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聖女1  作者: 明宏訊
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エベール伯爵夫人ナデージュとナント王太子アントワーヌ、このふたりは互いに実の母子以上に強いきずなで結びつけられている、という自覚があった。

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妹ジャクリーヌのことを考えると、王太子アントワーヌの心中にはただ一つの疑問が渦巻く。それは、カルッカソンム家の人間が知っているにちがいない。彼が母上様と呼ぶ人物が目の前にいる。彼女が何か知っているはずだ。これまで質問しなかったことが異常と言うより他にない。

寝具から立ち上がると王太子はエベール伯爵夫人の目の前に立ち上がった。つい、この前は彼女の腰ほどぐらいしか背丈のない少年だったのに、あっという間に彼女を追い越して頭、一つ分以上に達してしまったかのように思われた。

しかしいくら身体が大きくなって彼女を目の当りにすると、自分は、父親には発狂されただけでなく、母親に捨てられたばばかりの哀れな孤児に戻ってしまうのだ。

だが、思い切って口を開いて。息せき切って、いままでひたすらひとりで悶悶と考え続けていた言葉が迸る。

「母上さま、どうして、ジャクリーヌを世間から隠し立てするようなことをなさったのですか?彼女を隠したのが、ヴェルサイユという村だということだけは聴いていますが・・」

伯爵夫人は王太子の顔を見据えた。そして言った。

「殿下、それ以上、ご自分の手で調べようとはなさらなかったのですか?」

まるで積極性を疑うような夫人の言葉に王太子は戸惑った。これまで無言のうちにヴェルサイユに向かって壁をつくっていたのは一体、誰なのか?しかし冷静になってみるとそれは彼自身に依るところが多いのではないかと思えてきた。侯爵や夫人は、一度も王太子にそれがタブーであるなどと告げたことはない。王太子、自らが動けばそれなりに妹に関する情報を得ることは可能だったはずだ。

それができなかったのは、見えない力が邪魔立て、というのでも、あるいは妨害ではないが、圧力をかけているような気がしてきた。

母上さまたるエベール伯爵夫人と、カルッカソンム侯爵家の人たちは、この世の誰よりも王太子を護ってきてくれた人たちであると思う。いろいろな心無い噂によって、彼の自尊心は擦り切れる寸前まで痛めつけられたのだ。父王のように発狂しなかったのは、夫人が、自分を捨てた実母の代わりになって影、日向、両方に渡って自分を庇護し、かつ、支えてくれたからだ。

 ところが、ジャクリーヌを隠匿したのは彼らなのである。そして、自分と妹の実母は淫売婦と影で囁かれる、ドレスデンはリッペンドロップ家出身の女性なのである。どうやら、母上さまがこの世でもっとも憎む人であるらしい。あの優しげな人の眉を潜ませるとは、どれほど実母は悪い人なのだろう。

  少年時代、実母の話を少しでも口の端に上せただけで、憎々しげな、あるいは、哀しいような、あたかもこちらまでもが心が裂かれる思いで涙した。アントワーヌは自分のことが大嫌いである。ゆえに自分のために泣いたことはない。だからといって、他人のために涙するなど自分からもっとも遠い人間のすることだと思っている。

  王太子が涙するのは、ただエベール伯爵夫人が苦しんでいる状態を目の当りにしたときだけである。そして、これまで一度か、二度かもしれないが、ジャクリーヌの境遇を思うって涙ぐんだことがなかったわけではない。

だから、夫人に対して実母の消息を尋ねるということは、彼にとって我が身を裂くような行為であった。

  だが、人間というものは自分の出自を問わねば我慢できない生き物である。よもや賤民の汚らわしい赤い血がこの身に交じっているなどと噂された日には、どうしても追及したくなった。そして、ついにそれをやってしまった。

妹についてもっとも熟知しているのは、カルッカソンム侯爵だろうが、彼は政務のためにナント中を駆けずり回っていて、とうてい王太子の相手をしている暇はなかったのである。

  確か、11歳の誕生日を数日後に控えた夏の夜だったと思う。このように質問した。そのとき、彼女の側にはまだ侍女がいたので少年は言いつけられたとおりに母上さまとは呼称しなかった。

「伯爵夫人、ロペスピエール侯爵夫人が出された、私に関する宣言とはどういうことなのですか?私の父がマクシミリアン2世陛下でないとはどういうことなのですか?いったい、私の本当の父上さまとは、そして、侯爵夫人とは・・・・・つ?!」

少年の背後で花瓶が割れた。即座に夫人の仕業だと見抜いた王太子は、しかし、そのときは簡単に引き下がらなかった。片づけようとする侍女を制して、自らの手で、青い血で破片を汚しながらも後始末しようとした。

それを見た夫人は慌てて王太子を抱きしめると、侍女の足元に稲妻を走らせると怒鳴った。

「な、何をしている!?治療属性をはよう、呼びなさい!!」

 治療属性が来る前に夫人は自らの手で少年の、青い血が迸る指を治そうとした。竜騎士よりも魔法使いの方が、それは専門である治療属性には敵わないが人の怪我を治す能力には優れている。

少年は夫人に抱きしめられ、そして、癒されることで大事なことは何もかも誤魔化されてしまったのである。指の傷は治療属性が診るまえに治ってしまったが、心の中にしまわれた傷は大人になった今日までも癒えずに胸の中で痛み続ける。

それから10年が経過した。

ジャクリーヌのことは、カルッカソンム家の家老であるジョルジュの口から断片ながら、王太子も耳にする機会が増えたが、なおも秘密の中心部分は謎のままである。

格子窓の向こうに桎梏の夜が広がっている。厩舎から竜の唸り声が響いてくる。竜騎士の才能がありながら、竜に跨ろうとしない。そのことも各地の貴族たちから嘲笑される理由にもなった。一国の王ともあろうものが戦場などに罷り出るものではない。これまでにない王という概念を打ち立てるといくら息巻いても、それは相手にする対象が書物の中ではだれにも相手にされないというものだ。そんなことは痛いほどわかっているのだ。だが、わかっていようがいまいが、彼は急流を流される小舟に乗せられた哀れな船頭にすぎず、何処までも流されるより他にないのだ。

そんな彼にとって数少ない味方の一人であり、その筆頭でもある母上さま。

妹、ジャクリーヌの話が出れば、二人を生んだ実母であるロペスピエール侯爵夫人の名前が会話の中に出てこないはずがない。それにも関わらず妹の話を持ってきたというのは、それを覚悟の上ということか。

王太子は、夫人がいつになく思いつめた表情をしていることに気付いた。いささか吊り上った目じりはいつもよりも険しく持ち上げられ、小さな唇は噛みしめられている。

それに視線を注いでいるうちに王太子は自分が言うべきことがしだいにわかってきたように思えてきた。

「ジャクリーヌは、王位継承権、第二位の持ち主ですね。しかも、私の父上は前王陛下ではない、という噂が立ち上って10年、この状況を利用しようする権力者の亡者たちの息吹が伝わってくるようです。彼女を背後から操って権勢を欲しいままにしたい連中ならば、いくら指が合っても足りないというものです」

伯爵夫人は王太子に近づくと、いつになく興奮した口調で捲し立てた。その手は広げられて、あたかも彼女の強い意思を代弁しているかのようだ。

「兄上が倒れた、これがあらゆる状況を悪い方向に向かわせている、最初の出来事でした・・・」

夫人の言葉を王太子は遮った。

「ジャクリーヌは一体何を求めて王都に向かっているのでしょう?背後にいるのは誰でしょう?」

自分の発言を遮られたことに憮然とした顔をするどころか、よくぞそこまで成長した、というような顔つきになって夫人は、あたかも切断された木に接ぎ木するように言葉を再開した。

「リヴァプール王の侵略、それに続くオルレアン虐殺、有力貴族たちの離反、あるいは中立化、そののちも悪い出来事の目白押しでしたが、今回のことはどう判断したらいいのか・・・・・」

王太子はいつになくきっぱりとした口調で述べた。

「母上さまにもお分かりにならないということですね」

 王太子はしかし自分も、その内面にお互いに矛盾する気持ちを抱えていた。幼いころに別れてもはや顔立ちすらぼんやりとしか覚えていない妹、彼女の対する肉親としての視線と、王位継承者という、自分のライバルとしての視線、いったい、王都に向かってくる彼女をどんな目で視たらいいのだろう?それがわからずに煩悶していたが、なぜか、それを夫人に知られるのがいやだった。

夫人は、王太子の双眸からそれを読み取れないのを、部屋の暗さのせいにしたくなったが、そうでないことは誰よりも彼女自身が知っている。

どうして、いまは生死の境を様っている兄、カルッカソンム侯爵がどのような理由で、ジャクリーヌを、実母が出奔した際に王都から連れ出し、ヴェルサイユ村なる人工的な空間まで造って、彼女を隠して養育したのか、まったく知らされていないのだ。いかに王太子が知りたいと思っても、知らないことを教えることはできない。

しかし、だ。知らないということを教える、それはできるのではないだろうか?とも考えたが、王太子がはたして信用してくれるのか、夫人は、それが心配だった、これまで彼から絶大な信頼を勝ち得てきた、そう自負してきたにも関わらず、である・・・。

もうひとつ、彼女が言えることはジャクリーヌの利用法である。それを実行すれば、王太子がみなの祝福を得て、晴れてナント王に即位できる、唯一の方法だと兄から知らされた。

それを、アントワーヌに告げることに、夫人は躊躇していた。そもそもこの子が即位することが彼にとって幸福なのか?

伯爵夫人がそんなことに自問自答を試みていることを、王太子は想像だにできなかったであろう。このこと関して、いや、それ以外であっても自分たちの思いは軌道を同一にしていると疑っていなかった、いや、実際は疑いたくなかったのかもしれないが。

夫人と王太子の間で、無言のやりとりがなされた。それは火花が散ると表現してもよさそうな、非常に激しい干戈であった、言葉を使わず、そして、剣も使わず、魔法も使わず、二人は信頼し合っている間で対峙したのである。

(本当に王位に即位する、という以外に殿下には未来は考えられないのですか?)

(当然です、私以外にナント王に即位する人物がエウロペの何処にいるとおっしゃるのですか?)

 それは老女たちが行うように魔法によって交わされた会話ではない。これまでふたりが培ってきた信頼関係が交わした言葉に依らない言葉であった。

ついに夫人は、自分が知っている限りのことをアントワーヌに告げることに決めたのである。


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