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第10話

 その日の夜、庄吉の家に柏太郎の父、酒井与市が、顔の腫れ上がった柏太郎を連れてやってきた。土間へ入るなり、

「おい。だれか!」

 と大きな声を張り上げたものだから、母のヨシイがびっくりして飛び出していった。

「まあ、酒井さんじゃないですか。こんな夜更けにどうされました?」

「どうされたもこうされたもないて。これみてみい。お前んとこの庄吉の仕業だ。明るいところでよく見てみい。善三はおるか?」

「はいおります。さあ、どうぞ上がって下さい」

 ヨシイはそういうと二人を座敷へ通した。座敷といっても、八畳ほどの二つの部屋を仕切っている襖を取り払っただけの粗末なものだ。手前の部屋にはちゃぶ台が置かれ、わずかな山菜を肴に善三が湯呑みで晩酌をしていた。庄吉は仏壇がある奥の部屋で、縁日で買った鉛筆を小刀で削っていたところだった。

「やあ、与市さん、どうしました?」

「どうしたもこうしたもねえ。こいつの顔見たらわかるだろう」

 柏太郎のまぶたは紫色に腫れ上がり、唇も分厚くめくれ上がっていた。

「庄吉の仕業よ。今医者へ行ってきたところだんが、いったいどうしてくれるんかのう」

 与市は、顔を真っ赤にしていきり立っている。善三は座布団を持ってきて、「さあさあ」と二人に勧めると、「庄吉、こっちゃこう」と庄吉を呼んだ。庄吉は善三の前に正座した。

「柏太郎さんの顔をこんなにしたのはお前か?」

「はい」

「どうしてやった?」

「柏太郎さんが鉄男にひどいことを言ったからです」

「柏太郎さんは鉄男に何と言ったか」

「お前の父ちゃんは、家で少しは偉そうにしているのか。お前の父ちゃんはいつも金が欲しくてウチの父ちゃんの前じゃあ、猫のタマみたいに擦り寄って来るって」

「それでお前は柏太郎さんを殴ったのか?」

 善三は脇目も振らず庄吉を見据えている。部屋全体が咳ばらいも出来ぬほど、ぴんと張り詰めた空気に包まれていた。

「そうです」

「どうしてもお前が殴らなければならなかったのか?」

「はい」

「何でだ」

「鉄男は父ちゃんを猫のタマだと言われて黙っているような腰ぬけじゃありません。でも、鉄男んちの田っぽは、みんな酒井さんのものだから、鉄男が柏太郎さんを殴れば、鉄男のうちのみんなが暮らしていけんようになります。だからオレが鉄男の代わりに殴ったんです」

 心なしか善三の目が少し潤んだように見えた。

「お前はこれだけ殴られたらどれくらい痛いかわかるのか」

「こんなに殴られたことはないからわかりません」

「そうか。そんならそこに立って歯を食いしばれ。柏太郎さんと同じ分だけお前に痛さを教えてやる」

 言われた通り、庄吉がそこに直立すると、善三は右のこぶしで庄吉の顔を殴った。庄吉がよろめいて倒れそうになると、胸ぐらをつかんでニ発三発と続けざまに殴った。庄吉の鼻からは血が吹き出し、顔は柏太郎とは比較にならぬほど膨れ上がった。善三は呼吸一つ乱してはいない。

「殴られる痛さをわからんものが人を殴ったらいかん。そういうやつはそのうちたくさんの人を傷つけることになる」

善三は庄吉にそう言うと、柏太郎に、

「すまんかったのう柏太郎さん。でも鉄男の父ちゃんは猫のタマじゃない。金はないかもしれんが、誰も好きでそうなった訳じゃない。わかるかのう?」

 と言った。

 柏太郎は、引きつった顔で「うんうん」と頷いた。

「与市さん、迷惑かけたども、子どものしたことだでこのくらいで勘弁してくれんかのう」

 あっけに取られている与市に善三がそう言うと、与市は、

「ま、まあ、いいじゃろう」

 と、辛うじて答えた。善三は与市に、

「すまんのう。何もないけんども、少し飲んでいかんか?」

 と酒を勧めた。だが、与市は「もう遅いで」と言い、柏太郎を連れてそそくさと家を出て行った。

 その後、善三は庄吉に、

「痛かったか?」

 と聞いた。庄吉が頷くと、

「お前のやったことは正しい」

 と、ただ一言、善三は言った。すると今まで一粒の涙も流していなかった庄吉が、急に大きな声でおんおん泣きだした。善三がヨシイに、

「井戸水で冷やしてやれ」

 と言うと、ヨシイは濡れ手ぬぐいを持ってきて、しゃくり上げる我が子の頭を膝の上に抱き抱え、

「よく頑張ったのう」

 と言いながら、優しく顔を冷やしてやった。


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