第16話
命令書の集合日までにはまだ十日程あった。庄吉は、両親に会うために一度新潟へ帰ることにした。戦地へ出ればもう二度と会えないかもしれない。 上野から上越線に乗って故郷の村上に着くと、水田は遥か遠くまで青々と育った稲で埋め尽くされていた。四ヶ月ぶりに我が家に帰った庄吉に最初に気づいたのは弟の志郎だった。
「兄ちゃん!母ちゃん、大変だ!庄吉兄ちゃんが帰ってきた!」
志郎がそう言うと母のヨシイが裏庭から姿を現し、
「庄吉じゃないかえ!どうしたんだ?」
と、手に大根を持ったまま、そう尋ねた。
「久しぶりだなあ、母ちゃん。まずはご先祖様に線香あげてからだて」
庄吉はそう言うと、ここに暮らしていた頃には滅多にあげたこともない線香に、一人前の大人がするようにして火をつけた。
「仕事はどうしたんだ?休みでももらってきたのか?」
「いいや、仕事は辞めてきた。オレは水兵になるんだ。もう志願して命令書ももらってきた」
そう言って庄吉は母に命令書を手渡した。そこには「集合日 八月二十日 大日本帝国海軍横須賀司令部」とある。
「どうしてお前・・・」
母はそこまで口に出したが、そこで言葉を飲み込んだ。
「腹は減ってないかえ?お前の好きな牡丹餅があるから食わんかえ?」
そう言うと母は、牡丹餅やらサツマイモの蒸したのやらを庄吉の前にどんどんと持ってきた。世の中の冷たさに比べてここは何と温かいのだろう。そのありがたさが身に染みて、庄吉は涙をこぼしそうになった。
「兄ちゃん、海軍に入るのか?軍艦に乗るのか?」
志郎はそれが気になって仕方がないようだった。
「多分そういうことになるけど、何にしても訓練が終わってからだて」
「勇ましいのう。オレも軍艦に乗りてえ」
志郎がそういうと、末弟の啓介も目を輝かせて庄吉の言葉を待っている。
「お前はまだ子供だからだめだて。お前が兵隊に入れる時には日本が勝ってもう戦争も終わってるだろう」
そんな話をしていると、父の善三も農作業から帰ってきた。母に話したように海軍に入ることを伝えると、
「そうか。お前がそう決めたのならそれでいい。お国のためにしっかりと働いてこい。ヨシイ、庄吉がこの家を出るまではうまいものを食わせてやれよ。庄吉はもうわしらだけの子どもじゃない。お国のために命を捧げる兵隊さんじゃ」
善三は表情を変えず、俯きながらそう言った。長男の秀太郎は憲兵になって東京の中野へ、次男の洪作は陸軍に入隊し、中国にいるらしかった。兄弟六人のうち、姉のたえは奉公へ、上から三人の息子が兵隊に出ることになり、岡崎の家はまるで火が消えたようになってしまうだろう。しかし、その時の父や母の気持ちなど、庄吉は考えもしなかった。
庄吉が横須賀へ旅立つ前日には、庄吉を送り出すために、近隣の皆が総出で村の鎮守に集まった。その中にはもちろん、鉄男や三郎もいたし、ちょうどお盆で里帰りしていた沙那子の姿もあった。
「庄ちゃんはやっぱりすげえな。赤紙もきていないのに兵隊に志願するんだからなあ」
鉄男がそういうと、
「ああ、オレに赤紙がきたらどうしよう。でも、庄ちゃんは軍艦に乗るんだろう?海軍は陸軍よりうまいものが食えるっていうぞ」
と三郎が言った。大人たちは大人たちで皆、口を揃えて、
「善三さんとこは何とも頼もしい息子を持ったもんだのう。小さい頃は随分とやんちゃだったども、やっぱりそのくらいでないとそうそうこの歳でお国の役になど立てんて」
「そうじゃのう。秀太郎は憲兵になって陸軍中野学校にいるっちゅうし、もうそこらで会ってもおいそれと声もかけられんて」
「ああ。そうだとも。それに洪作は満州の最前線におるんじゃろう。お国のためじゃちゅうてもほんに頭が下がるて」
などと岡崎家の息子たちを褒めそやし、善三やヨシイは、時折「いやいや」などとは言うものの、ほとんど何もしゃべらずに、ただ目を伏せているのだった。今まで人から褒められたことのない庄吉は、両親の前で皆が自分を褒めてくれることがたまらなく嬉しかった。いや、自分が褒められたことが嬉しかった訳ではない。出来の悪い自分のような息子を持ったせいで、人に頭を下げるようなことには山ほど出くわしても、我が子を誇りに思うような機会にはついぞ巡り会えなかった両親が、今こうしてまばゆいばかりの称賛を浴びている。庄吉はそれが嬉しかったのだ。自分は決して意味のない存在ではなかった。自分にも命を懸けるべき世界があったのだ。そう思うと、庄吉には、もう自分の命などどうなってもいいように思えた。かえって華々しく戦死する方が、一層両親も誇らしいに違いない。志願したきっかけは沙那子の婚約だったかもしれないが、庄吉の心の中からは、もうそんなことは跡形もなく消え失せていて、その時はただ、お国のために立派に死んでみせようという気概で胸がはちきれそうになっていた。
沙那子は、鉄男の隣に座り、庄吉たちの話をずっと黙って聞いていた。時々は明るい表情も見せたが、途中からはもう笑顔もなくなり、暗い面持ちでただ俯いているばかりになった。庄吉が、
「沙那ちゃんは高村さんの恭二郎さんと婚約したんだってなあ。これで鉄男んちも安泰だて」
と言うと、沙那子は、怒ったような表情で、
「庄ちゃん、今日の夜、どうしても話がしたいから、いつかのところに来て。きっとよ」
と言うと、一人、鎮守の階段を降りていってしまった。




