エベール伯爵夫人の手から逃れたジャクリーヌは、シャンディルナゴルという町にて、珍妙な少年に出会う。彼は少女自身が知らない自分自身を遷す鏡となった。
アキテーヌに近い都市、シャンディルナゴルを占領したマイケル5世は、この都市がうってつけの競技場を完備していることに目をつけ、この地にて竜試合を開催することを全エウロペに向かって宣言した。戦争中でありながら、平時の祭りを行うことで自らが勝利を確信しているとともに、余裕を示す政治目的もあった。
それだけではない。王の御前でめぼしい戦いを見せた竜騎士は、その出身は問わず、ただし、かつてマイケル王に反旗を翻し、一度は赦されながら再度同じことをした者は除く、という隠れた条件付きで、仕官を赦し、かつ受爵をミラノ教皇に取り持つということで担保することを約するとも宣言した。
すでに敗色濃厚となったナント王国を見限る貴族たちを見越してのことである。それほどまでに彼の竜騎士団の損害は無視できないほどになっていた、リヨン、ロレーヌと続いた輝かしい勝利に隠されてはいたが・・・。
さて、ジャクリーヌはこの話を聴きつけると、さっそくシャンディルナゴル入りした。市門を潜った瞬間に、アンヌマリーという偽名も思いついた。
まず最初に少女の目を奪ったのは、古代ミラノ時代を起源とするらしい巨大な競技場である。ちなみに、愛竜レオを町から離れた森の中に隠し、かつ、粗末な衣装で入ったのは、これまでの経験が役に立っている。
煌びやかな恰好では、だれから監視されているともしれず、あるいは賤民たちの目を引きすぎる。彼らを追っ払うには金しかない。
世間知らずな少女はほどんどの賤民が、一生でも一度もお目にかかることのない金貨を投げつけたものだから、目立ったことは言う間も出ない。賤民どころか、上流の商人たちまでもが近づいてきて、さぞかし有名な竜騎士だろうと、たらふくごちそうになったくらいだ。
それに懲りて、少女は普段常用している服は隠して、粗末な身なりに扮して市門を潜った。
そのとき、声をかけてきた少年が、頼みもしないのに競技場の歴史を語った。
「ミラノ帝国の、アグスツゥス・マリウス皇帝が建てたんだ。西の蛮族ユンカー人を平定したお祝いにね・・・・・歴史案内はおいらに任せてくれないかな?」
ジャクリーヌはこんな薄汚い賤民の少年が、ミラノ帝国の歴史について詳しいことに疑問を抱いた。しかも、ほぼその内容も正しい。
本当に賤民だろうか?自分と出会ったのは偶然だろうか?
少年の歴史談は、競技場の横にある凱旋門に移っていた。
貴族の能力を押さえつけるために、それは賤民に身を扮して敵国に潜入するために使う方法があると、カトリーヌが言っていたような気がする。それをこの少年が知っているとすれば。誰かの間諜か?
疑心暗鬼に陥っている彼女にとってみれば、カトリーヌ以外のだれもが敵に思えた。彼女とて、個人の感情と、彼女が背負っている、侯爵の継嗣という立場を天秤にかけるような条件を出されたら、どちらを取るのかわかったものではない。こんな疑いを親友に抱くような自分を殺す衝動に駆られている。
少女は気が立っていた。
マイケル王が競技会を開催すると聞いて、一も二もなく飛びついたのは、その辺に理由がある。
そんな彼女の気も知らずに、のんきに歴史談義を続ける少年。まったくミスがないことがさらに疑惑を呼ぶ。そこで裏の手を使うことにした。まさか、この少年がミラノ人の母国語であるケントゥリア語ができるはずがない。そもそも賤民の知性がそれを習得できるはずがない。
そう考えた少女はにこやかに微笑しながら、少年に向かって罵詈雑言をその言葉を使って話しかけた。
ぴくりと、少年の首筋が動いた。
それまで天真爛漫な乞食の少年という感じだったのに、そこはかとない気品が漂ってきた。ジャクリーヌは半ば呆れて、半ば同情していた。それは彼を間諜に仕立てた連中に対する思いも含めてである。この時点で、エベール伯爵夫人という線は消えた。カルカソンム侯爵本人はどうだろう?それも考えにくい。ならば、カトリーヌか、それもありえない。親友が自分に隠し事などするはずない。少女自身が気付いていないことだが、さきほどとカトリーヌに関して矛盾する思いを抱いているのだ。そのことだけをみても、彼女が精神的に相当に痛手を蒙っていることがわかるだろう。
以前の彼女なら決してこのような行動に出なかったにちがいない。
しかし、シャンディルナゴルのジャクリーヌは一味も二味も違う。こんなことを言い出した。もちろん、ケントゥリア語で。
「私ハ気ガタッテイル。イイ加減ニ正体ヲ明ラカニシタラドウカ?」
ちょうど、少女を先導する形で前を歩いていた少年が振り返った。その顔は、まるで化け物でもみるような顔だった。それが少女の堪忍袋の緒を切り取った。あまりにもぼろぼろになっていて、ふとした拍子に切れてしまったのである。
王太子の妹は、少年の首筋を摑むと、往来の中で引きずり回した。器用に賤民たちの間を縫うように進んで路地の裏に辿り着いた。
「ぁあぁっぁぁぐぐぐゥ・・・・・」
少年は、まるで瀕死の蛙のように無様なさまを晒して転がっている。口の端からは青い血が糸を作っている。
「私にケントゥリア語など使わせて、なんとか及第点を貰えたのよ。どういうつもりかしら?」
もんどりを打って苦しむ少年を見ているうちに、今まで感じたことのない気持ちを、少女は味わっていた。それは何処か勝利の高揚感に似て非なるものだった。
「答えなさい。いったい、誰の命令でここにいるの?」
「お、おねがいでございます、で、殿下、く、首、首、首飾りをはずして、はずしてく、ください・・し、死んでしまいます・・・」
「ケントゥリア語で言ってごらん。ユリウス・ポンペイウスたちが使っていたやつでなく、ミラノ僧侶の言葉でね・・」
それは嗜虐心という感情だと、少女はついぞ知らなかった。少年の鎖骨と鎖骨の間に光っている宝石が、どうやら貴族の能力を阻止する鍵らしい。彼は、自分の手で外すことすらままならないらしい。
「あはは、死んじゃうよ、このままじゃ」
少年は瀕死の状態であった。しかし、完全な絶望、この世で唯一の家族だと見定めているはずのカトリーヌまで疑うほどに追いつめられた少女は、喘ぎ苦しむ少年の姿を目の当りにしても、普段の彼女を取り戻すことはできない。なんといっても、彼が自分のことを殿下と尊称つきで呼んでいることにすら気づいてない。ただ、弱いものをいじめることだけに自我のすべてを使い切ってしまっている。
しかしながら次の言葉が、彼女をあっという間に現実に戻した。
「あ、姉上・・・・ぁぁ」
「わ、私ったら・・・・」
ジャクリーヌは少年の首飾りに手をかけると、すぐに切り離した。
「・・・・・」
少年はまるで安心したかのように、仰向きになるとゲーゲーと吐き出した。青い血が迸っている。
自分は、はたして、人の心をさんざん弄んだカルッカソンム侯爵やエベール伯爵夫人たちと何が違うのだろう。そして、実母。
彼女を悪しざまに罵った夫人に対して怒りを爆発させたものの、少女とて母親に捨てられたという思いを否定できない。
そういった卑劣な大人たちと何が違うというのだろう?
「ぁぁ・・・・」
今度は少女が嗚咽を出して苦しむ番だった。あいにくと、治療属性の才能を彼女は持ち合わせていない。町に薬師はいるだろうが、診る方も診られる方も賤民だ。貴族を治療できるはずがない。
彼女にできることはただ少年の身体を自分の身体で覆って祈るだけだった。すると、少年の嘔吐が止んだ。吐瀉物が自分の身体を汚しても嫌悪感を覚えない。少女はただ呟いていた。
「ごめんなさい・・・」
「で、殿下、いいのです。私のようなものに・・ウウ」
「動いちゃだめ・・・本当にごめんなさい・・私ったら・・・」
どうしてこんなことになってしまったのだろう?という言葉を呑み込んだ。そんなことを言っても余計に苦しめるだけだろう。
「わ、私はある人の命令でここに来ています・・・それは殿下にとってとても重要な人です。それは聞かないでください・・」
そこまで言うと気を失って倒れた。一瞬、死んでしまったのかと絶望したが、オーラーは消えていない。少女は少年を抱き上げると、宿屋を探すことにした。
ジャクリーヌと少年が起こした顛末は、老女を通じてマイケル王と、ロペスピエール侯爵夫人に筒抜けだった。
ここは、王が秘密裏に借り上げた貴族の邸宅である。エセックス伯爵夫人と便宜的に名を与えた侯爵夫人を住まわせている。
昼間だというのにカーテンを閉めて、明かりも小さな蝋燭がひとつやふたつ、室内を飾りたてている贅沢な調度品や美術品の類が生来に与えられた才能を発揮することを妨げている。
部屋の中心には老女という特別な貴族が面妖な衣服と姿勢によって、エウロペ社会において異色な存在であることを主張している。
老女は、言葉ではなく、映像を直接、二人に送り込むことで中継の役割を果たしていた。
「もう、よい。ジャック、下がってよい」
王が呟くように告げると、老女は最敬礼をすると部屋を後にした。
「侯爵夫人・・・・」
王は、ふたりきりでなければ決して言わない呼び方を使った。
「・・・お嬢さんは立派に育っているようですね」
「・・・・・・・」
夫人は無言のままだ。美貌はベールに隠れているものの、整いすぎた鼻梁や口元の一部は外からも辛うじて見えて、その一級の芸術品の全体像をそれとなく暗示させる。
夫人は高価な椅子を逆に腰かけるという、貴族の礼儀から完全に外れる姿勢を自分の身体に強要しているが、けっして、ふしだらに見えないが不思議だ。リヴァプール王はいい加減に視線をずらした。それ以上、視線を固定していたら、彼が奉ずる宗教の教義からすればとうてい許されぬ行為に走りそうな気持ちになったからである。
いや、それはあくまでも建前であって、想像の中の妻に向かって一応は言い訳を考えてみたまでのことだ。
沈黙を押しとおす夫人に決まりの悪い思いをしたのか、王は、さらに言葉を続ける。
「子供はあれくらいがちょうどいい。いままではまるで聖人みたいだったとは思いませんか?あなたもそう言っていたではありませんか?夫人?」
「あの子は、ジャンは私にとっては息子も同様です。その子にこれほどの苦痛を味あわせた。ジャクリーヌにはお仕置きをせねばなりません・・・・ふふ、私ったら、まるで自分の手で育てたみたいに・・・・」
自嘲気味に笑った貴婦人は、王に母性本能の強さを改めて認識させた。