ジャクリーヌ、変容する。それに最初に気付いたのはカトリーヌだった。
ジャクリーヌは、竜騎士試合で戦ったプランタジネット殿のことを、カトリーヌに語りだした。話に夢中になるあまり自分が竜に乗っていることを忘れているかのように、大げさなしぐさで戦いの状況を説明した。いかに当該人物が優れているのか、事細かに語った。
カトリーヌは毒気を抜かれた様子でただ黙って聴いている風だったが、その背後にいるイザボーはいい加減にうんざりして一言、嘴を突っ込みたくなった。
「殿下、そのプランタジネット殿とおっしゃる方は、本当に素晴らしい方のようですが、もしかしたら、殿下を利用しようとなさっているだけかもしれませんよ」
とたんにジャクリーヌは表情を豹変させる。そうなると、少女は視ようによっては、少年のそれに見えかねないほどに角度のある顔立ちになってしまう。
あえて、わざと水を差してみたのである。そのことが王家の血を引く少女は理解しているのだろうか?イザボーはそれを伺うために彼女の顔をじっと見つめた。
その視線に気が付くと少女は顔を赤らめた。こうみると、たしかに彼女は少女で、可愛らしいという表現が適当であることがわかる。しかし、もしもカトリーヌに私淑している人物がいたとして、そもそもこのナルシストにはそんな対象者がこの世にいるはずもないが、それを誹謗するようなことを一言でも漏らしたら、おそらく、何倍にもなって帰ってくるにちがいない。
それでもやはりひとりだけいたかと、少女の横顔を観察しながら気づいた。プランタジネット殿、という人の本質をアナタはどれほど知っているのかと、思わず突っ込みたくなる。もしも、彼女の内面で地下世界の中心に輝ける太陽を批判したら、どんな顔を見せるだろうか。意地悪な視線を向けてみる。
思うだけで実行しないのが大人というものだろうが、あいにくとこの状況下においては、彼女は未成年に戻ってしまったようだ。
気が付くと小鳥の舌のように小さな唇が動いていた。
「殿下はお気軽でよろしいですね。尊敬できる人が即席で用意できて。ご自分の理想をそちらに投影すれば済む話で・・」
イザボーは、想定したセリフを最後まで言い切ることができなかった。カトリーヌの背中に浮き出た頸椎の棘から殺気を感じたこともあるが、思いつめたジャクリーヌの双眸がイザボーに突き刺さって初心を貫徹することができなかったのである。
少女は、しかし、涙ぐむ前にその感情を言葉に変換することはできた。
「イザボー殿は尊敬なさる方はいないのですか?」
ぐっと、その質問はイザボーの内奥に食い込んでくる。本来ならば即答できる問いのはずだ。しかしながらそれはあくまでも条件と状況が合致した場合のことであり、いま、彼女はそのような境遇にいない。
カトリーヌの氷よりも冷たい声が響いた。
「おそらくこの人には尊敬できる人なんていないのよ、というより他人に興味を抱く、感情そのものがないんじゃないかしら」
その声は彼女の身体、そのものを楽器にして響いているように思われた。要するに心からあなたのことを人間だと思っていない。人間らしい感情などない人形にすぎないと言っているのだ。いや、彼女だけでなく、世界中、すべての人間にそう言われているような気がした、ただし、たった一人の例外を除いて・・・。
友人がいないというのは、彼女のコンプレクスだった。こんな子供たちの前で涙をみられるなど、とうてい自尊心の許すところではない。
ジャクリーヌが、彼女を庇って、親友にしか使わない言葉で罵るのを聴くのもいやだった。それは二人が自分にはない親密さを見せつけているように思えてしょうがないからだ。
どうしてこんな屈辱を味わうことを強要されるのか、将来を嘱望される治療属性は臍を噛んだ。たまらなくなり、お方様、ジャクリーヌが呼ぶところの、プランタジネット殿に会いたくてたまらなくなった。主君の顔を思浮かべたら何とか平静を保つことに成功した。静かな雨音がそれを自然な形で言葉にすることに成功した。
「大人の世界には子供には全く理解できないものがあるものです」
自分で言っていて、何と虚しいのかと嘆息するしかない。
頬が熱い。治療属性は自分の病は治せないという言い伝えがある。それはその世界でいわば、慣例のようになっている。
突然、巨大な黒い影のようなものに襲われたとおもって、声を上げた。周囲を見回すとそこが洞穴であることがわかった。
思わず口からついで、言葉が出てきた。
「どうして、このような場所に!?」
闇の向こうからカトリーヌが即答した。微かに金髪が美しく輝いているのが心憎い。
「将来を嘱望された治療属性さんは、雨が降ってきたことにも気づかなかったんですか?手頃な雨宿り場所がみつかったんで、こういう仕儀に相成った、というわけですよ、あなたの弟さんのお手柄ですよ」
イザボーは、大人げないことにこの少女たちの弱みというか、隙を無意識のうちに探していた。
「それにしても、みなさんは本当に人の血にしか興味のない無粋な方ばかりなのですね。こんなに薄暗いんじゃ気持ち悪くないんですか?」
彼女が言い終える前に、この小人を中心に洞穴の中が光の玉が闇に浮かんだ。
カトリーヌは、相手が年上とはいえ怯むような人間ではない。殴られたら殴り返すのが彼女の主義である。
「治療属性さんは、こんな小細工としか言えないような魔法を習得なさってるとは夢にもおもいませんでした」
先ほどの自分の発言で、この空間、全体の空気がイザボーに対して感情が悪化している。弟のジャンは何か声をかけたいのだが、なかなか場の空気に圧倒されて自分を出すことができずにいる。そもそもどちらに向かって何を言っていいのか、それすらわからないという状態なのだ。ただまごまごしているのが関の山だった。
イザボーにしてみても、誰に頼ろうなどと思ってはいない。または誰にも反論する気もない。自分を受け入れないのであれば、それもよい。どうせ自分を必要とするときがくるであろうというのが、彼女が事態を達観したうえでの見解である。
それは見越した上でのことだ。カトリーヌには何ら脅威を感じない。問題は殿下である。いったい、その目つきは何なのだ?憐れむような視線が、彼女がいる方向から突き刺さってくる。
それを自分を脅かすものだと認識した時点で、イザボーはかなり追いつめられている。実際は、彼女はジャクリーヌ以下の軍隊といっていいのかわからないが、それに溶け込む必要性があるのだ。彼女が言うところのお方さま、の意思はそうでなくては貫徹できない。ジャクリーヌを守ってほしいという思いは、自分の卑小な思いによって壊されてはいけない。そんなことはわかっているはずだが、自分の中に気付かずに潜在していた衝動がそれを破壊しようとしている。いま彼女が恐れるべきはそれであって、ジャクリーヌではないはずなのだ。
いま、ジャクリーヌは、イザボーを見据えるために光の前に出てきたが、何かを問いかけたいという思いは強いのだが、なかなか具体的な言葉を見つけられない。そういう思いが爆発しそうになって今、彼女が示している表情になった。
そんな風にみられると、イザボーにしても折れるべきところは。折れなければならないような気がしてくる。溜まった水の脱出先を見出してやらねばならない、この場合、水とは感情のことだが。
「殿下、殿下は私に何を求めておられるのですか?」
ジャクリーヌは、それにも即答することができなかった。イザボーはそれに代弁することで道を示そうとした。
「私はリヴァプール王の意向とは、必ずしも一致しないところで動いております・・」
イザボーが言い終える前にジャクリーヌの白い歯が光った。リヴァプール王と聴いて、穏やかでいられなくなったカトリーヌが口を動かそうとしたのを、親友が制した。
「ジャ、ジャクリーヌ?!」
そのとき、彼女が醸し出していた冷たい空気は、とうていカトリーヌが慣れ親しんだものではなかった。だが、明らかに彼女自身なのだ。さらにイザボーに近づくと彼女が聴きやすいように屈んだ。
イザボーはその態度に屈辱を感じる余裕はなかった。
「で、殿下?」
相当に腰を折っているが、イザボーがあまりにも小さいために、彼女が直立していながら見上げている状況である。
ジャクリーヌは口を再び、開いた。
「治療属性どの、あなたは私にとって不可欠な存在です」
カトリーヌは久しぶりにこれほど大きな彼女の声を聴いたような気がした。だが、内容も口調もとても彼女と同定できない。あたかも何か別人の魂に乗っ取られたようにすらみえる。
そう言われたイザボーは返す言葉がなかった。その代わりに右手を胸に当てて、左腕をぶらりと力を抜いて傅く、例の、家臣が主君に見せる正式な礼を示した。
世界を凍りつかせるようなまなざしを向けていたジャクリーヌは、厳かな雰囲気のなかで言った。
「あいにくと、私には正式な身分も領地もないゆえに、受爵はできぬがそれでもよいか?」
そう言ってなんと剣を抜いたのだ。
それを観ていたカトリーヌは黙ってみていられなくなった。二人の間に分け入る。ジャクリーヌが何をしようとしているのか、見抜いた彼女は阻止せずにはいられなくなったのだ。
「ジャクリーヌ、何を考えているのだ?軽はずみなことは止めなさい」
とたんにジャクリーヌの闇を切り裂くような冷たい声が洞穴に響き渡った。
「カルッカソンム侯、継嗣カトリーヌ、それが主筋に対する態度か?」
みなは驚いたが、すでに親友の身体がすでに何者かに乗っ取られたことを、本能によって勘付いていた少女は動揺しなかった。
同時に、この場の空気からして素直に従うことが良策だと思い、イザボーとおなじ姿勢を取った。とりあえず、様子見である。いったい、何者が大事な友人の身体を盗んだのか、必ず見極めてやると密かに活きこんだ。
さきほどよりもはるかに凍りついた声が、洞穴の天井あたりから落ちてくる。
「継嗣、幼いころからそなたのことは知っている。ありあまる才能の使い方を学ぶ必要がありそうだ。イザボーをよい教師だとみなすのがよかろう。今のままではカルッカソンム侯爵家を継承するとは先祖に対してもうわけが立たぬというものだ」
イザボーに向き直ったとき、ジャクリーヌの顔つき、そして、声は打って変わって温度を取り戻していた。しかしカトリーヌはそれをジャクリーヌのものだとは認められなかった。明らかに別人だった。そして、眼差しを向けられた本人もそう見なしたのである。
彼女の口が動いたとき、二人の直感を正しいと認識した。
彼女はドレスデン語の詩篇を口にした。それはイザボーにとってのお方様が好きな詩だった。そして、そのことを知っているのは彼女だけなのである。
「私を実感せよ、誰ならぬそなたならば、私を見抜けるであろう、どれほど容貌がかつての私だと分からなくなったとしても・・・」
ただ、最後の部分は、醜くなったとしても・・・だとイザボーは思っていたが、彼女の口から朗々と迸った暗唱に不自然さはまったく見受けられなかった。




