいいことがなくても、つらい現実を目の当たりにしても、私は傷つきません。いえ、たとえ、傷ついたとしても、それはそれでいいんです。だって、そうしなかったら、私は私でなくなってしまいますから。どんなに傷ついても、私は私のあるべき人生を歩んでいきます。それに、この件に関して、私のことなんて関係ありません。いいことなんて一つもなかった庄吉さんの人生に、たった一つでもいいから、庄吉さんに喜んでもらえるようなことが見つかればそれでいいんです。もし、庄吉さんにとって良くないことしかなかったら、庄吉さんには何も話しません」
彼女のゆるぎない純粋さと強さの前に、僕の無力さと不純さは一層際立った。そんな望みなど叶うはずないと思いながら、僕は一方で、希望を取り戻したいと思いに支配されつつあり、その思いはあっという間にむくむくと巨大化し、遂に我が魂を占領してしまった。




