表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/31

第19話

「公園の喫茶店ですよ。ほら、庄吉さんのコーヒー。でも、冷めちゃいましたね」

 彼女が微笑んでそう言うと、

「そうか・・・」

 と、庄吉さんは呟くように言った。そして、僕の存在に気づくと、庄吉さんは、まじまじと僕を見つめて言った。

「君は、えーと、誰だったかな」

「あ、桐野といいます」

「桐野さんか。どこかで会ったことがあるかな」

「はい。前に一度だけ」

「この前、私が庄吉さんの車椅子を動けなくしてしまったとき、桐野さんが助けてくれたんです」

 彼女がそう言うと、庄吉さんは、何かを思い出そうとしているように、

「そうか・・・。いや、そうじゃなくて、君とはどこか違うところで会っている気がするんだ。どこだったかな」

 と言った。

「そうだ、夢だ。夢の中だ。私は君を夢で見た気がする」

 夢を見ていた本人が、夢の中に浸入した僕を認識するなどということがあり得るだろうか。今までにそんなことは一度だってなかった。

「あの、何て言ったら良いのかわかりませんが、僕は、庄吉さんの夢の中に勝手に入りました。申し訳ありません」

「夢の中へ入る?」

「はい。僕は、自分以外の人に触れると、その人の心の中を見ることができるんです。信じられないかもしれませんが。本当にすいませんでした」

「いや、いいんだ。謝ることなんてない。しかし、ずっと誰かに見られている、というか、誰かと一緒にいるような気がしてね、気になっていたんだ。そうか。君だったのか。しかし、不思議なことがあるもんだなあ。君に見覚えがなかったら、そんなことを言われても信じられる訳がない」

「そうですね。本当にそうだと思います」

「それじゃあ、私が最上に乗っていたことも、君は知っているのかな?」

「最上、ですか?」

「うむ、巡洋艦最上だよ」

「あ、はい。たぶん。軍艦の上の夢は一度だけ見たことがあります。その時はひどい戦闘でした。岡崎さんのすぐ近くに爆弾が落ちてきて」

「ああ、その時か。その時は最上が沈んだ時だ。広島の江田島でね。でもね、桐野さん・・・だったかな。最上は強かった。最新の巡洋艦でね。旗艦だったこともあるんだ。旗艦てわかるかい?」

「いえ」

「旗艦っていうのは、連合艦隊指令長官が乗っている軍艦のことだよ。最上は本当に強かった。装備も最新だったが、それ以上に乗組員が優秀だった。戦死者が出ないから熟練の古参兵ばかりだったんだ。十六の私にはそれが本当に心強くてね。どんなにおっかない上官や先輩でも、この人達の言う通りにしていれば間違いないと思うと、おっかないのがかえって頼もしく思えたくらいだよ」

「なるほど。そんなものですか」

「ああ。兵隊なんてものは、先輩や上官が優秀かどうかで生死が決まるんだ。何発かぶん殴られることなんて何でもなかった」

「なるほど」

「しかしね、桐野さん、人間、極限状態に追い込まれると不思議なものだよ。最初はびくびくしていた私でさえ、何度か実戦を経験するうちに、総員戦闘配置の命令が出ると、武者震いするようになったもんさ。遠くに、こう、敵機がごまつぶみたいに小さく見えてくるだろう。そうすると、まずは主砲で打つんだ。ドカーン、ドカーンてね、そりゃあすごいもんだよ。そうすると遥か遠く、ゴマ粒みたいに見える敵機がさ、煙を出しながらパラパラと落ちていくのが見えるんだ。今考えると、そのゴマ粒みたいな戦闘機に乗っていたバイロットにだって、家族はあったろうし、一人一人様々な人生があったんだろうけど、その時はそんなことなんて考えられなかったな。こっちだっていつ死ぬかわからないんだ。毎日のように『今日は死ぬ』って思っていたんだから。桐野さん、航跡ってわかるかい?」

「航跡?船のスクリューの泡のことですか?」

「そうそう。夕方になるとね、船尾に立って一人航跡をじっと見ているやつがいるんだ。そうしてしばらくすると、そいつはまず間違いなく海に身を投げてしまう。つまり自殺してしまうんだよ」

「よくあるのですか?」

「いや、しょっちゅうじゃないけど、何度か見たな」

「なぜです?」

「辛かったんだろうな、毎日が。今日は死ぬ、明日こそは死ぬと思いながら生きていることが。もし君が三日後に死ぬと宣告されたらどうだい?少しでも長く生きたいと思うかい?それとも、いっそのこと早く死んでしまった方がましと思うかい?きっと、『死んだ方がまし』と思うようなやつが飛び込むんだろうなあ。死刑執行を待つ死刑囚はたぶんあんな心境だろう」

「僕には想像もつきません」

「そりゃあそうさ。しかし、そんな経験なんて、しないで済むならしない方がいい。君たちは平和な時代に生まれてきて幸せだ。あの人たちはあの航跡の向こうに何を見たんだろうなあ。いや、どこまで話したんだったかな?」

「あ、敵機が遠くに落ちるのが見えたと」

「ああ、そうか。敵機がもっと近づいてくるとね、今度は高角砲で打つんだ。それでもそれをかいくぐってくる敵は、もう、最初の半分位になっているんだが、そいつらの大半は戦艦に襲い掛かっていくんだよ。戦艦はでかいし遅いから狙いやすい。それに沈めりゃあ手柄になるからね。そこへいくと、最上は小さいし、まあ、小さいといっても駆逐艦よりは少しでかいんだが、とにかく速かったんだ。なにせ四十ノットで走るんだから。四十ノットってわかるかい?時速にしたら七十キロ以上だよ。それがジグザグに走るんだからそう簡単に沈められるものじゃないよ。そうはいっても、何機かは最上にも魚雷やら爆弾やらを落としていくんだ。そいつらを機銃で撃つのが私たちの役目だった。機銃っていうのは、弾が入っている弾倉を着脱する人間と、機銃を左右に旋回させる人間と、上下に動かして照準を合わせて引き金を踏む人間の三人で一組になっているんだ。私はその中の弾倉の着脱の係でね。もう敵機に弾が当たっているかどうかなんて全くわからなかった。射手が引き金を踏めば、あっという間に弾はなくなってしまうんだ」

 庄吉さんが認知症を患っているとはとても思えなかった。庄吉さんの話を聞いていると、その光景が目の前に広がってきた。しかし、僕には、戦争の話より、その後の沙那子さんとのことが気になった。庄吉さんの意識に入り込むことなく、庄吉さんの口からそれが語られれば、それが一番いいに決まっていた。

「岡崎さん、最上は沈んでしまったのですか?」

「ああ、沈んだ。江田島に停泊しているときに敵機の襲撃を受けてね。止まっている船を沈めるなんてたやすいことさ。それでも、私は機銃に弾倉を着脱し続けた。私にはそれしか出来なかったんだ。何かを考える余地なんて全くなかった。そのうち、遠くから飛んできたグラマンが爆弾を落としてね、あれはとっさに私のところへ落ちると思ったよ。爆弾ってやつは真上で落とされたのは近くには落ちないものなんだ。遠くで落としたやつは、どんどん近づいてくる。反射的にどこかの影に身を隠した途端、ものすごい音がしてね。その後、辺りを見回したら、もう何もなかった。仲間もいなかったし、機銃もなかったよ。おまけに立とうと思ったら立てないんだ。おかしいなと思って自分の足を見たら、血だらけさ。持っていた手ぬぐいと棒で太ももを止血したよ。手ぬぐいと棒は止血用にみんな持たされていたんだ」

「そこです。その場面です。僕が見たのは。その後、どうされたのですか?」

「ああ、軍医官のいる部屋へ行こうと思ったんだが、どうしても歩けなくてね、どうしようかと途方にくれていると私を呼ぶ声がしたんだよ。『岡崎、大丈夫か!』ってね。私がその声の方を見ると、それは高村中尉だった」

「高村中尉?」

「ああ、同郷の高村財閥の高村恭二郎さんだ」

「あ、わかります。その高村さんなら。沙那子さんと婚約された方ですね」

「うむ。恭二郎さんは、私が海軍に志願した後、少しして海軍に入って、偶然にも同じ最上に配属されていたんだ。恭二郎さんは帝大を出ているから、最上で会ったときにはもう中尉だったよ。中尉っていったら、私たち水兵なんか、目を見て話なんかできないくらい雲の上の存在さ。でも、恭二郎さんは気さくだった。特に私には良くしてくれた。士官にしか支給されないようなお菓子を持ってきてくれたりしてね。そして、何よりよく話しかけてきてくれたよ。辛いことはないか、困ったことはないかってね。水兵の私なんかに中尉殿があんまり気さくに話しかけるものだから、水兵仲間からは随分羨ましがられたものさ。でも、あの人が同じ船に乗っていると知ったとき、正直いっていい気持ちはしなかった。あの人は、私が持っていないものを何でも持っていた。金も学も何もかもだ。それなのに、それだけじゃ飽きたらずに、沙那子までさらっていってしまったんだからなあ。正直、恭二郎さんは、あの時、私が死んでも頭を下げたくない人間だった。しかし、あの人と接するうちに、私は気づいたんだ。あの人と私とじゃあ、人間の質が天と地ほど掛けはなれているってね。貧乏農家に生まれ育って、コンプレックスの塊みたいになっていた私と、私みたいな男を心底心配してくれるあの人とじゃあ、同じ種類の生き物とはいえないくらいに違っていたんだよ。私は、金ってやつは人の心を鬼畜に変えちまうようなものだと思っていたし、金持ちなんて輩は、みんな金と引き換えに、魂を悪魔に売った連中だと思い込んでいたんだが、あの人は違った。私は、あの人の化けの皮をひん剥いてやろうと、随分頑張ったが、悪いところなんて見つかりやしなかった。それどころか、いい面だけが見えてくるんだ。ショックだったね。私は、金はないけど、魂だけは汚れてないと思っていたのに、ただそれだけが私の心の支えだったのに、知らないうちに、人の欠点を探すような卑屈な人間になっていたんだ。あの人がそれに気付かせてくれたのさ。それからはもう、沙那子のことも、素直に、『ああ、この人のところへ嫁に行って良かったな』と思えるようになったよ」

「そうですか」

「うむ。もうわかっていると思うから言ってしまうが、このお嬢さん、沙那子によく似ているんだ」

「はい、僕もそう思いました」

「最初に会ったときには驚いたよ。どうして年をとらずにここにいるんだろうってね」

「僕もです。岡崎さんの夢の中から戻って彼女を見たとき、しばらくは彼女と沙那子さんの区別がつかなくて混乱しました」

「岬さん、実はそういう訳だったんだ。すまなかったね。いつか話そうと思っていたんだが、なかなかいい機会がなくてね。だが、今日は良かったよ。やっとそれを話すことが出来て」

「いえ、私こそ、本当にすいませんでした。勝手なことをしてしまって。桐野さんに、庄吉さんの心の中を見て欲しいって頼んだの、私なんです」

 彼女は、頭を下げたままずっと動かなかった。

「あの、理由があるんです。彼女が僕にこんなことを頼んだのには。前にも一度、岬さんがお話ししたと思うのですが、岡崎さんは、眠っている時、よく涙を流されるそうなんです。それで、岬さんは、もしかしたらその原因が自分にあるのではないかと思っていて・・・。もし、そうじゃなくても、岡崎さんが何か悲しい思いをしているのだったら、何か力になりたいって・・・。それで、岬さんは僕に、岡崎さんの心の中を見て欲しいと頼んだんです」

 彼女はずっと俯いていた。庄吉さんは、そんな彼女を優しい目で見つめながら言った。

「そうだったのか。君がそんなに心配してくれていたとは思わなかったよ。ありがとう。でも君のせいなんかじゃないさ。だから気にする必要なんて全然ないんだ。しかし、一つ君に聞いておきたいことがあるんだ。私は認知症なんだろう?自分でそんな気がするんだよ。自分で書いた日記を見るとね、何日も空白になっているところがある。必ず毎日書くことにしていたのにね。しかも、書かなかったという自覚がないんだ。この前は日記帳の存在すら忘れてしまっていた。偶然このノートはなんだろうと開いてみたら、私が自分で書いた日記帳だったよ。そこまできたら、こうして正気でいられるのも、あとどれくらいあるかわからない。だから、もしそうなら、そうだと言って欲しいんだ。私なら大丈夫。どんなことを聞いたって、決して取り乱したりはしないから」

 庄吉さんがそう言ったとき、店員の女性がやってきて、とても機械的な笑顔と動作でテーブルの上のグラスに水をついでいった。何だか水を注ぐ音がやけに大きく感じられた。彼女はしばらく考えていたが、意を決したように、凛とした瞳で岡崎さんを見ると、ゆっくりとした口調で話し始めた。

「そうです。庄吉さんがそういう病気だっていうことは、ホームのスタッフみんなが知っています。でも、庄吉さんには本当のことを話さないようにって、所長さんや、ヘルパーさんたちから言われました。その時は、私もそうするべきだと思いました。そんな残酷なことは言わない方がいいって、それが優しさだって、そう思ったんです。でも、今考えたら、やっぱりそれはおかしいですよね。私たちより何十年も長く生きている庄吉さんに、かわいそうだから言わないであげようなんて、私たちはそんなに偉い人間じゃありません。ていうか、どんなに偉い人でも、そんなことを決める資格はきっとないんだと思います。もし私が庄吉さんの立場だったら、自分がしっかりしているうちにやっておきたいこととか、会っておきたい人とかいると思うし。それなのに、勝手に、何も知らない方がいいとか、どうせ何を言っても理解できないのだから言わない方がいいとか決めつけてしまうのは、何ていうか、庄吉さんの人間としての尊厳を無視した考え方でした。ごめんなさい、庄吉さん。本当にすいませんでした」

 僕は、静かに感動していた。それは、彼女が単に自分の非を素直に認めたからじゃない。弱者に対する哀れみが、実は強者の奢りだったと、わずか十七才の少女が見事に言ってのけたからだった。表情にまだ幼ささえ残るこの少女は、その潔さをいったいいつまで持ち続けることができるだろう。やはり彼女も大人になるにつれ、つまらない常識に支配される時が来るのだろうか。できることなら、彼女のそばにいてそれを見届けたい。無意識のうちに僕はそんなことを考えていた。

「私のせいで困らせてしまったみたいだね。君が気にすることじゃないさ。君にはとても感謝しているんだ。だから、ちゃんと話すよ。私の頭がしっかりしているうちにね。これからも私が泣いたりしたら、君はずっと気にするだろう。そのまま私が死んでしまったりしたら尚更のことだ。もう先は長くない。自分の体のことは、自分が一番良くわかる。その前に私は君にちゃんと話すよ。そうだ、新しいコーヒーをもらおうかな。長い話になるから」

 僕はさっきの店員にコーヒーを注文した後、ずっと気になっていたことを質問した。

「あの、さっきの話の続きですけど、動けない岡崎さんに声をかけたのは、本当に高村恭二郎さんだったんですか?」

「ああ、恭二郎さんだった。恭二郎さんは、私が甲板に倒れていると、私を背負って医務室まで連れていってやると言った。しかし、私が恭次郎さんにおぶさって二三歩歩いたらね、向こうから敵の戦闘機が海面すれすれに飛んできたんだ。そしてその後、私たちの目の前で急上昇したんだよ。そうしたらその途端、恭二郎さんがばたっと倒れたんだ。何があったのか全くわからなくてね。私が『高村中尉!』って、恭二郎さんの身体を揺すったら、私の手は血だらけだった。戦闘機の放った弾が恭二郎さんの右の脇から左の脇に貫通していてね。即死だった。もう痛いも何もなかっただろう。私は、恭次郎さんの家族の為に恭二郎さんのポケットに入っていた銀の懐中時計を抜きとって、自分のポケットに入れると、何とか自分で歩き出したんだ。途中、ひどく喉が乾いてね、水が貯めておくタンクが破壊されていたから、そこから水をすくって飲もうとしたら、何か浮いているんだ。よく見るとそれは人の上半身だった。私はそれをうまくよけて、思う存分、水を飲んだよ。そうやって、やっとのことで医務室にたどり着くと、そこはもうまさに地獄だった。手や足の無い人間ばかりだったんだ。軍医官に叱られたよ。それくらいの怪我で此処へ来るなってね。君たちは、その軍医官を酷いやつだと思うかもしれないが、私は納得したよ。と言うより、あの光景を見たら納得するしかなかったな。しかし、甲板に出たって、もう何もすることなんてなかった。怪我をしていない元気なやつなんて一人もいなかったんだから。そうこうしているうちに船が傾き始めてね、総員退避の命令が出たんだ。私は、動けるものの中では怪我が酷い方だったから、うまく救命ボートに乗せてもらえて助かったんだ」

「それはいつ頃の話ですか?」

「しばらくしてから原爆が落ちたから七月の半ば頃だろう」

「原爆?原爆が落ちた時、岡崎さんは、広島にいたんですか?」

「ああ。足の怪我が思ったより酷くてね。病院にいたよ。医者のやつ、手術の時に、この足はもうダメだから、切断するって言うんだ。その時、私の足の傷口にはウジがわいていたよ。しかし、私は、まだまだこれからお国のためにアメリカと戦うんだから、それだけは勘弁してくれって泣きついてね。そうしたら今度は、それじゃあ麻酔なしの手術に耐えられるかって聞くんだ。ううもぐうもないさ。その場で了解したよ。結局私の足には爆弾の破片が刺さっていたんだが、気絶するかと思うくらいの痛さだった。それで、手術の後は赤チンをドボドボとかけて終わりさ」

「赤チン?」

「ああ、昔の傷薬だよ。真っ赤な色をしているんだ」

「そうしたら原爆が落ちたんですか?」

「そう、その後随分良くなったんだが、まだ歩けなかった。そうしたら、ある日突然地震のように建物が揺れたかと思うと、窓ガラスが一斉に全部割れてね。私はすぐに呉の弾薬庫が爆発したと思ったよ。それが原爆だったなんてわかったのはずっと後の話さ。しかし、歩けないからベッドで寝ているとね、看護婦さんが私を背負って防空壕まで連れていってくれたんだ。私が、『済みません』と言うと、看護婦さんは、『兵隊さんが命がけで戦ってくださっているから私たち、こうして生きていられるんです。これくらいなんでもありません』って言ってくれてね。涙が出てきたよ。その後、戦争が終わって新潟へ帰ったら、私の母親はもう死んでいた。胃癌でね。墓へ行ったらまだ墓の土が柔らかかった。それだけじゃない。父親まで大腸癌で入院していたんだ。悔しかったなあ。戦争に行ったって恋しく思い出すのは母親のことばかりだった。戦地で死と隣り合わせのような毎日を送りながら、寝る時はいつも母親の顔ばかり思い浮かべていたんだ。ただそれだけが心の慰めでね。生きて戻らないなんて勇ましいことを言って故郷を出たくせに、誰にも知られない心の中で密かに母親に甘えていたんだよ。会いたくて会いたくて仕方なかった。子供だったんだなあ。そりゃあそうさ。まだ十六だったんだ。そういえば岬さんは十七だったね」

 庄吉さんが彼女にそう問いかけると、彼女は庄吉さんを見つめながら「はい」とだけ言って頷いた。そして、それ以上、彼女は何も言わなかった。もし、あのまま僕が黙っていたら、いったいいつまであの静寂は続いていただろう。

「あの、その後、沙那子さんとは会えたんですか?」

僕は庄吉さんの表情に気を配りながらそう聞いた。庄吉さんは少しの間考えを整理するように黙っていたが、やがてゆっくりと話し始めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ