第11話
翌日、庄吉が学校へ行くと、鉄男の様子がおかしかった。
「何かあったんか?鉄ちゃん」
庄吉が聞くと、
「今朝早く柏太郎さんの父ちゃんが来て、うちに貸している田っぽを全部返せといってきたんだ」
と鉄男が言った。
「柏太郎の父ちゃんが?」
庄吉には訳がわからなかった。あの件は昨日の晩のことで決着がついたはずではなかったのか。庄吉は学校から家にも帰らずに、農作業をしている父のもとへ走り、憤懣やるかたない思いを善三にぶつけた。そのことは既に善三も知っていたが、
「柏太郎の父ちゃんは卑怯だ」
と言う庄吉に、善三は、
「卑怯なんていう言葉は滅多に使うもんじゃねえ。元はといえばお前が蒔いた種だ。鉄男が不憫だと思うならお前が何とかしてやれ」
と、手も休めずに答えた。何とかしろと言われても、自分などに何ができるというのか。しかし、庄吉は、とにもかくにも柏太郎の父に会って頭を下げてみようと思った。
酒井家の門構えは高村財閥のそれと比べると幾分見劣りがするものの、近寄りがたい風格を感じさせた。中へ入ろうかどうか迷っているところへ、ちょうど酒井与市が帰ってきた。
「庄吉じゃねえか。何しに来た?」
余市は庄吉の腫れ上がった顔を見ながら言った。
「今日、鉄男に聞いたんですけど、鉄男んちの田っぽを全部取り上げるっていうのは本当ですか?」
「ああ、そうだ。したが、それがお前に何の関係がある?」
「オレが柏太郎さんを殴ったからでしょう?この通りだからそれはやめてください」
そう言って庄吉はその場に平蜘蛛のように這いつくばった。
「庄吉、お前は何もわかっちゃおらんのう。人には分相応てえものがある。柏太郎にもそういうふうに這いつくばることがお前の分てえものだ。わしにじかにものを言うなんてえことはお前がまだまだそういうことをわかってねえ証拠だて。それをわきまえにゃあ、自分だけじゃなく人をも不幸にするってえことがまだわからんか?」
「わかりました。わかりましたからどうか許して下さい」
「したがのう、庄吉、あそこの田っぽだったら、もっと金を出しても借りてえって小作は山ほどいる。わしもいったん決めたことだで、今回はもう無理だ。今度は気いつけることだの。そうでないと今度は、お前の親父がひどい目に合うかもしらんからのう」
そう言うと余市は悠然と門をくぐった。庄吉はただ砂を噛むように顔を地べたに擦りつけ、泥を両手に握りしめた。
庄吉はしばらくそうしていたが、急に起き上がると、家とは反対の方向に向かって走り出した。走って走って、心臓が飛び出してしまうのではないかと思うほど走りぬくと、目の前には破間川が横たわっていた。庄吉は橋の前で一息つくと、一気に橋を渡り、坂を駆け上がって、高村財閥の屋敷の前へ出た。
(もうこれしか方法はない)
そう思いつめて門をくぐると、例の秋田犬が激しく吠えかかった。あまりうるさく吠えたてたものだから、何事かと中から一人の老人が出てきた。犬は急におとなしくなって伏せている。
「お前はどこの子だ?」
「村上の岡崎です」
「善三んとこの倅か?」
「はい。三男の庄吉です」
「ふむ。して何ぞ用か」
「この家のおじいさんでしょうか?」
「ああ、わしはこのウチの隠居じゃ」
「あのう、小作に貸す田っぽで余っているのはありませんか?」
「善三の使いで来たのか?」
「いいえ、違います」
「なら何で子どものお前が田っぽなんて探しとる?」
庄吉は昨日から今日にかけての出来事を包み隠さず目の前の老人に話した。
「それでお前は今、酒井の屋敷からここへ走って来たというわけか?」
「そうです」
「なるほどなあ。それはそうと、お前はこの前、ウチの犬にいたずらをしかけたじゃろう。あの時わしは遠くから見ておったんじゃが、家の者が、あれは村上の庄という悪童だと教えてくれたぞ」
「ごめんなさい。それはオレです」
「あの時、みんな逃げたのにどうしてお前だけ逃げ遅れた?」
「みんなが遠くに逃げるまで時間を稼ごうと思っていました」
「怖くなかったのか?こいつに本気で食いつかれたら命がなくなっていたかもしれんぞ」「あの時は夢中でそれどころじゃありませんでした。それに食いつかれたけど大丈夫でした」
「何?食いつかれたじゃと?どこだ、見せてみろ」
庄吉は着物の裾をたくしあげて、尻を出して見せた。
「ずいぶんひどくやられたもんじゃのう。肉がえぐられてるじぁないか」
老人はそう言うと、善三を縁側に連れていって自分の横に座らせた。
「言うて来れば医者代くらいは出したろうに。何で言うて来なかった?」
「あれは正当な勝負でした。勝負に負けたもんが、後から治療費をもらいに行くなんて男らしくありません」
「ふうむ。なるほどのう。で、お前はその鉄男の為に田っぽを貸してもらえんかと頼みに来た訳じゃな」
「はい、そうです」
「庄吉、今回のことで一番悪いのは誰だと思う?正直に言うてみい。その答えが合っていたら田っぽを都合してやろう」
庄吉はしばらく考えていたがやがて口を開いた。
「一番悪いのはやっぱり酒井伯太郎さんだと思います」
「何でじゃ?」
「喧嘩に親を引っ張り出したからです」
「なるほど。しかし、だとすると、悪いやつに正しいお前が勝てなかったことになるのう。正しい者が悪いものに負けるというのはあってはならんことだろう。なぜそういうことになってしまうのかのう?」
「正しいものがいつも勝つとは限りません。正しかろうが、間違っていようが、戦いは力が強い方が勝つんです。オレたちが負けたのは、オレたちが貧乏だからです。オレたちが貧乏で酒井さんにはたくさんの金やたくさんの田っぽがあったからです」
「そうか。それじゃあお前はこれから金持ちにならんといかんな」
「はい。金持ちになれば正しいことを貫き通すことができます」
「そうか。金持ちになって正義を貫くか。だがな、庄吉。人間は弱いものでな、いざ金持ちになると欲が出て、お前の言う正義などというものはどうでも良くなってしまうもんじゃ。忘れてしまうんじゃな。いや、何が正義かということに対するものの考え方が変わってしまうと言った方がいいかもしれん。したが庄吉、本当の正義というものはな、紛れもなく今お前がお前の頭で考えていることじゃ。それをしっかり頭に焼き付けておけよ。それが、大人になったり金持ちになったりするとのう、正義というものを自分に都合のいいように理屈をつけて変えていってしまう。そんなことならいっそ一生貧乏でも、正義を貫く人間でいたいと思わんか?」
「貧乏は絶対に嫌です。オレはこの気持ちのまま、金持ちになってみせます」
「そうか。わしも目の黒いうちにそういうお前の姿を見てみたいものじゃのう。今わしに言うたことを忘れたらいかんぞ」
老人はそう言うと、一度部屋に姿を消し、いくらかの飴玉を持って戻ってきた。
「さあ、これをやるから今日は帰れ」
庄吉は自分の願いがこの飴玉にすり替えられてしまうのではないかと不安に思ったが、それを庄吉の表情から読み取ったのか、
「心配するな。わしは子どもを騙しなどせん」
と老人は言った。




