第2話
新しい視線の先には、車椅子を押しながらこちらへやって来る少女があった。白い看護士のような制服の上にくすんだ藤色のカーディガンを羽織った彼女は、老人に何か話しかけながら車椅子を右に寄せた。が、その時、車椅子の前輪がアスファルトの道から植え込みに落ちてしまい、もうそれからは押しても引いても、どうにもならなくなってしまった。彼女は、自力で抜け出すのを諦め、誰か助けはいないものかと辺りを見回したが、周囲にそれにかなう人影はなく、ついにコーヒーをすする僕を見つけた。彼女は、こちらへ走ってやってくると、
「すいません、車椅子が動かなくなってしまったんですけど、手伝って頂けませんか?」
と言った。
僕は、彼女と並び、車椅子に座る老人のもとへ走った。その時にはもう、さっきの女の子のことなど、僕の頭からはきれいになくなっていた。
屈んで車椅子の車輪を持ち上げ、何とか車輪をもとのアスファルトに戻すと、その少女は、
「どうもありがとうございました」
多分そう言ったのだと思う。はっきりとそれが聞き取れなかったのは、その時の僕が戦争の真只中にいたからだ。
目の前にあるのは三連装の対空機関銃で、僕は必死になって、弾丸の入ったカートリッジをひたすら着脱していた。一度装着したカートリッジは、射撃手が引き金を踏むと、ほんの数秒で打ち尽くしてしまう。無論、発射された弾が次々に襲い掛かってくる敵機に当たったかどうかなど確認している余裕などはない。とにかく僕は、射撃手が打ち尽くした弾丸のカートリッジを取り外し、また新しいものを装着する行為を狂ったように繰り返し、旋回手も射撃手も、ただ自分に割り当てられた仕事を無心でこなし続けていた。
そのうちに、こちらへ飛んでくるアメリカの戦闘機が、腹に抱えていた爆弾を随分遠くで落とした。その瞬間、「あれは当たる!」僕はそう直感した。夢中で何かの物陰に隠れた途端、「ヒュー」と笛の鳴るような音がしたかと思うと、雷が落ちたような凄い音と衝撃が僕を襲った。その後、恐る恐る辺りを見回すと、そこに有ったはずの全てものがなくなっていた。三連装の機銃も、そこにいた仲間も、もうそこには存在しなかった。そして、立ち上がろうとすると、なぜか僕は尻もちをついた。不思議に思って自分の身体を確かめると、左足が夥しい血で染まっていた。僕は、持っていた手拭いで膝の上を縛り、そこに止血用の棒を通してぎりぎりとねじった。
「あの・・・大丈夫ですか?」
気がつくと、僕は、車椅子の横にしゃがみこむようにして、藤色のカーディガンの少女がそう問い掛ける声を聞いていた。またあれが起こったのだ。そうはわかっても、目にした光景があまりに凄惨だったために、正気に戻るのには少し時間がかかった。
「すいません。大丈夫です。あの、誰か僕の体に触りましたか?」
思わず自分の足に異常がないかどうかを確かめながらそう聞いた。幸いにも、ついさっきまで血みどろだった筈の左足は、何事もなかったようにしっかりとアスファルトの地面を踏みしめていた。彼女は少し怪訝そうな表情で僕を見たあと、ほんの少しだけ微笑んで、
「はい、車椅子を持ち上げて下さっている間、この人が肩に手をかけていました」
と車椅子の老人を見ながら答えた。
彼女の髪は染めているのかと思うくらいに黒くて、瞳も茶色の部分が黒に近いほど濃い色をしていた。僕にはその色が何かとても不思議に感じられて、つい彼女の瞳をじっと見つめてしまった。普通の「目を見る」という見つめ方ではなく、「瞳の茶色い部分だけを凝視する」という見つめ方は、きっと彼女を戸惑わせたに違いない。それに気付いた僕は、あわてて彼女の瞳から目をそらし、車椅子の老人に目を移した。それまで僕の肩に乗せていたと思われる老人の右手は、置き場所を失い、指揮棒を振る指揮者の手のように空中をさ迷っていた。彼女はそれを両手で優しく包み、車椅子のひじ掛けにそっと乗せてやった。老人は安心したのか、深いため息をついて目を閉じると、じきに眠りに落ちていった。
「あの・・・手をかけていたことが何か・・・」
その後、彼女が不思議そうにそう聞いたが、いったいこの現象をどう説明すれば良いというのだろう。
「いえ、何でもないんです。すいませんでした」
僕は、結局、彼女と目を合わせることすらせず、頭を下げると、そのまま彼女に背を向け、足早にそこを立ち去った。