ジャクリーヌを貴族の娘として養育した、カルッカソンム侯爵、死に瀕する。
ジャクリーヌが少女から大人の女性に近づくにつれて、ナント王国の敗色は濃くなっていった。
戦っている相手、彼らにしてみれば侵略者にあたる、リヴァプール王国。海を越えた島としては大きな、ナヴァロン島から海を越えて攻め込んできた。
マイケル5世は武人として優れ、人望も熱く、有力諸侯たちも彼の個人的な魅力に賭けている。
一方、ナント国王は不在で、王太子は・・・人望がないだけでなく、武人としての才能が圧倒的に欠けていた。もはや、ナントという権威そのものがかたちだけのものになりつつ、有力諸侯が虎視眈々とその地位を目指す始末だった。もはや、マイケル5世の視線は王太子を超えて、神聖ミラノ皇帝を視野に収めているほどだ。
しかし貴族として侯爵から養育されるようになっても、ジャクリーヌは自分がナントという王国に属しているとは思えなかった。そのために生死をかけることや忠誠を捧げるという感覚は、いくら教えられても身に付くものではなかった。ただヴェルサイユ村が王国の荘園に属している。
ただ、それだけのことだった。しかし血のつながりのある母親が生きているという事実は、育ての母親がいるにもかかわらず、ジャクリーヌの気を引いた。それを知ったカルッカソンム侯爵は、暗に自分の言うことを聞けばいずれ実母に会わせるというような姿勢で接することにしたのである。
だから、侯爵にしてみれば、ジャクリーヌの生母について事実を知らせるわけにはいかなかった。王妃が、いかなる理由でロペスピエール侯爵夫人なのか、王家をなにゆえに捨てたのか、彼女は狂った王の妃であった、という事実そのものをなかったことにしたかったのだ。
こともあろうに、結婚の無効をもとめて、ミラノ教皇に請願するために使者を送ったのである。もちろん、彼らはいずれも機先を制した侯爵によって異国の地に青い血を流すことになった。かなり強力な貴族を使ったために、侯爵自らが出張る必要性が生じた。とにかく侯爵夫人は危険だった。
侯爵夫人が実の娘についてどれほどの情報を得ているのか、それすらわからないが、野心の手を伸ばしていることは、種々の情報から事実のように思われた。ロペスピエール侯爵家はもはや、教皇と本人が合意すれば王を名乗れるほどに強大化していた。
内実はともかく、あくまでも表面上は対リヴァプール戦線に籍を置く将として名を連ねているのだから、戦線を・・・何とか成り立たせているのは、少なくともその半分は、彼の武力と名声故というのは、ナント王家やそれを支持する諸侯にとってみれば皮肉は話だった。
因みに残り半分はカルッカソンム侯爵の武力と声望であろう。
そのような情勢の中で、ヴェルサイユ村のジャクリーヌは、自分が置かれている立場というものを理性ではわかりながら、感情的には受け入れることは難しかった。
育ちが育ちだけにはっきりとものをいう、ジャクリーヌ殿下は、ヴェルサイユ村のためならば、リヴァプールだろうが、ナントだろうが、どちらでもいい・・・・・と結論はあまりにも単純なのだ。貴族の常識から完全に外れている。
しかし、彼女の聡明さは味方にするにはこれ以上のものはないと思われた。
その絶望が病因になったのかもしれない。カルッカソンム侯爵はとある日、朝食を取った後に倒れた。その瞬間、青い血を体内に巡らせる貴族だけに自分の運命を悟った。すぐに妹を呼びよせる手筈を整えさせた。死という幸福に囚われる前にこの生でやっておくべきことがある。
死と言う幸福の天使が彼の目前で黄金の翼をはためかせていた。天使は、この世のものとは思えない美しい声で彼の洗礼名を呼んだ。それは魂に刻印されて、人間界においてつけられる、いわば便宜的な名称とは異なって、永遠に消えぬアイデンティティといってもいい。だが、彼は幸福に抗う。
その天使が出生の際に母親の元に連れてきてくれたことを懐かしく思い出しながら・・・「私には最後にやることが残っているのです」
「それが主の望みでなくても?」
「もしもそうなら致し方ありません、それでも意図するくらいは許されてもいいのではありませんか?」
そういうと天使の顔が、見慣れた妹の顔になった。とたんに口が動いた。それはあたかも何者かに動かされているような不思議な感覚だった。彼女は黙って聞いていた。彼女には隠してあった事実もその中には隠されているので、表情が陰るかと訝ったが、そんなことはなかった。
おそらく、妹とて高位貴族ゆえに兄に何が起こっているのか悟っているのだろう。もはや自分の意思でしゃべっているのではないのだ。言うべきことをすべて言い置くと侯爵は意識が薄れていくのを感じた。最後に、ジャクリーヌ殿下をよろしくと、口走ったような気がする。
目が覚めると、黄金の翼をもつ天使ではなく、ジャクリーヌ殿下が心配そうな目つきで侯爵を見つめている。少女は、彼の合わされた両手を自らの手で温めていた。声を出そうとしても、口が動いてくれない。おそらく、運命が 自分から声を奪ったのだろう。すでに言うこともなかろう。
朝というには上りすぎた太陽を、妹は目を細めて眺めている。ようやく口が動いた。まだ声は奪われていないようだ。
「頼むぞ、ナデージュ」
「兄上は、最後まで都合のいいときだけものを頼むのですね、昔からそうでした」
刺々しい言葉のわりに、口調は優しかった。妹らしくもない。
この妹の涙腺に感情を露出するという機能がまだ残っていたとは意外だった。いや、侯爵は無性に彼女に謝罪したい気持ちになった。かなり年の離れた妹というものは、兄取ってみれば何歳になろうとも頑是ない子供のままであって、あのただやさしい少女だったナデージュに政治を教えて、ここまで業突く張りな顔に整形させてしまったのは自分なのだ。しかしもはや後悔しても遅い。
「殿下にはお会いになられますか?」
「家臣の病状を尋ねに行く王など聞いたこともない」
「あ、兄上のことですか?」
ジャクリーヌは、侯爵が何を言っているのか、一瞬で洞察してしまった。「私の死で、あなたは天分を取り戻したようですね。もはや、ああなたはあなたの命ずるままに・・」
ジャクリーヌは、侯爵がこと切れてしまったと感じて、一瞬だけだが感情の溶鉱炉を爆発させかけた。それを見て、貴婦人は感情の高ぶりをわざと抑えずに叱った。
「殿下、兄上が哀しみますぞ、あなたさまのそのような姿をご覧になったら」
王太子である兄の後見人と聞いてはいたが・・・、じっさいに言葉を交わしたこともあるのだが、しょせんはそれくらいの交流にすぎなかった。これからは彼女が自分の師となってくれるのだろうか?もはや、侯爵の旅立ちは時間の問題のようだ。事ここに至って、彼が危惧していた気持ちを共有でできるようになったような気がする。
「とにかく医師たちを呼んで、兄の看病は彼らに任せましょう。こちらにおいでください、ジャクリーヌ殿下、お話があります」
貴婦人には、母性に近い力強さが感じられた。まだ大人の女性というには若すぎる少女にとってみればそれは幼いころが得難いが心から欲していたものだった。
ジャクリーヌの、さきほどまで泳いでいた視線は貴婦人に縋りついていた。そして、いつの間にか立ち上がったのか、彼女は寝室から出る際、医師や魔法使いとすれ違ったが、あるいはその際に彼らは王族に対する礼を施したが、そのことにすら気づかなかったくらいに意識が一点に集中していた。
ジャクリーヌが招じ入れられたのは、庭園が一望できる、それほど広くない部屋だった。おもえば、彼女ははじめて侯爵の屋敷に招待されたのだ。早朝に竜が飛んできたので、何事かと驚いた少女だったが、その眼をみるなり意図を受け取って飛び乗った。こんな時間によこすとは・・・・・人目を憚らないことからも、緊急事態であることは容易に察すことができた。村のはずれに出ると護衛の竜騎士たちが並走しはじめた。彼らの目からも緊張感が伝わってきた。
「兄と出会って10年になりますか・・・」
貴婦人の声が背後から聴こえてくる。何処か別の世界の出来事のように思える。
「本当にあの方はなくなられるのですか?」
「まもなく他の五賢侯の方々も来られます。ナント王国は政治上の危機を迎えるのです。兄がいなくなった今、ナントの貴族は、マイケル王の策略などなくても分裂してしまうでしょう。そうなれば、あなたの兄上の即位は雲散霧消するでしょう」
「あの方は私にとって父上でした」
窓から見えるトネリコの茂みから小動物が動くのを目で追いながら、ジャクリーヌは言った。「殿下!」いきなり回転させられると、頬に強い痛みを感じた。貴婦人に打たれたと思ったが、彼女の腕も手も微動だにしていない。彼女は侯爵の妹であることを思い出した。
「私は兄ほど甘くありませんよ。あなたの境遇について同情している暇はありません。兄の遺言通りに動いていただきます」
いくらエベール伯爵夫人の母性に惹かれていようとも、あからさまな命令口調には抵抗感を抱かざるを得なかった。
「わ、私にどうしろとおっしゃるのですか?」
打たれた頬がまだ痛む。
「殿下、殿下はどれほどナント王国が、その存続すら危ぶまれているのか、理解なされていません・・・」
貴婦人は、王太子アントワーヌがいかに即位に当たって困難に直面しているのか、詳細に述べ始めた。それを聞きながらジャクリーヌは違和感を禁じえなかった。王太子に対して彼女が・・・・・抱いている感情は、肉親に対するそれに酷似するものがあった。ナント王国じたいに対する忠誠心によりも、王太子個人への固執が強いのではないか、ジャクリーヌに対してそう思わせるだけの何かをこの夫人は体内に隠しているように思えた。しかし言葉を挟めるだけの・・・・・・・情勢に対する知識も、あるいは、この貴婦人ほどナント王国に対する愛着を持つことができなかった。彼女の言葉を要約すると、アントワーヌという王太子は、王の資質がないと貴族たちからみなされている。これを是正するために神の助けを借りたい。それは少女にも納得できることだ。
しかし、王太子の信用の失墜の原因が、ふたりの殿下の実母にあると貴婦人の言動が達したとき、ジャクリーヌは黙っていられなかった。ちょうど、彼女の中で生母像が想像の中で膨れ上がっていたころだ。それを否定するようなことを言われたのだから、ある意味当然のことだろう。
「この危機は、あなたの母親であるロペスピエール侯爵夫人が作ったも同然なのです」「しかし、王太子さまの母上でもいらっしゃるはず・・・」
もしかして、じつは自分こそが実母だと言い出すつもりだろうか?冷たく整った口元に意識を集中したが、いくら待てども動こうとしない。
もはやそんなことはどうでもよくなっていた。「あなたはよほど、私の母と折り合いが悪かったようですね」
「私だけじゃないですわ、あのドレスデン女は!ナントに送られた災厄だといっても・・・・?!」
怒りが少女の中で爆発した。まだ制御しきれていない青い血が日の目を見たのだ。
その威力を、身を以て知ろうとしていた、いや、すでに気づいていたつもりだった貴婦人は、それを目の当りにして予想をはるかに超えていると認めずにはいられない。彼女が発したエネルギーの束、昏睡状態に陥っていた貴族を現世に引き戻した。彼は寝室から起きようともがいた。
城の一角が壊れるだけで済んだのは、エネルギーの放出後、制御不能に陥った場合、自分に返ってくることをこの若い貴族が知らなかったことが原因だった。いち早く気づいた貴婦人は自らが縦となって防いだ。ジャクリーヌはいったい、自分の身に何が起こったのかわからず・・・半裸になった貴婦人を見上げるだけだった。白い絹色に光っていた高価な衣服は黒々と焦げている。それがとても自分の仕出かした結果だとは、理性が認めたがらない。だが無意識はそれとは反対の立場を貫いたために、ジャクリーヌは罪悪感に苦しめられることになった。
煙を、大気の神、エリュシオンがすべて吸い取ってくれた瞬間に、ジャクリーヌは自分が仕出かしたことを詳しく知らされることになる。「殿下、わが侯爵家のご先祖さまがナント王から拝領した大切な城だったんですけど・・・・・あなたはエネルギーの制御も学んでおられないのですか?」
「あ、兄上・・・」
「侯爵どの!」
二人は目を見張った。昏睡していた侯爵が医者に介護されながらも自分の足で歩いてここまで来たのである。「この建物は崩れる可能性があります」貴婦人が近づくとそれを制して、「私は黄金の翼の天使をこの目で視た」それは死と同義句である。しかし顔色は良くなっている。
「攻撃属性としても、ここまで強い青い血を体内に巡らせているとは夢にも思いませんでした」
「・・・」
貴婦人は、兄の好きなようにさせるべきだと判断した。いつ、黄金の翼の天使が気を変えて戻ってこないとも知れない。おそらく兄にはすべきことがまだ残っているのだ。その証拠だろう。
落ち着いたジャクリーヌは、同じく病状が和らいだ侯爵の口から事実とこれからすべきことを伝えられた。まずは王都ナルボンヌに罷り出ることがすべきことの第一条に掲げられるとした。
「ナントどころか、エウロペ全体の中心地たるかの地をみればきっと考えが変わるでしょう」
侯爵の言っていることは、そのあっけらかんとした表情や飄々と語る姿からは想像もできない、それこそ神をも裏切るような恐ろしい話のような気がした。しかし、侯爵はすでに黄金の翼の天使を目撃した人だ。そんな人が悪魔と契約したようなことをいうはずがなかった。
「しかし、そんなことが本当に許されるのですか?そもそも殿下、兄上さまにはこの話を通しているのですか?」
侯爵はこれから妹が説明しにいくと言った。彼女のことは母親のように思っているらしい。事ここに至って鎌首を擡げた疑問があった。
「リヴァプール王は悪魔なのですか?」
神の名前を持ち出して、相手を打つならば当然として相手の王、マイケル5世は悪魔でなければ話が通らない。
「おそらく、私の教養と学識の範囲内で言わせてもらえば、彼の国が始まっていらいの名君でしょうね」
妹が疑問に思ったことをそのままぶつけてみた。
「やはりわからないのです」
「くにっていったいなんですか?」
貴婦人が嘴を出しそうになったので、それを制して侯爵はジャクリーヌの整った口元を見守った。その小さな口が開かれるのを待った。
「私に聖女の資格があるとはとうてい思えません。しかしそれで兄上さまや母上が救われるならば・・・」
エベール伯爵夫人は眉間に皺を寄せた。