第17話
夜になって、約束通り庄吉が破間川の土手へ行くと、沙那子はもうそこにいた。沙那子はこちらに背を向け、流れる川をじっと見つめていた。足音を消して近づいた訳ではなかったが、庄吉がすぐそばに行くまで、沙那子は振り向かなかった。
「遅くなってごめんなあ、沙那ちゃん」
「ううん」
沙那子の表情には、もう昼のような険しさはなかった。周囲が静かな分だけ、普段は気にもならない川の音が大きく感じる。川の水のお陰で、辺りの空気はひんやりとして気持ちが良かった。
「沙那ちゃんに会えるとは思わなかったなあ」
「お盆だもの。『地獄の釜の蓋も開く』っていうでしょう」
「そうだなあ。でも会えて良かったて。この先、もう会えんかもしれんもんなあ・・・」
「庄ちゃん、どうして志願なんてしたの?約束したのに」
沙那子はそこで初めて庄吉の目を見た。庄吉は沙那子の目を真っすぐ見返すことが出来ずに川の方へ目をそらした。
「沙那ちゃんはどうして恭二郎さんと結婚することにしたんだ?好きなのか?恭二郎さんのこと」
「そりゃあ、嫌いだったらお嫁に行こうなんて思わないけど・・・」
「思わないけど?」
「私みたいな小作の娘に自由なんてないでしょう?」
「じゃあ、金のために結婚するっていうことか?」
「お金が欲しい訳じゃないわ」
「じゃあなんだ?村じゃあみんな、沙那子は玉の輿に乗ったって言ってるぞ。自由なんてないってことは、地主の言うことには逆らえんから、父ちゃんや母ちゃんや鉄男のために沙那ちゃんが犠牲になって好きでもない男のところへ嫁に行くっていうことか?」
「だから好きじゃない訳じゃないよ。嫌いな人だったら婚約なんてできない・・・」
「でもどっちにしろ家を守るために結婚するんだろう。世の中、何でも金だなあ。金さえあれば何だって手に入る。オレはもう、そういう世界で生きるのは嫌になった。兵隊はみんなお国のために命を捧げるんだ。金なんて一切関係ない。あるのは家族や大切な人を守りたいっていう綺麗な心だけだからなあ」
「庄ちゃん、もしかしたら、私が婚約したのを知って志願したの?私が恭二郎さんのところへお嫁に行くって知って志願したの?」
「そうじゃない。オレは高村のおじいさんに、真っすぐな心を持ったまま金持ちになると約束したけど、金持ちになるのは、真っすぐな心を持つなんてことよりずっと難しいことだってわかったんだ。何も持たないもんが、どうしたら金持ちになれるか、いくら考えてもわからなかった。そんならせめて真っすぐな心だけでも捨てないようにしようって決めたんだ」
「でも、戦争に行ったら死ぬかもしれないのよ。そうしたら元も子もないじゃないの」
「別に死ぬことなんて怖くねえ。オレの命なんてどうでもいいんだ。この身体と命がお国のために役立って、父ちゃんや母ちゃんがみんなから褒められて、それでオレのことを誇りに思ってくれたら、そんなに嬉しいことはねえ」
「庄ちゃんは、庄ちゃんがお国のために死んで、お父さんやお母さんが本当に喜ぶと思っているの?そんなことないわ。お父さんやお母さんは、たとえどんな世界でも庄ちゃんに生きていて欲しいと思うはずよ」
「沙那ちゃん、そんなこと、そんなに大きな声でいったらダメだ。誰かに聞かれたらひどいことになる。」
庄吉は声を低めてそう言った。
「わからねえ。父ちゃんと母ちゃんがどう思うかなんて、オレにはわからねえ。でもオレはもう金に縛られて生きるのが嫌なんだ。金がなきゃあ好きな相手とも一緒になれねえ。好きなものも食えねえ。好きな仕事もできねえ。金のあるやつには一生頭が上がらねえ。だから金を手に入れることばかり考える。金を手に入れるためには何でもやる。貧しいやつからだって金を奪う。金ってのは悪魔みたいなもんだ。人間から正気をどんどん吸い取っていく悪魔だ。オレは正気を吸い取られた抜け殻みたいな大人にはなりたくねえんだ。人に生まれてきたのに、いつの間にか人の皮を被った得体の知れない化け物になるのが嫌なんだ」
「じゃあ、庄ちゃんのお父さんとお母さんはどうなの?その得体の知れない化け物なの?庄ちゃんは、庄ちゃんのお父さんとお母さんのもとに生まれてきて不幸だった? そんなことないでしょう。お金に苦労しているからって、お金に振り回されているからって、不幸だとは限らないわ。どうして急にそんなふうになっちゃったの?みんな私がいけないのね。私が恭二郎さんと婚約なんてしたからいけなかったのね。もし、庄ちゃんが戦争で死んだら、私のせいだわ。そうしたら私も死ぬ。だってそうしなきゃ、庄ちゃんのお父さんとお母さんに申し訳がないもの」
「そんなこと言うな。オレが戦争に行くのと、沙那ちゃんの婚約とはなんも関係ねえ。沙那ちゃんは恭二郎さんと幸せになればいい。オレは父ちゃんと母ちゃんの子に生まれてきて確かに幸せだったかもしれんけど、オレには何もねえ。生きる術が何もねえんだ。そりゃあ土地でもありゃあ自分の思う通りに生きられるだろう。だけど、いくら自作っていったってオレは三男だ。三男は自分で生きていかなきゃなんねえ。生きていくってことは金を稼ぐってことだ。金を稼ぐってことはどんどん薄汚い人間になっていくってことだ。そんなふうになるくらいなら、オレはお国のために死にてえ」
「何甘えたこと言ってるの?誰だって生きていくために、どんな理不尽なことにだって下げたくない頭を下げて、そうして家族を養っているんじゃないの。どうして庄ちゃんにはそんな当たり前なことができないのよ」
「ああ、オレはきっと普通じゃねえんだ。そんな理不尽なことに頭を下げて守るオレの命ってものはそんなに価値のあるもんか?もしオレが死んでも困る者なんて誰もいやしねえ。もしもオレに女房や子供がいりゃあ、オレの命はオレだけのものじゃないかもしれんけど、オレにはそんなものはねえ。オレの命はオレだけのもんだ。その命にそんな価値なんかあるとは思えねえ」
「あるわよ。あるに決まってるわ。もし庄ちゃんの身に何かあったらみんな悲しむわ。そんなことわかっているでしょう?」
「そうじゃねえ。そんなこと言ってるんじゃねえんだ。人間いつかは死ぬ。その時はきっと周りの者らが悲しむだろう。けど、それは人生で一度きり、誰にでも必ずあることだ。遅かれ早かれオレが死ねば誰かが悲しむ。今死んでも、今生きて、何十年も後になって死んでも、誰かが悲しむ。それはただ早いか遅いかの違いだ。大事なのは誰かが悲しむかどうかじゃなくて、誰かが困るかどうかなんだ。それが人間の価値じゃねえか?オレにはそれがねえって言ってるんだ」
「違うわ。それは庄ちゃんがまだ十五だからじゃない。たった十五なのに、死んだら誰かが困るなんて人いないわよ。だけど、そういう人だってみんな大人になれば、好きな人が出来て、子供が出来て、父親になって、家族にとってなくてはならない人になるんじゃない。そんなの今生まれた赤ちゃんだって同じだわ」
「オレは沙那ちゃんに口では勝てねえ。やっぱり沙那ちゃんは偉いなあ。でもなあ、沙那ちゃん、オレはもう志願してきたんだ。だからもう何を言ってもどうにもならんことだて」
庄吉がそういうと、沙那子は黙ってしまった。その後しばらく二人は何も喋らず、ただじっと川を眺めた。夜空には、数え切れないほどの星たちが、今にも落ちてきそうな程にひしめき瞬いている。川の音に紛れて、どこからかチリンチリンと風鈴の音が聞こえてくる。
「沙那ちゃん、何もかも、もしも生きて帰ったらだ。最初から生きて帰ろうなんて思って戦争になどいけん。そんなことを考えたらとたんに命が惜しくなってお国のために精一杯働くなんてできなくなるし、命懸けで働いている他の人たちにも申し訳がねえ。だから、今から、生きて帰った先のことを考えるなんてできねえけど、もし生きて帰ったら、その時は、沙那ちゃんの言ったことをよく考えてみる」
その時には、沙那子が泣いていたことに庄吉も気づいていた。沙那子は泣き声を押し殺すようにして、
「わかったわ。庄ちゃん。変なこと言ってごめんなさい。これじゃあどっちが年上なのかわからないわね。でもねえ、庄ちゃん、私はやっぱり庄ちゃんにはどうしても生きて帰ってきて欲しい。それは私の正直な気持ちだから仕方ないでしょう?」
と言った。
「沙那ちゃん、沙那ちゃんは何でそんなにオレに死んで欲しくねえんだ?」
決してこの質問だけはしないようにしようと心に決めていた庄吉だったが、ついに我慢ができなくなった。
「すまねえなあ沙那ちゃん。オレは結局、沙那ちゃんにオレのことが好きだって言わせたいだけなんだ。沙那ちゃんにはもう婚約者もいるっていうのにな。オレは沙那ちゃんのことが好きなんだ。今更言っても仕方ねえことだから何も言わずに行こうと思ったけど、どうしても我慢できなくなっちまった。情けねえなあ。だけど、何かすっきりした。沙那ちゃん、たとえオレに何かあっても、恭二郎さんとは幸せになってくれよな」
沙那子は立てた膝に額をのせてじっとしていた。また風鈴がどこかで鳴っている。
「庄ちゃん、私は庄ちゃんが鉄男の友達だから死んで欲しくない訳じゃないわ。庄ちゃんが幼なじみだから死んで欲しくないのでもない。庄ちゃんが、昔、私を蝮から守ってくれたからでもない。庄ちゃんが、ウチが酒井様に睨まれたとき、助けてくれたからでもない。庄ちゃんがお祭りで赤い水を分けてくれたからでもない。全部違う。でも全部そうかもしれない。でもこれ以上は言えないの。ごめんなさい、庄ちゃん」
そう言うと沙那子は下を向いたまま膝から少し顔を上げた。庄吉は、わずかな明かりに浮かび上がった沙那子の横顔の輪郭を、ただじっと見つめていた。




