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聖女1  作者: 明宏訊
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竜騎士試合最終戦3

 

 いきなり娘の口から彼女のものとは思えない言葉が迸り出た。

 感情が動かない。まるで血流が途絶えた組織のようだ。

 喉が熱い。まともに言葉を紡げそうにない。

 エレオノーラは、永遠とも思われる時間を経験してようやく口を開くことができた。

「そ、そなた・・・な・・・」

「娘の口からこんな言葉が出ては困るか?安心するがいい。いま、ジャクリーヌは完全な眠りの中にいる。私の声は聞こえない。あの無邪気な観客たち同様に」

 彼女が言及する人群たちは、一向に戦わずに会話を始めた二人に、さすがに不平不満をぶつけはじめた。さきほどの、それこそ空間すら凍りつかせてしまいそうな空気はまったく醸し出されていないからだ。

 だが、そんな生ぬるい反応はエレオノーラにはどうでもいいことだった。ようやく水分を得た喉に十分に仕事をさせることに決めた。あきらかに娘の中には彼女以外の自我が呼吸しているのだ。

「ご芳名をお聞かせ願いたい」

「聖母ウェヌス」

「ほう、私が嘘を言っている風には思わないようねえ?」

 こんな気持ちは久しぶり、それどころか生まれてはじめてだった。どれほど背伸びをしても、娘の身体に入り込んでいる「聖母ウェヌス」の足元にも及ばない存在だと思い知らされている。聖母ウェヌスという、エウロペに君臨する神々の中でも筆頭に挙げられる、いわば、みなの母親のような存在の呼称を出されたとしても、あながち、嘘だとも言い切れない神性を、エレオノーラは感じたのである。その感覚は、自尊心が高い彼女が、支配される悦びを心のどこかで感じていた、もっとも、娘であるジャクリーヌの身体を奪われている、この屈辱的な状況を忘れたわけではない。

「あ、あなたは・・・美しい、ただ、それだけで、この私を平伏させる権利を、もちあわせている」

 彼女が聖書に謳うところの、聖母ウェヌスならば生前に使っていたはずの、古代語で返してみた。ケントゥリア語ならばエウロペにおいて教養人のパスポートのようなものだが、この古代語はよほどの碩学でなければ太刀打ちできない、一生を学問に捧げた老人でなければ用い得ぬ言語だった。

「我が子よ、背伸びする必要はない。私ならば、目の前にいる誰であろうともすべてを洞察できる。だから私はこうしてここにいる。そして、ただ一つのことを告げるために出現した。よいか、我が子よ・・・・、そなたの、母として子を思う気持ちは痛いほどわかる。しかしながら、子供は親の思う通りにならないものだ。それはこの言葉に堪能なそなたならば自明であろう。ウェヌスが母としてどれほどの悲しみを味わったのか・・・言いたいことはそれだけだ。また会うこともあろう、エレオノーラ」

 その刹那、太陽が消えたような気がした。そして、あらゆる感情の機能が失われてしまった。あるいは、それらをすべて超越したと表現すべきか、判断に困った。

全身の血管がちりちりする。

「消えた・・・」

 だた、それだけがエレオノーラの口から迸った。

 そのとき、互いに対峙する二人が迷妄の中にいたことだけは事実である。どちらがよりはやくその状況から抜け出すか、それが序盤戦だけは観客の手に汗を握らせた、決勝戦の勝敗を分ける結果となった。そしてあっけない幕切れは突如として起きた。

  ジャクリーヌは目の前に屯する厚い霧の向こうに人の胸らしきものが蠢くのを発見した。尽かさずそちらに長槍を繰り出した。

もしも攻撃されたのがエレオノーラでなければ、たとえ、イザボーであっても救命が叶わないほどの致命傷を与えていたであろう。彼女は自らの身体を長槍が貫くと思った刹那、それを右腕と胸の間で挟み込んだ。

しかしそれを少女は自らが致命傷を与えてしまったと、誤解した。こともあろうに、長槍をそのままに対戦相手に任せたまま両手を広げてしまった。

 事実、エレオノーラの鎧をけ破った長槍はしたたかに彼女の身体を傷つけた。その結果、青い血が滲み始めていた。母親としては黙っていられるような状況ではない。情に負けたことを言っているわけではない。自分の攻撃が相手にどれほどのダメージを与えたのか、それをわからずして、竜騎士として戦場に立つ資格はない。

思いっきり頬を殴ってやりたい衝動に駆られた。

  しかしここは娘の晴れ舞台なのだ。彼女の繰り出した攻撃によってエレオノーラは長槍を落としてしまった。だが、ジャクリーヌの長槍は対戦相手の胸に突き刺さっている、すくなくともこの場にいるほとんどの人間が、対戦相手を含めて、いやほぼ全員がそうみなした。

 だが遠方にいるはずの、リヴァプール王と神聖ミラノ帝国の皇太子だけは、事実を見通していた。彼らはしかし少女を責める気にはならなかった。母としてどういう態度に出るのか、ひたすら親友を見守ろうとしていた。

「治療属性!!治療属性を!!!はやく、プ、プランタジネットどのを!!!?」

 ジャクリーヌは顔を覆わんばかりに両手をまげて泣き叫んでいた。混乱した彼女は自分が与えたと想定される傷に比較して出血が少ない理由を忖度することなど不可能だった。エレオノーラはわが娘が事態を正しく認識するまでひたすら待ち続けていたのである。

「ぁ・・プ、プランタジネット殿・・・!?わ、私を謀ったのですね?」

 そう叫ぶと少女は長槍に手を伸ばそうとした。

 エレオノーラの脳裏に走ったのは、娘に対する強烈な感情だった。この手で思いっきり抱きしめて褒めてやりたかった、あるいは、娘の不手際を叱ってやりたかった、双方ともにジャクリーヌに対する愛情が元になっている。

 それらの感情をすべて自由な左手に込めて、少女の耳たぶを思いっきり摑むとひねった。

「ぐぎぃいいい!?」

 大勢の観衆の前に滑稽な姿を少女は晒すことになった。

 そして同時にジャクリーヌの手首を摑むと彼女の長槍に、観衆から見えないように細心の注意を払って持たせた。

硬軟併せた対戦相手の態度に少女は、どう反応していいのか、聖母ウェヌスに伺ってみたくなった。あるいは聖書の一節に彼女の疑問に答えてくれる箇所があっただろうか?

頬がとても熱くなった。

「プ、プランタジネット殿?」

「よいか、初陣までまだまだ学ぶことがあると知れ、私が言い置くのはそれだけだと心得なさい・・・」

 涙が頬に溢れてくる。顎まで達するのも時間も問題だろう。

 ぜひとも仮面の下を視たくてたまらない。いったい、どんな顔をしてあのような言葉をかけてくださるのだろう。もしかしたら自分の母親になってくれる人かもしれない。彼女自身、そう意図しなくても、ジャクリーヌが自分の中に育てた理想の母、そっくりかもしれない。

  喉の奥がきりきりと痛む。彼女は擦ってくれる母親の優しい手を所望していたのだが、それはあくまでも無意識の領域であって、意識まで立ち上ることは理性と自尊心が邪魔している。しかし彼女は対戦相手の名前を叫ばすにはいられなかった。

「プ、プラン・・・・殿!?」

 気が付くと対戦相手は竜と共に地上に降り立っていた。

 自分をみると長槍を握っている。

 とても手が温かい。まだプランタジネット殿の手が触れているようだ。しっとりとしていて、微かに花の香りがする、とても気持ちがいい感触だった。

「・・・・・・・・・・」

 試合が終わったのだ。だが、自分が勝ったなどとゆめゆめ思えなかった。観衆の反応に、それは一目瞭然に表れている。彼らにしてみれば何だかわからないうちに試合が決せられてしまったのだ。よほど高いレベルの貴族でなければ二人の間に交わされた気のやり取りはとても読み取れず、黒山の人だかりをいくつも動員したような、このアリーナー状の試合会場において少数派にすぎなかった。否、ジャクリーヌの身体に発生した白い光を含めれば、たった二人にすぎなかった。

 当の少女は、そのことに全く気付かなかったのである。ただ、異様な感じがしただけだった、覚えていることは。内部から血管を弄られるような、何とも形容しがたい、おぞましい感覚だった。

  何がどうなって、自分が勝利したのか完全に濃霧の向こう側の世界にすぎない。試合後に恒例の儀式を体験しても全く華やかな気持ちになれない。まるで公開の場で処刑される罪人のような気分としか言いようがない。観客たちも勝利の宣告をされても、それは何処の世界で起きていることですか?という感じで、じっと押し黙ったままだ。

 リヴァプール王の代理人と称する男がジャクリーヌに賞金の授与と、副賞として王に謁見できる権利を付与すると宣言した。

どうやら、少女は王に出会うためにシャンディルナゴルにまで出向いて、竜騎士試合に出場したらしい。そんなことはとうに忘れ去っていた。この、ひたすらに虚しさだけが闊歩する閲兵場にあって勝利はおろか、それを得る目的すら失念してしまっていた。思わず目に光ったのはそんな自分に対する不甲斐なさ故の涙である。

  それを仮面越しにみつけた母親は、思わず両手を娘の細い首に回したくなった。

  だが、それを寸でのところで押しとめて、じっと見守った。

それは絶対にやってはいけない行為なのだ。これ以上、娘に事実を探られるような行為は慎まなければならない。娘にとって、プランタジネット殿はいったいどういう存在なのだろう。それを考えれば、自分がすべき最善の行為はおのずと知れた。

「アンヌマリー殿、そなたはよく戦った。何も恥じることはない」

 少女は歯噛みしたい思いになった。

  本当にそれだけなんですか?さきほどの勝負が、ただそれだけで片づけられるものなんですか?

  思わず、母に近いと思われたプランタジネット殿が遠くに行ってしまったような気がした。しょせんは他人の子、気まぐれな親切心から来た行為にすぎなかったのだ。真冬の山にひとりで放っておかれたような気がした。

とても寒い。

今更、リヴァプール王に謁見して何をすればいいのだろう?この無様な戦いをきっと何処かで見ていたにちがいない。幻滅を露わにされるくらいならば、いっそのこと、すごすごと退散した方がよさそうだ。しかし、何処に行けばいいのだろうか?少女は自分に行き場所がないことにすでに気づいていた。

長ったらしい儀式があったようだが、ほとんど覚えていない。

どうしたらいいのかわからないので、単純に支持に従っていただけだ。

  この時、戦っている相互の盟主に名義上奉られている、ナント王国皇太子とリヴァプール王、双方にとって少女は、自分がどれほど価値のある存在なのかまったくわかっていなかった。


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