第21話
庄吉は、八畳間の隅の柱に背をつけ、膝を曲げて座っていた。そして、胸のポケットから取り出した銀時計をながめながら、それを自分に渡した時の沙那子の顔を思い浮かべていた。沙那子はなぜあれほど悲しげな表情をしたのだろう。高村家の人間として、いや、高村恭二郎の正妻として、恭二郎の死を悼むことができない自分の身の上が悲しかったのだろうか。それとも、愛する婚約者の死がただひたすら悲しかったのだろうか。しかし、それは大した問題じゃない。いずれにせよ、それは、高村恭二郎の死に対する沙那子の感情であって、そこに自分が介在していないのは確かなのだ。それは仕方のないことだと頭ではわかっているのに、何処からか面白くない感情が湧き上がってくる。結局、自分は、沙那子の心の中が己のことで満たされるのを願っているだけではないか。恭二郎が命の恩人であるにもかかわらず、自分は恭二郎に嫉妬しているのだ。庄吉は、そんな自分の感情を打ち消すように、パチンと音をたてて、銀時計の蓋を閉めた。
外から聞こえてくる雨音は、激しさをどんどん増していた。びゅうびゅうと風がうなり、何かが飛ばされてガシャンとどこかにぶつかる音がした。そんな中を、バシャバシャと、まるで悪魔が走ってやってくるような足音が近づき、玄関の引き戸が乱暴に開けられた。
「庄ちゃん、いるか?」
そこにはずぶ濡れの鉄男が立っていた。鉄男の顔は蒼白で、何かしら尋常でないことが起こったのは明らかだった。そして、それが沙那子に関わることではないかという予感に、庄吉の背筋は凍りついた。
「どうした、鉄ちゃん、こんな嵐に?」
「姉ちゃんがいねえんだ。こんな夜にどっかへ行ったきり帰ってこねえんだ!」
その瞬間、庄吉は沙那子が破間川にいるのではないかと思った。そこに身を投げる沙那子の姿が目に浮かんだのだ。
「鉄ちゃん。オレは破間川に行ってみる。鉄ちゃんはもっとみんなに知らせろ」
庄吉は、そう言うや否や草履を突っ掛けて、弾け飛ぶように外へ出て行った。
いつもの数倍にもなっている破間川の濁流は、ごうごうと物凄い音をたて、近づくのも恐ろしい程だった。庄吉はひどい雨と風に行く手を掴まれながらも、いつか沙那子と肩を並べて座った場所を目指して走った。立て続けに目も眩むような稲妻が光り、天地が裂けるのではないかと思うほどの雷鳴が轟いたが、そこへ着いた途端、周囲の時間が止まり、庄吉は聴覚を失った。
沙那子は、庄吉のいる土手の対岸に立っていた。もんぺに白いブラウスを着た沙那子の姿が、ぼんやりと青白く浮きあがって、まるで幽霊が立っているように見えた。庄吉が声を出すのも忘れて沙那子を見ていると、沙那子が気付いたように顔を上げた。無音の中で荒れ狂う激流に隔てられ、二人は少しの間見つめ合った。そのあと、沙那子は少し笑った。そして手を胸の辺りまで上げてほんのわずかに振ると、沙那子は何のためらいもなく川に飛び込んだ。
その瞬間、庄吉の聴覚は蘇り、荒れ狂う川音と轟く雷鳴が再び庄吉の鼓膜を貫いた。そして、庄吉もまた、躊躇なく川へ飛び込んでいた。庄吉は前方に浮き沈みする沙那子の頭を見ながら、流れに身をまかせて少しでもそれに近づくように泳いだ。目前に死があるというのに、心は不思議と冷静で、少しも恐ろしくはなかった。それどころか庄吉は嬉しかった。かつてまむしに噛まれた時のように、このまま死ぬのも悪くないと思った。戦争では、死んでも仕方がないと自分の命を諦めていたが、その時は、沙那子のために自分の命を使えることが嬉しかった。戦争なんかよりも、沙那子を助けるために死ぬ方が、自分の命がずっと価値あるもののように思えた。そして、自分と沙那子が助かるかどうかは、もはや自分の力の及ぶところではなく、運命でしかないと思った。
(ここでもし助かったら、きっと沙那子にもう一度自分の気持ちを伝えよう)
「沙那ちゃん!」
沙那子の頭が目前に迫ったとき、庄吉はそう叫びながら手を伸ばした。しかし、沙那子の頭は闇に吸い込まれるように真っ暗な水の中へ沈んでいった。庄吉も反射的に潜り、ただやみくもに水の中で手を振り回した。息が尽きかけ、意識が遠のいていったとき、庄吉は右手に沙那子の髪が絡みついたのを感じた。庄吉はその髪を握り、力任せに引き寄せ、左腕を沙那子の首にかけると、水面に向かって思い切り水をかいた。水面から顔を出した庄吉は、いやというほど水を飲み、ひどく咳込んだ。沙那子はぐったりとして意識がない。
「沙那ちゃん、沙那ちゃん」
庄吉が大声で何度呼んでも、沙那子は返事をしなかった。沙那子が息をしているのかどうかもわからぬまま、庄吉は必死に流れのゆるい岸側へと近づいていった。沙那子を蘇生させるなら一刻も早い方がいい。そんな焦りと、無理に流れに逆らって泳いではいけないという冷静さが頭の中で渦を巻いた。しかし、少しすると、川幅が広がり、水の流れが少し弱まった。ようやく川の端にたどり着いた庄吉は、片手で土手に生えている葦をつかみ、もう一方の手で沙那子を土手に押し上げると、自分は土手にへばりつくようにして這い上がった。そして、上から沙那子の両脇に手を差し入れ、沙那子を安全な場所まで引き上げた。それが終わったとき、庄吉は、もう立つことさえまともにできない程、疲れ果てていた。それでも、
「沙那ちゃん、沙那ちゃん!」
そう叫びながら、うつ伏せに寝かした沙那子の背を押し続けると、沙那子は口から大量の水を吐き、苦しそうに喘いだ。最初は引き付けを起こしたように、息を吸うこともできなかったが、徐々に呼吸が落ち着いていった。
「沙那ちゃん、大丈夫か?」
「庄ちゃん」
「沙那ちゃん、何でこんなことしたんだ!何で?何でだ?恭二郎さんが死んだのがそんなに悲しかったのか?そんなに恭二郎さんのとこに行きてえのか?オレには死ぬなっていったくせに、自分はオレをおいて死ぬつもりだったのか?ひでえじゃねえか、沙那ちゃん!」
雨が滝のように二人の顔に叩きつける。
「ごめんなさい、庄ちゃん。でも私、仕方がなかったの。こうするより仕方がなかったの」
「仕方がないってどういうことだよ。オレには何のことかまるでわからねえ。どういう意味だよ、沙那ちゃん!」
「庄ちゃんが好きなのよ!私は恭二郎さんの婚約者なのに、庄ちゃんのことが好きなの!婚約をする前から!本当は恭二郎さんが戦死したことが悲しくなきゃいけないのに、ああ庄ちゃんじゃなくて良かったって思ってしまったの!私、ひどい人間だわ。だからあの銀時計だって貰う資格なんてないし、生きている資格もないのよ。私が正妻じゃないからなんて嘘なの。本当は庄ちゃんのことが好きなのに、恭二郎さんの形見なんてもらえるわけがないじゃない!」
そういうと沙那子は土手に突っ伏すようにして泣いた。庄吉は沙那子を起こして抱きしめた。
「沙那ちゃん、オレも沙那ちゃんのことが好きだ。昔からずっと。そんなことわかっているだろう?だけど、沙那ちゃんはオレなんかと一緒になるより、恭二郎さんと一緒になる方がずっと幸せになれるって、そう思ったから諦めたんだ。沙那ちゃんにとっても、鉄男にとってもそれが一番いいんだって。沙那ちゃんだってそう思ったから、あの時ここでオレが好きだって言わなかったんだろう?」
「そう、確かにそうだわ。だけど、だけど、私は心からそうは望んでいなかった。自分でもどうしていいかわからなかったのよ。なのに庄ちゃん、私を置き去りにして戦争に行ってしまった。私は恭二郎さんの婚約者なのに、いつも庄ちゃんのことばかり考えてた。その度に酷い女だって自分で自分を責めてきた。そしてその最後が今日。恭二郎さん、とてもいい人だったのに。とっても優しい人だったのに!」
「もういい。もういいて、沙那ちゃん。それ以上何も言うな」
庄吉はそう言うと、自分の唇を沙那子の唇に押しあてた。ずっと抑えていた感情が堰を切ったように溢れてくる。庄吉はもうそれをどうすることもできなかった。そして、そうやって激しく沙那子を求めながらも、庄吉は心のどこかで不安を感じていた。沙那子を抱き締めれば抱き締めるほど、もっと強く結ばれたいという思いに駆り立てられる。肌を重ねれば重ねるほど、もっと身体の隅から隅までで沙那子を感じたいという気持ちでいっぱいになる。結局、どんなに沙那子を強く抱いても、この気持ちが満たされることなどないのではないか。そして、いつか沙那子は自分の手をすりぬけて何処かへ行ってしまうのではないか。稲妻が光るたびに、沙那子の華奢な肩が青白く輝き、白く膨らんだ胸が妖しく揺れた。庄吉は、その不安を振り払うように、ただがむしゃらに沙那子を抱いた。




