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第23話

 家に帰ると長男の秀太郎が庄吉を待っていた。秀太郎は庄吉よりわずか数日早く復員してきていた。憲兵だった秀太郎は家族の誰にも自分がどこにいたのか、何をしていたのか、全く語ろうとしなかった。

「どこへ行っていた?」

 秀太郎が憲兵らしい物言いで尋ねた。

「高村様のお屋敷に」

「高村様のお屋敷に何の用があったんだ?」

「恭二郎さんの遺品を届けてきた」

「そうか。ちょっとお前に話がある。ここへ来て座れ」

恐ろしいほどの秀太郎の威厳に気圧されるように、庄吉は秀太郎の正面に正座をした。「親父のことだ。よくないらしい。医者はもう長くないだろうと言っていた」

 庄吉の父は小出の病院に入院していた。庄吉も帰ってきたその日に見舞いに行ったが、父は見る影もなく痩せ衰えていた。故郷に帰れば母の優しい笑顔が見られると、ただそれだけを心の支えにして、やっとここまでたどり着いたのに、自分を待つ母はもうこの世にはいなかった。あの笑顔を見ることは二度とないのだと思うと、やりきれなさで胸が潰れそうになった。そして、それだけでなく、あれほど力強かった父までもが変わり果てた姿になっていたのだ。父は布団の中から骨ばかりの手を出すと、庄吉の手を握り、

「よく無事で帰ってきたのう」

 と涙をこぼしながらそう言った。庄吉はその時初めて、父が洪作の手紙を読んだとき、「すぐに帰って来るように手紙を書いてやれ」と言った父の優しさが理解できた。そしてその父の言葉に頭を下げた母の気持ちがわかった。自分はなんと愚かだったのだろう。庄吉は自分の不甲斐なさが情けなかった。

「医者が言うには手術をしてもしなくても先は長くないらしい。お前はどう思う」

「どうって?」

「手術をするかしないかだ」

「だって手術にはえらい金がかかるんだろう?ウチにはそんな金なんかないて」

「金か。金のことなら心配ない。だとしたらどうだ?」

「そりゃあ金があるんなら手術を受けさせてやりてえ。たとえ一分の可能性でもあるんなら。だけど、そんな金どこにあるんだ?」

「小出の駅に俺が持ってきた貨車がある。その中のいくらかを売れば十分だろう。明日、お前が行って適当にさばいてこい。買い叩かれないようにな。まあ、俺の名を言えば大丈夫だ」

「さばくって、兄ちゃん、中身は何なんだ?」

「色々だ。靴やらズボンやら缶詰やら、生活に必要なものは何だってある。今ならみんな喉から手が出るほど欲しいものだ。きっと高く売れるだろう」

「だけど、日本中、物が無くて困っているのに、どうしてそんな物、持ってこられたんだ?」「庄吉、俺は憲兵だぞ。お前たち兵隊とは訳が違う。もうそれ以上くだらんことは聞くな」「兄ちゃん、それは兄ちゃんのものなのか?そうじゃないだろう?それは日本中の人達の血と汗の結晶じゃないのか?」

「わかったようなことを言うな。あれは、ほとんどアメリカから手に入れたものだ。余計な心配をするんじゃない」

「アメリカ?今まで戦っていたアメリカからもらってきたのか?オレは仲間を何人もアメリカに殺されたんだ。恭二郎さんだってそうだ。兄ちゃんはそんなアメリカにしっぽを振ってご褒美をもらってきたっていうのか?」

「庄吉、お前はいつからそんなに偉くなった。オレがアメリカにしっぽを振っただと?しっぽを振ろうが振るまいが、そんなことに何の意味がある。意味があるのは、あれだけのものを持ってきたという事実だけだ。そして、それを売った金があればオヤジの命を救えるかもしれない。違うか?お前はきれいごとを並べて気持ちいいかもしれないが、いったいお前に何ができるというんだ。何もできやしないだろう。お前にオヤジの手術代が工面できるとでもいうのか?お前はオヤジを助けるどころか、自分の食いぶちだって稼げやしないじゃないか。自分の生きる術さえ持たないお前が、いったいオレにどんな説教をしようというんだ?いいか、庄吉。金にきれいも汚いもない。金があれば飲むことも食うこともできる。立派な教育だって受けられる。手術だって受けられる。結局、命だって金で買うことができるんだ。わかったか?わかったらお前は黙って俺の言う通りにしろ」

 冷静だが有無も言わせぬ秀太郎の物言いに、庄吉は何も言い返すことができなかった。確かに今の自分には何もできない。「命だって金で買える」それは庄吉の目の前に叩きつけられた厳然たる事実だった。庄吉は、黙って唇を噛み、悔し涙に滲んだ目で、ただじっと畳の縁の辺りを睨んでいた。

 翌日、庄吉は、大八車を引き、一人黙々と小出の駅へ向かっていた。口をへの字に曲げ、噴き出す汗を拭こうともせず、大八車の車輪が石ころに当たって大きな音を立てても、振り返ることすらしなかった。空は青く澄み渡り、どれだけいるかわからない赤トンボの群れが庄吉を横切って金色の田んぼへと飛んでいく。

「俺は憲兵だぞ。お前たち兵隊とは訳が違う」

 昨日の秀太郎の言葉がずっと耳から離れなかった。いったい何が違うというのだろう。確かに、秀太郎は貨車一杯の土産を持ってきたかもしれない。それに比べて自分が持って帰った物といえば、たった一対の松葉杖だけだ。しかし、国のために命懸けで戦ってきたのは同じではないか。

「お互い大変だったなあ。無事に戻れて本当に良かった」

 どうして兄はそう言ってくれないのか。自分が兄だったら絶対そう言うに決まっている。秀太郎はきっと兵隊だった自分を見下しているのだ。そうに違いない。そう思うと、まるで何匹もの凶暴な蝮が腹の中で暴れ狂っているかのように、庄吉の身体は熱くなった。庄吉はそんな思いを振り払おうと、それまでにも増してもの凄い勢いで大八車を引いた。


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