ジャクリーヌが空が白む前に竜に乗って飛翔した、それから間もなく、老女によって王都ナルボンヌは、エベール伯爵夫人の元のそのことが報告されていた。
ジャクリーヌたちが空も白くなる前だというのに、竜に乗って空に飛翔した、ちょうどそのころ、王都ナルボンヌは宮殿、エベール伯爵夫人ナデージュの居室は真夜中だというのに蝋燭が微かな風に揺らいでいた。
伯爵夫人は、老女からの報告を受けるとすぐに下がらせた。そして格子窓に近づくと空に視線を投げる。まだ白むには時間が必要のようだ。王太子殿下は寝所で夢の世界の住人となっていよう。しかし、朝まで待っておれぬとばかりに隣の部屋で控えていた侍女たちを伴って目的地に向かう。
やっと、王太子の妹が動いた。自分がすべきことを思い出したのだろう。あるいはカトリーヌが動かしたのか。
心の中まで枯れ果ててしまった伯爵夫人に、二人の間に交わされた友情を想像することすら難しいと外形的には思われる。だが、彼女はこの世に自分とは違う種類の人間がいることは想像できた。ただし、そのような人間を、ひとから裏切られたことがない、頭の中が、お花畑の人間だと嘲笑する対象でしかないと思ってはいるが、一方で、それが嫉妬からくるのだとわかるくらいに賢明なのだ。しかしそのことが彼女をより不幸にしている。そして、そのような彼女がこの世でもっとも憎んでいる対象が、ロペスピエール侯爵夫人エレオノーラである。じつは、王宮から追放したそのとき、殺害する予定であったが、予想もしない政敵の出現によって野望が萎んでしまったのだが、今となってみればあれはあれでよいと思っている。この世でもっとも憎い相手を、生きていれば、なお苦しめることができるからだ。彼女にはジャクリーヌというアキレス腱を持ち合わせている。生きながら苦しめる方法ならいくらでもある。利用して、利用しつくした後にゴミのように廃棄して、あの女が苦しむ姿をこの目で収めたい。そのためならばなんでもするつもりだった。
伯爵夫人は、カルッカソンム侯爵家というナントはおろか、エウロペにおいても有数の貴族家の出身であり、充分に王妃になる資格があったのだが、もう少しでその地位を得ることができたはずなのに、ドレスデンのような野蛮な血の女にその座を奪われたのだ。
その理由が、ナデージュが不産女だという実しやかな噂が流れていて、王家がそれをうのみにしたというだけでなしに、エレオノーラの実家、リッペンドロップ家が密かに魔法を仕込んだ毒薬によってナデージュの子宮を破壊したのだと、老女によって知らされた。詳しいことは何もわからないが、彼女は子をその身体に宿したことは一度として、ない。そういう事実からも彼女は自分の身体に纏わる黒い噂をエレオノーラとその一族と、無意識のうちに結び付けていったわけである。
ついでに言っておくと、ナント王家に嫁入りする外国人は母国における名前を完全に捨て去るという風習から、ヴァランティーヌ・ド・シャトーブリアンという立派な名前を賜っているのだが、あんな女は野蛮なドレスデン名で十分なのだ。もっとも、本人はもはやそのナント名を名乗るつもりはなくて、エレオノーラを、親しい間柄とでは名乗っている。
話を元に戻すと、エレオノーラを骨の髄まで憎むナデージュは、何としても復讐を果たすべく王に近づいて愛人となった。後の世に狂王と諡号されるマクシミリアン2世は、当時は名君とまでは言わないが、無難な君主ということはできる存在ではあった。政治経済においては自分よりも有能な家臣に任せることを知っていたし、彼らや彼女らに嫉妬することもない、という、息子であるアントワーヌにおいても一時期みられた性質をつねに維持していたから、ロペスピエール、カルッカソンム両侯爵家に限らず、周囲に優れた人材が集まったほどである。それゆえに、ナデージュの目にも魅力的な人間に映った。本人は英雄でも誉れ高い名君でもないが、優れた人間からすると、自分の顔をより美しくみせてくれる見事な鏡としての役割を果たしたのである。ナデージュやエレオノーラは彼に鏡としての美しさを無意識のうちに見出していた。
ナデージュは、いま、マクシミリアンの息子であるアントワーヌに何を見出しているのだろう。何と言っても母親は天敵としか言いようのない、エレオノーラなのだ。だが、彼を育てたのはあくまでも彼女である。誰も同席していないときは彼は自分のことを母上と呼ぶ。何ども止めるように言ったのだが、ついにこの年齢になるまで続いている。
もしも殿下が自分の子供だったら、どれほど嬉しいだろう。それを思うと、彼にそう呼ばれる度に、わが身の不幸と、エレオノーラとリッペンドロップ家への憎しみが増していく。
いま、ナデージュは侍女たちを引き連れて、ちょうど王太子の居室に向かう廻廊に差し掛かったところだ。宮殿内には強力な結界が張られていて、魔法の存在を除外している。その上、屈強な竜騎士たちが交代で寝ずの番を続けている。彼らは夫人を認めると一礼すると無条件に彼女と侍女たちを通す。
このような、通常ならば王太子が寝ているはずの時刻であっても時として彼女が渡ることが、日常なので彼が寝所にいることを報告することなどは、よほどの新米でない限り、ありえない。
身分柄、伯爵夫人が自ら王太子の居室のドアを開くことはありえない。生まれていらい、そのようなことをしたことがない。侍女たちにその行為を命ずると、実行させてからそこに控えているようにいいつけてから、中に入った。そして、あたかも魔法がかけられているかのようにドアは自動的に締まった。
夫人は侍女から渡されたランタンを持っている。それを使って、王太子を夢の世界から現実に引き戻すまえに部屋を一瞥する。魔法さえ自由に使えればこのような原始的な手段を使わずに済むのだが、王宮ではそれもやむをえない。伝統とこの場所の主を護る、ふたつの重要事項のために、強力な老女たちが地下で、大地の神によって守護されたる地において日夜、働いている。夫人は密かに老女たちに文句を言いながら、ランタンを本棚に向けた。いったい、どんな本を仕入れているのだろう。さいきん、高価な書籍を方々から集めていると聞く。夫人は視界に飛び込んできた書籍名を視て驚いた。いずれも、魔法の入門書だった。こんなものにいつから興味を抱いたのだろう。その一冊に手を伸ばそうとしたところ、背後から、いささか神経質に高い声が背後から夫人の背中に突き刺さった。
「母上、このような時刻に何をなさっておられるのですか?」
夫人はまじろぎもせずに振り返ると口を開いた。
「殿下、お人の悪い、起きておられたのですか?」
王太子アントワーヌは寝具を除けるとベッドに座った。そして、伯爵夫人にしか向けない表情を見せた。かすかにあどけなさを遺した、この世で夫人以外はお目に懸かれない顔つきである。最近の彼はとみに猜疑心の塊であることを隠そうとしない。血筋からいってもけっして醜い容貌ではないのだが、住まわせている魂が外見を冒している。
王太子はガウンを羽織ると立ち上がった。
「母上、何が起こったのですか?」
夫人は再び、本棚に身体を向けると、たまたま視線が止まった本を手に取った。
『魔法の制御』
たまたま開いた分厚い本の文字を読み上げる。いうまでもなく、古代ミラノ人の言葉、ケントゥリア語である。
「魔法にとってもっとも基礎となる概念は何か?」
アントワーヌは即答した。
「魔法の使い手としての大小は、その使い手の内部にあるのではなく、むしろ、異界のエネルギーを制御する弁としてどれほど優れているか、否か、にある。むろん、体内に尊い青い血が流れていることが大前提である」
まるで棒読みのような声が続いてアントワーヌの口から迸る。
「矛盾していますよね、母上さま」
ふと、アントワーヌの声が少年の、ちょうど変声期前の彼のそれに聞こえた。当時、自分の身の上を呪って教師役であるナデージュに本を投げつけて怒鳴ったことがあるが、その後に冷静に戻ったときに酷似していた。
実母に、父親はナント王マクシミリアン2世ではない、という宣言をされたわけだから、とうぜん、彼は自分の出自に疑問を抱いている。自分の身体に尊くない血、よもや賤民のそれが流れているのではないか、当時の彼は自分の身体を自らの手で傷つけ、藍色の血を毎日、確認しなければ朝が始まらなかった。
伯爵夫人は、他の竜騎士たちの助けを借りずに自らの力のみによって、自傷行為に耽る少年と相対した。彼の面差しは、かつては、母親であるエレオノーラに酷似していた。今はそれほどではないが、当時は常にぎょっとさせられることが、一日に何回もあったものだ。
それにも関わらず、心の片隅では憎き敵を呪う言葉を口ずさみながら、少年には笑顔を向けていた。それが今まで続いたのである。そして、今も向けている。
アントワーヌ王太子は自分が母親と呼んでいる女性が自分を黙ったまま見つめ続けていることに気付いた。
「母上さま、どうされたのですか?」
伯爵夫人は、今更のように自分の魂が過去に戻ってしまっていたことに気付いた。
「ごめんなさい、つい、昔のことを思い出してしまって・・殿下、喫緊の問題が発生しました。あなたの妹が動き出したのです。こちらに向かっています。間諜と老女、同時に同じ情報が舞い込んでいます」
妹という言葉が王太子の表情を引き締めた。
「ジャクリーヌが?!」
思わず背中を夫人に向けて咳をする。
彼にとってジャクリーヌとは彼女が幼いころに別れてしまった。おそらく、自分のことを兄として認識していないにちがいない。しかしアントワーヌにとってみれば生き別れた妹である。肉親というものに不幸の色、以外には視覚的に感じられない王太子にとって、ジャクリーヌは、唯一、期待していい存在だった。ヴェルサイユという村で育てられていると、カルッカソンム侯爵、彼は父上さまと呼んできた人物が言っていた。それを聴いたのは、彼がごく幼いころであって、それ以来、父上さま、母上さま、双方に彼女の消息について質問したことはない。
伯爵夫人の報告にも、あくまでも、彼女が王位継承者として第二位の権利の持ち主であって、自分が即位するのに壁となる可能性がある、という認識を仮面として被って受けていた。仄かな愛情を抱いているなどオクビにも出したことはない。
夫人の報告はどのような意味があるのだろう。王太子はいましばし、自問自答することにした。




