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第18話

 夢から覚めるように意識を取り戻した僕は、しばらくの間、自分が誰なのかもわからなかった。目の前の風景が、一面の水田だったり、音をたてて流れる川だったり、広々とした古民家の座敷だったりすれば、何の違和感も感じなかったのかもしれない。しかし、僕の目の前には、冷めたコーヒーの入った白いカップが置かれ、隣には車椅子に眠る老人が、向かいには僕を見つめる少女がいた。中でも僕を一番混乱させたのは、財閥の御曹司と婚約したはずの沙那子が、看護師のような白衣の上に藤色のカーディガンを身につけて僕を見つめていることだった。しかし、周囲を見回すうちに、僕は、ここがいつも来る公園の喫茶店であることを理解し、ここへ来ることになったいきさつも思い出した。ただ、目の前の少女が沙那子に良く似ているという事実が、僕の記憶の回復をひどく遅らせた。

「桐野さん、大丈夫ですか?」

「うん。僕は庄吉さんの心の中にいたんだね。どっちが現実の世界なのかわからなくなっていた。こういうこと、たまにあるんだ。」

 そう言いながら、僕は庄吉さんを見た。庄吉さんは良く眠っていた。

「あの、それで何かわかりましたか?」

「庄吉さんが涙を流す理由だよね。それはよくわからなかった。でも、一つ気になることがあって」

「気になることって、何ですか?」

「庄吉さんの友達のお姉さんに、沙那子さんていう人がいて、実は、その人が君に良く似ているんだ。庄吉さんは、君を見て沙那子さんを思い出したのかもしれない。大好きだった沙那子さんを・・・」

「大好きだった・・・」

「そう。庄吉さんは間違いなく、沙那子さんのことが好きだったんだ。すごく。その気持ちは今でも僕の心に残っている」

 確かにその気持ちは心に残っていた。そして、目の前には沙那子さんによく似た少女がいた。庄吉さんが沙那子さんを愛する気持ちを共有する僕は、錯覚というか、混乱というか、とにかく、冷静な目で彼女を見ることが出来なくなっていた。

「でも、結ばれなかったんですか?庄吉さんと沙那子さん」

「沙那子さんはね、村一番のお金持ちの息子さんと婚約したんだ。そして、庄吉さんは戦争に行くことになった」

「戦争?その時、沙那子さんと庄吉さんはいくつだったんですか?」

「庄吉さんは十五で、沙那子さんは十七だったと思う」

「十五?そんな年で戦争なんて・・・」

「庄吉さんは、沙那子さんの婚約を知って、半ば投げやりな気持ちで海軍に志願したんだ。もちろん、それだけが理由じゃないけど」

 僕は、僕が見た庄吉さんの幼年時代の出来事を彼女に詳しく話した。彼女は、ずっと真剣にそれを聞いていて、話が終わったとき、ふうっとため息をついた。

「そのあと庄吉さんと沙那子さんはどうなったのかな・・・」

 ひとり言のように彼女が言った。

「わからない。でも、これ以上、庄吉さんの心の中を見るのはやめにしたほうがいいかもしれないね。もしかしたら、それは、庄吉さん自身でさえ、思い出したくないことかもしれないし・・・」

 そう言いながらも、僕は、彼女が、「いえ、どうしてもお願いします」と言うのを待っていた。本当は、今すぐにでも、もう一度、目の前の老人の手を握り、その後の彼の人生を覗いてみたいと思っていた。あの強い正義感を持った少年は、大人になっても、それを持ち続けることができたのだろうか。そして、何より、僕は、どうしても沙那子さんに会いたかった。

「そうですね。そうかもしれないです。私、間違えていたかもしれません。いろいろ、わがまま言ってすいませんでした。あの、桐野さんのその不思議な力、いつ頃からあるんですか?」

「子どもの頃から。でも、こんな力無い方がいい」

「どうしてですか?」

「人って、いいことばかりを考えている訳じゃないから。悪い気持ちを感じたときの感覚って、たまらないほど辛いんだ。それも自分に対する悪い気持ちを感じたときは尚更ね」

「そうですか・・・。でも、その逆もあるでしょう?その人に触れてみたら、その人が桐野さんをすごく好きな気持ちでいっぱいだったことがわかるとか」

「そうだね。そういう時もあるけど。でもやっぱり、心の中は、その本人だけにしか分からないのが一番だと思う。それが自然だから」

 人の心の中はたいてい、ねたみ、そねみ、恨み、金銭欲、出世欲、権力欲、自己顕示欲、性欲、そんなもので満たされている。美しいものなど、その百分の一もあるかないかくらいだ。でも、それを今この少女に言ってどうなるだろう。人の心の裏の裏までを見続けてきた自分が、人を美しいものと信じて疑わないようなこの子に何を言えばいいというのか。

 沙那子さんは・・・沙那子さんはどうだっただろう。彼女は人の心の醜さを知った上で、あんなにも清らかでいられたのだろうか。僕は沙那子さんの心の中が知りたくてたまらなくなっていた。

「そうですか。私は、相手の気持ちがわかったら、って思うこと、よくあるんです。自分の考えていることが、すごく他の人とかけ離れているんじゃないかって思うことがよくあって」

 彼女は、空のコーヒーカップの縁を指でなぞりながらそう言った。

「例えば、君に付き合っている人がいたとするよね」

「はい」

「付き合っていれば、手が触れたりすることなんてよくあると思うけど、その度に、その人の考えていることが自分の中に入ってきたら、煩わしいと思わない?」

「そうですね。それはそうかもしれません」

「増してや、その人の心の中に、自分以外の人がいるなんてことがわかったら、平常心ではいられなくなる」

「はい」

「だからやっぱり普通がいい」

「ごめんなさい。私、良く考えもしないで」

 彼女はそう言って肩をすぼめた。

「あの、頼んでおいて、こんなことを聞くのは、すごく失礼だと思うんですけど、今回は、どうして引き受けてくれたんですか?」

「最初は、君を応援したかったんだ。庄吉さんのことを本気で心配している君を。そうすべきだと思った。でも今は・・・」

 僕がそう言った時、庄吉さんが目を覚ました。彼はしばらくぼうっとした様子で辺りを見回したあと、 

「あれ、ここはどこかな」

 と、低い声で言った。


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