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第22話

 少し欠けた月が手を繋いで仰向けに並んでいる二人を照らしていた。

「庄ちゃん、酷いね、私。恭二郎さんが亡くなったばかりだっていうのに。私、まだ恭二郎さんの婚約者なのに。これから、私たち、どうなるのかな。きっとばちが当たるね。でも私、いいんだ。どうなっても。もういいの」

 沙那子の横顔は異様に白く見える雲の切れ間から注ぐ月の光に照らされて、冷たいほどにはかなく、そして美しく見えた。

「何言ってるんだよ、沙那ちゃん。そんなことなんかないて。オレ、明日、これを届けに高村さんのところへ行ってくる。そうしたらじき、沙那ちゃんと恭二郎さんの婚約も解消されるだろう。そうして、少し時間がたったら、オレたち一緒になろう。ここが居づらかったら、東京でも何処でも行けばいい。オレ、一生懸命働いて沙那ちゃんを幸せにするから」

 庄吉が右手に銀時計を、左手に沙那子の手を握りながらそう言うと、沙那子は庄吉を見つめた。そして、悲しげに笑った。



 高村家の門は、相変わらず無防備に開け放たれていた。門をくぐるとすぐに、門番の秋田犬が立ち上がって吠えかかろうとしたが、秋田犬は鼻をひくひくさせて庄吉の匂いを確認すると、元の居場所に戻ってくるくると回り、どすんと音をたてて寝転んだ。たった二度きりしか来たことのない自分の匂いを覚えていたのか、それともただ年老いてしまっただけなのか、そんなことを考えながら、庄吉は大きな声で「ごめんください」と屋敷に向かって声をかけた。しばらくするといつかの老人が縁側から姿を現した。

「おお、お前は村上の庄吉じゃないか。帰ってきたのか?」

「はい。昨日帰ってきました。お元気でしたか?」

「ああ、わしは元気だ。わしは元気だどもな・・・。恭二郎はどうしているものやら。そういえばお前は同じ船に乗っていたんだったのう?」

「ご存知でしたか」

「ああ、恭二郎が何度も手紙に書いてよこしとる。何か恭二郎のことを知らんか?」

 老人は、目を見開いて庄吉にそう尋ねた。

「恭二郎さんには本当に良くして頂きました。実は・・・実はご隠居様、今日は恭二郎さんの遺品をお持ちしたんです」

「遺品?遺品じゃと?恭二郎は死んだのか?」

「はい。今年の七月十八日に」

「死んだ?恭二郎が・・・戦死したのか?」

「はい・・・」

「恭二郎が死んだ・・・恭二郎が・・・」

 老人は消え入るような声でそう言うと、縁側にへたり込んでしまった。

「大丈夫ですか?ご隠居様」

 そう言いながら庄吉が老人の体を支えると、

「大丈夫じゃ。すまんのう。覚悟はしとったんじゃ。しとったんじゃがのう。いざ聞いてみると、体の力が抜けてしもうたわ。いや、もう大丈夫じゃ。それで、遺品というのは何かのう?」

「これを」

 庄吉はそう言って、銀の懐中時計を老人に差し出した。

「おお、これか。これは恭二郎が大学に合格して東京へ出る時、わしが買ってやったものだ。間違いない。懐かしいのう。お前はこれを届けにわざわざここへ来てくれたのか」

 老人の目は涙に潤んでいる。

「はい」

「そうか。そうだったか。ご苦労だったのう。まあ、ここへ来て座れ」

 庄吉は老人の言う通りに老人の横に腰掛けた。

「前に来たときも、お前はそこに座っておったのう。あの時と比べると随分頼もしくなったものだて。善三もさぞ喜んどることじゃろう」

「自分だけが生きて帰ってきて申し訳なく思います」

「いやいや、そんなことは気にせんでいい。人間ばかりじゃなく、全ての生き物は皆、それぞれ寿命というものを持って生まれてきておる。犬や猫なら十五年、蝉は地上に出てから一週間じゃ。人間は・・・人間はどれくらいかのう。七十年くらいかのう。したがわしはもう八十になるのにこうしてまだ生きておるわ。こんなわしが生きておってお前のような若いのが死ぬのは不自然じゃろう。何事も順序というものがあるものだて」

「しかし、恭二郎さんは亡くなってしまいました・・・」

「うむ。小さな虫が蛙に食われたり、蛙が蛇に食われたりするのは自然の道理じゃ。人が病気で死ぬのもこれは仕方がない。したがのう、庄吉。戦争なんてものを起こすのは人間しかおらん。同類が同類の命を奪うなどということはあってはならんことじゃ。それはもう、自然の道理とは言えんからのう。他の生き物に戦争するものなどおらんじゃろう。それはなあ、人間の思い上がりというものじゃ。なのに、恭二郎は自分から進んで戦争に行きおった。婚約もしたというのになあ。誰一人として、人に殺される運命を持って生まれてくる人間などおらん。だからお前は死ななくて良かったんじゃ」

 庄吉は、最愛の孫を失った老人からその言葉を聞いて思わず嗚咽しそうになった。この老人が父親を早くなくした恭二郎のことをどれだけ愛して育ててきたか。それはこの辺りに住む者なら知らぬ者はいない。

「恭二郎は最期にどうやって死んだのかのう。お前はそれを知らんか?知っていたら、老い先短いこのじじいに教えてくれんかのう」

庄吉はしゃくりあげるのをこらえ、辛うじて話し始めた。

「恭二郎さんは、恭二郎さんは、私を助けようとして敵に撃たれたんです。私が足を負傷して歩けないでいると、恭二郎さんがやって来て、オレにおぶされ、と言って私を背負ってくれました。でも、少し歩いたかと思うと、向こうから敵機が飛んで来て、そいつが急上昇したと思ったら、恭二郎さんと私は甲板に倒れていました。私は、何が起こったのかわからなくて、恭二郎さんの名を呼びながら恭二郎さんを抱き起こしました。そうしたら、私の手は血だらけになっていたんです。それは・・・それは恭二郎さんの血でした。良く見ると・・・敵の撃った弾が・・・恭二郎さんの脇から脇へ突き抜けていたんです。すみません・・・本当に申し訳ありませんでした」

 庄吉はそう言うと、地面にはいつくばるようにして土下座をした。

「庄吉、そんなことをはせんでいい。早くここへ座れ。そうか。そうだったか。恭二郎は人として立派に死んだんじゃのう。おかしなもんじゃ。わしはさっきまで、戦争なんてものに行って、同類同士殺し合う人間を愚かなものだと思っていたが、今は恭二郎の死に方を誇りに思うておる。美しいとさえ思うとる。勝手なもんじゃのう」

 そう言って老人は目に手拭いを当てた。

「庄吉よ、お前は申し訳ないなどと思わなくていい。弾がほんの少しずれていればお前が死んでおったんじゃ。お前も命をかけて戦っていたんじゃからのう。それに、恭二郎は本望だったろう。あいつはお前のことを弟のように思っておったんじゃから」

 老人はそう言って立ち上がると、三通の手紙を手に戻ってきた。

「さあ、これを読んでみい」

 庄吉は目を閉じて手紙に一礼したあと、便箋を取り出して読み始めた。

「どうじゃ、最初、お前と初めて会った時は相当嬉しかったんじゃろうなあ。読んでいて浮き立つような恭二郎の心が手に取るように伝わってくるわ。二通目も三通目も書いてあるのはお前のことばかりじゃろう。爆雷を海に投下して水兵に魚を捕らせたときに、お前が一番大きなマグロを捕ってきたことやら、お前に将校の食べる菓子をやったら子どものように喜んだことやら」

 庄吉は二通目を読み終えると、もう三通目は読めなくなってしまった。涙がとめどもなく溢れ、嗚咽どころではなく、声をあげて泣いた。手紙を読むとその時の恭二郎の声や表情がありありと目に浮かんでくる。恭二郎から菓子をもらった時、それをポケットにしまおうとすると、

「なぜ今ここで食べないんだ?」

 と恭二郎は聞いた。庄吉が、

「仲間にも分けてやりたいんです」

 と言うと、

「お前はいいやつだなあ」

 と、恭二郎は本当に嬉しそうな顔をして笑った。

 爆雷を投下して浮き上がったマグロをボートで捕って来たとき、恭二郎はこう言った。

「オレは艦長に、あの水兵を見ていて下さい、きっと大物を捕まえてきますから、と言ったんだ。そうしたらどうだ、お前は本当に見事なマグロを捕ってきた。艦長が、あれはお前の知り合いか?とお尋ねになるから、オレは、はい、同郷の者で私の弟みたいなものです、とお答えしたよ。お前のお陰でオレは鼻が高かった」

 その時の恭二郎は本当に誇りに満ちた顔をしていた。強がるだけで、何をやっても中途半端な自分を、恭二郎は本当に心から愛してくれた。庄吉は今更ながらにそれに気付き、自分の命と引き換えに恭二郎の命が奪われたことが悔しくてならなかった。しかし、考えてみればその恭二郎が愛した沙那子を、自分は我が物にしようとしているのだ。そう思うと、庄吉は老人の顔を直視できなくなった。それなのに、

「お前は恭二郎のためにそんなに悲しんでくれるのか。ありがたいことじゃ」

 何も知らない老人はそんなことを言う。庄吉はさすがにいたたまれなくなって、「まだゆっくりしていけ」と言う老人に別れを告げ、逃げるようにして屋敷を後にした。


 

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