エベール伯爵夫人と、ジャクリーヌの口論は続く。夫人が少女の敵だと断じたリヴァプール王は、すでにナント奥深く進撃している。
侯爵は再び体調を崩して、貴婦人に命令されるまでもなく、医師たちが寝室へと連れて行った。
エベール伯爵夫人は、兄がいないことをわかっていながら、もういちどそれを確認すると、少しばかり声を荒げた。
「確認させていただきますが、母上とはどなたのことでしょう?ヴェルサイユ村であなたさまをお育てした方にございますね。おそらく、事がすべて成った時点で爵位が与えられるでしょう」
「・・・・・・・・・」
しばらく二人の間に黒い沈黙が安座した。口火を再び切ったのは、ジャクリーヌだった。
「爵位?ですか?」
「土豪としては天にも昇る心持でしょうね」
「エベール伯爵夫人!」
夫人はしまったと舌打ちした。どうも、この田舎育ちの娘を相手にするのは疲れる。こんな子供を相手にしているというのに、この場を支配できない。おそらく、この子にとってみれば土豪とはいえ、自分を育ててくれた両親なのだろう。それを侮辱したのはまずかった。自分の言いように制御しようとするのだから、それくらい汲めなくてどうするのか?伯爵夫人は自分のミスを思い知った。
一方、ジャクリーヌは蛇に睨まれた蛙も同じ心境だった。
彼女が過ごしてきた生活空間は、少女のように呑気な世界ではなかったらしい。あの人の境遇と自分の年齢との差異を考えれば当然のことだが、そうは言っても自分としてもけっして譲れない一線と言うものはあるのだ。
「母上さまとは、私を生み参らせたまふた人のことです」
彼女は何もかもわかっているだろうと、わかってはいるが、あえてこう言い立ててみた。そうしないと、確たる、少女自身の意思というものは伝わらないだろうと踏んだのである。
もはや、ドレスデン女と罵ることはできなくなっていた。
「・・・・・・・」
「私を生み参らせた、母上・・・ロペスピエール侯爵夫人と会わせてください。 この条件を呑んでもらえないのならば、私は動くことはできません。ヴェルサイユが宗主とするのに、相手がリヴァプールだろうが、ナントだろうが、何の関係もないことがわかりました」
貴婦人は、何を小娘が、という目をした。
だが、ここは冷静に話を進めなければならない。何と言っても相手は子供なのだ。きっと
「あの村は人工的に作ったものです。殿下が侯爵夫人に捨てられるときに、すべてはこちらの計画上に・・・・・」
貴婦人はみなまで言い終えることができなかった。再び、ジャクリーヌの身体からエネルギーが迸りはじめた。
「感情もろくに制御できない小娘のくせに・・・」
ついに本音がぽろっと貴婦人の口から出てしまった。
「母上さまが・・・捨てた、というのは打ち消してください」
「打ち消すも何も事実だからしょうがありません」
貴婦人にしてみればどうにかして、ジャクリーヌの賛同を得ねばならない。
しかし、いざロペスピエール侯爵夫人の名前が出ると、彼女らしくなく感情的になってしまい、事態を悪化させてしまう、そのことに気付いていながらどうしょうもできないことに歯噛みすることしきりである。自分を制御できないのは自分の方だと、自嘲するどころではないのだ。
本当ならば額づいてでも、承諾させねばならないところだ。追いつめられているのは貴婦人の方だ。ナント王国とリヴァプール王国を天秤にかけるところなど、常識的な発想では絶対に浮かばない方策といえる。育ちが育ちだけに柔軟な思考ができるのか、もしくは天分だろうか?
この少女はナント王国のために働けないという。ヴェルサイユなどという村に隠匿した結果がこのような状況を招いた。もちろん、兄たるカルッカソンム侯爵の意図なのだが、今となってみれば他の選択肢はなかったのかと訝る。あるいは、あの土豪たちに接する機会を増やして、シャトーブリアン家という比類なき高貴な血をひくことを厳しく教えさせるべきだったかもしれない。しかしそれができなかった理由は誰よりも伯爵夫人が心得ている。ロペスピエール侯爵家、リヴァプール王家、その他、反王太子の勢力に、ジャクリーヌの存在を仄めかすことすら危険な時期だった。動くに動けなったのだ。
ならば、むしろ亡きものにすべきだった。
伯爵夫人は臍をかんだ。いま、彼我の能力差は歴然としている。だが、赤子の手をひねる、という故事があるが、その通りに、いや、首を絞めてやるべきだった。それもあの憎いロペスピエール侯爵夫人のまえで。
夫人の妄想を破ったのは、少女の一言だった。
「ヴェルサイユ村は私のすべてです。あの村のためならできないことはありません!」
「ほう、その条件が達成されるならマイケル5世とも手を組むということですか?」
「・・・・・・・・・」
まさか、こんなことが自分の口からついぞ出てくるとは夢にも思わなかった。本当に自分の冷静さを狂わせる魔性の少女だと、伯爵夫人は、自分が相手にしている人間を年齢通りにみてはならないと肝に銘じた。
押し黙った少女に回答を促す。
「マイケル王がどんな人なのか、検討も付きません。お会いしてみないと・・・」
「ご自分がおっしゃっていることがわかっていらしゃらないようですね、殿下?」
少女が言いよどんだのを見て、我が意中に取り込むならば今だと見た。
「本当にそんなおつもりはないでしょう?できもしないことを出まかせに言うものではありません。本当に教育がなっていなかったのですね」
この田舎娘が、とあからさまに見下して見せる。去勢だということはわかっているのだ。しかしそうでもしないと大人の面目がつぶれてしまう。
「いいですか?リヴァプール王家、ヘイスティングス家はもともと、シャトーブリアン家の家臣にすぎないのです」
「だけど、時の王は継承権が自分にあると主張したのですよね」
「ロバート3世なぞ、単なる言いがかりをつけてきたにすぎません」
エベール伯爵夫人の言は、上っ面は勇ましいがその実、恐怖感に支えられていることを、鋭敏な少女は洞察していた。
自分のことを殿下と呼びながら、悠然と自分の目の前を横切る伯爵夫人を横目にみながら、少女は、この人を越えなければ自分の道なぞとうてい見つけられないと思った。
伯爵夫人は、少女が敵とすべき相手をリヴァプール王国だと定めた。
すでに、ナント、リヴァプール両王国の戦争は100年になろうとしている。
後者の圧倒的優位は、だれの目にも明らかだろう。
マイケル5世率いるリヴァプール軍は、ナント王国におけるほとんどの拠点を落とし、その矛先は王都ナルボンヌに届きそうな勢いとなっていた。事ここに至って、王は何か妖しい胸騒ぎを感じずにはいられなかった。あまりにも相手がもろすぎるのだ。それは歴戦の勇士故に・・・・・感じる当然の不安だったかもしれない。マイケル王は即位して10年、やっとエウロペ大陸の中心に位置するナント王国を手中にできるところまでやってきた。即位して5年は後顧の憂いを始末するのに必要な時間だった。なんとしてもリヴァプールという概念を確立する必要があった。
国家とはそれ自体では何ら実態があるわけではなく、単なる集団幻想にすぎない。それは古代から、幾多の国家や民族の攻防を文献の中に見出せば、よほどの知的な問題のある人間でなければ容易に理解できることである。
古代ミラノ帝国、アッカド帝国。
誰でも知っている古代に栄えた王朝名を挙げてみれば、それが国家、民族ごと地上からきれいさっぱり雲散霧消してしまったことがわかる。
マイケル王はみなが無意識のうちにやってきたことを、意識的に実行しようとした史上最初の王である。
ミラノ教皇が提唱した無謀な東征は10回以上に渡って行われたものの、無前な失敗に終わった。それゆえに、リヴァプール、ナント、ともに諸侯の政治的エネルギーの低下が比較として王権の伸長をもたらしたものの、今だ、王は有力諸侯の一勢力にすぎないという現状は変わらなかった。
マイケル5世が行ったことは、ナントという敵を利用することによって、有力諸侯をふるいにかけることだった。自分についてくるのか、もしくは叛逆するのか、あまりにも明快な二者択一を突き付けた。諸侯にとって、大陸権益といううま味はもはや手放せないものとなっていた。
中世封建体制という古いしきたりにしがみ付いた有力諸侯こそ、まさに公後顧の憂いだった。戦争には大義名分が必要だが、彼らは錦の旗をマイケルに奪われていたのである。そのことに気付かなかった無能さこそ、軍事的には有利だったにもかかわらずあっさりと滅んだ理由だろう。
当然のことながら、ナント側にまったく人がいないわけではない。トップたる王太子アントワーヌは無能だが、カルッカソンム侯爵というマイケル王にとっては、決して軽んじることのできない相手が老人ながら彼の前に両手を広げて、王の野望を遮断していた。
ロペスピエール侯爵という楔を大陸に打ってあるものの、彼の勢力を全面的に信頼しているわけではない。
このような情勢下にあって、カルッカソンム侯爵と国内の守旧派が手を結んだらどうだろう?に正面作戦の愚を知りながらあえてその方法を取ったマイケル5世にとって、それほどの悪夢はなかった。それゆえに、ナント国内に親リヴァプール派閥と呼ばれるグループを、密かに形成を画策していたのである。
ナントは、アキテーヌ北部にリヴァプール王軍は陣を張っている。拡大しすぎた戦線を収容し、ここまで引いたのである。賢明なる将であればあるほど、いま自分たちが有する戦力、あるいは、戦力インフラで支配領域を何処まで広げられるのか、それを常に把握しているものだ。
ここから早馬ならば3日ほど進んだ場所に、ロバート3世が築いた城が立っている。その城との距離、度重なる戦闘によって蒙った被害、それにはこちらが逆に与えたものも含まれるが、それらを総じて計算すれば簡単に答えは出てしまう。
諸将を集めての会議は終った。
いま、マイケル5世は通常の王ならば、とうていありえない仕儀に出ている。竜舎に罷り出て、愛竜、カトリーヌの背中をブラシでこすっているのである。そこにやってきたのは甲冑姿の竜騎士である。胸の部分を一目みただけで、三人称が彼女を使うべきだと誰でも理解するだろう。
周囲に人がいないことを確かめたマイケル王は、竜騎士を本名であえて呼んだ。
「ロペスピエール侯爵夫人、せめてこういうところでは兜を脱がれたらどうだろう?」「ミッシェル陛下、皺は女にとって大敵、人には見せたくないものですよ」
その声は静かだったが怒りを抑えている。
しかしその怒りはマイケルに対して、ではない。兜を脱ぐと見事な金髪が薄暗い竜舎の中においても、まるでそれ自体が光を放っているかのようにきらきらと王の目を奪った。意識をどうにかしないと籠絡されそうだ。本当に40歳も後半に達する女だろうか?彼女は皺のことを言ったが、絹のように滑らかな肌に皺ひとつみられない。まだ生娘のような光を身体から放っていながら、年相応の重厚さを兼ねそろえている。王は自分に対して向けられたわけでもない怒りを正面から受け止めた。彼にしても夫人に反論したいことがある。「ナント語読みは止めてもらいましょうか?」
リヴァプール語は、本国にあっても下層階級の言葉にすぎない。貴族たちの母国語は今もってナント語である。それをマイケルは強行に変革しようとした。「リヴァプール語にはもののあはれの片鱗すら、彼らリヴァプール人にはそういう才能が生まれもってないとしか思えません」
「私は新しく創るリヴァプールという概念にふさわしく、言葉をも新しく生まれ変わらせる必要があると考えています。そのためにも我が王家から新生リヴァプール人にならねばならないのです」
「生粋のナント人であるあなたが、ですか、そうですね、生粋のナント人などいないのでしたね」
つい先ほどまで美貌を甲冑で隠していた女は、マイケル王の反応を先取りしていった。それは彼の口癖でもあったからだ。それでもちくりと反論をあきらめたわけでもない。
「なんでも新しいものがいいとは限りませんが?」