ヴェルサイユ村のジャクリーヌ~竜、飛翔するために生まれた被造物。
ジャクリーヌには妹がいた。姉や兄はいるが年が離れすぎていたので、それほど親しかった記憶はなく、専ら、すぐ下の妹であるマリーと仲が良かった。しかし彼女は姉が予想だにしない苦悩を抱えていた。
それは、マリーが絵草子の中でしか知らない、恐ろしげな竜だった。
長い鎌首を擁する頭から、尻尾までは、そう、馬にして6、7頭ぶんはあろうか。それよりも巨大な翼が、その生き物が空を飛翔すべく生まれた被造物であることを示している。少女も知っている爬虫類とどこか似ている部分が、ところどころ見受けられるが、鱗は宝石のように一つ一つが輝き、その 青い瞳はまるでエメラルドのようで、人間ならば誰でも備えているような意思の存在を訴えている。
「レオ、よく来たね」
しかし、ジャクリーヌが近づくと、まるで長いこと出会わなかった犬が主人と邂逅したかのように、尻尾こそ振るわないものの、彼女の身体に巻きついて愛撫しはじめたからだ。
「マリー、一般人が近づくと食い殺されるという俗説は、竜は力の加減というものを知らないからだ。貴族でなければこれに耐えられないそうだ」
馬の首にして優に3本分はありそうな鎌首を、自分の身体からやすやすと離すと、竜の背に飛び乗った。そして、瞬く間に闇夜に消え去った。
残されたマリーは目を白黒させながら虚空を見つめている。
姉の説明で疑問がすべて氷解したわけではない。竜騎士が御してない竜に賤民が近づくと、あっという間に炎によって灼かれるという伝説を知っている。
どうして竜はジャクリーヌに襲いかからなかったのだろうか?ジャクリーヌがマリーの実の姉ではなく、偉そうな名まえの貴族の子だから?
少女自身が気づかない嫉妬と羨望、そして、何よりも大きかったのは姉への思慕の念である。それらによって感受性の強い少女の心は細切れになってしまった。
彼女は姉を愛しているのだと、彼女にとって可愛いい妹でありたかった。それゆえに、けっして、姉の不幸を願ったわけではないと思いたかった。
だが、一方で、確かにそう言い切れないのが、マリーの苦悩である。幼心に傷ついた嫉妬心はすでに芽吹いて久しい。想像の中で美しい姉が竜の炎の中で妬かれて悶える姿がリアルに出現した。
それは想像というにはあまりにも存在感がありすぎた。それに、想像のなかで燃えている人物は、ジャクリーヌはジャクリーヌでもあきらかに年齢が違うように思えた。成人になっていることは明らかだった。彼女は黒衣を着せられて火刑台に縛り付けられていた。あれはあきらかに処刑だった。
母親が少女のころに魔女の火あぶりを家族で見物に行ったと言っていたことを思い出した。出店で菓子を祖父に買ってもらったとニコヤカに回想していたものだが、マリーはそれが怖くてたまらなかった。しかし彼女以上に、あの気丈なジャクリーヌが怯えてひきつけを起こしてしまったのである。
思えば、異常に炎を怖がる面が姉にはあった。そんなことを考えながらマリーが帰宅すると、母親がそれこそ魔女のような顔で彼女を待ち受けていた。 さんざん絞られたが、感じていたのは嫉妬による苦しみではなくて、想像にしてはありありとしすぎていた映像のことだった。とても嘘には思えない。
お月様は天頂近くまで登って、みなが寝静まった時間に、ジャクリーヌは帰宅した。
「レオがさみしがっていたわよ」
マリーが幼くてひとりで眠れなかったときのように、寝具に潜り込んできて言った。
「マリーが近づいたら、食われちゃうもん」
「あれは嘘だって言ったはずよ」
「普通の人なら耐えれないって言ったじゃない。マリーは、ジャクリーヌと違って人間だもん」
「それって、姉さんが人間じゃないって意味?」
姉を怒らせたことに気付いた妹は、寝具を頭からかぶって怒気から逃げようとした。
「わかったわ。そこまで言うなら秘密を教えてあげる」
マリーくらいの子供にとって秘密という言葉は魔法の意味を備え持つ。自分だけに大事なことを明かしてくれる。その内容は問わず、打ち明けた人間を無条件に信用するものだ。
月明かりが彼女の輪郭を教会にある母性像のように見せていた。ただでさえ白い肌がいつもよりもさらに色を失っている。というか、微かな光を放っているように思えた。
ジャクリーヌを人間ではないと失言してしまったことが思い出されるが、それがあながち嘘ではないと気づいたのは、次の瞬間、姉は本当に光を放っていたからだである。服で覆われた部分だけが暗く浮いているのでそれがよくわかった。ここまで来たらもはや錯覚ということで・・・もはや自分を誤魔化せなくなっていた。
「真夜中に、私の秘密を教えるから、連れて行ってあげるわ、マリー、早く着替えて」ジャクリーヌの右手が出される。輝いていた。彼女の語彙力では、具体的にたとえるものが頭に浮かばなかった。もはや、彼女を姉とも人間とも思えなくなっていた。
「だ、だいて・・・大天使ルシ、ルシフェルさま、お助けください・・」
マリーは両手を合わせてお祈りの態勢を取っていた。完全に姉から目をそらしている。その様子をジャクリーヌは悲しげに見下ろしている。
「では、もう姉さんについて詮索はしないわね」
念を押すように言った。
「ジャクリーヌなんて大嫌い!!」
そう呟くように叫ぶと、可愛い妹は頭から寝具を被って泣き出した。彼女の名前を呼ぶと、今度は枕を頭に乗せて、さらにその上に寝具を被るという珍妙な姿を晒して姉を拒絶した。これ以上触ると、家の者がやってくる可能性があるので、とりあえず手を引くことにした。
翌日、朝食の席で姉妹はまったく会話なしで過ごした。毎朝のように行われるお祈りを済ませるなり、せっつくようにマリーは出されたものを平らげると、姉の方をちらりともせずに外に遊びに行ってしまった。
母親も無言だった。
誰からも、この件に関して援助を得られないことを覚ったジャクリーヌは、自らの手で解決するしかないと決心した。
食事を平らげると外に出ようとした。小間使いの少女が暖炉の掃除をしている。何か熱い視線のようなものを感じて、思わず踵を返した。
「ジャクリーヌ、行きなさい。きっと、あなたの考えていることが正しいと思うわ」
その言葉に力を得た少女は妹を追って牧場へと向かった。
彼女が行きそうな所はわかる。姉の意図を覚って、いつもと違う行動をするような子ではない。何故か、血も繋がっていないのにマリーのことならばなんでもわかるような気がした。
はたして、彼女は麗らかな陽光に照らしだされて、真っ白に光っていた。その視線の先には羊が草をせっせと食んでいる。
おもむろに彼女の視界に飛び込む方法を選んだのは、逃さないためだ。
マリーは突然、襲ってきた影に驚いた。いままで雲一つない空が陰ったからだ。堕天使ミカエルが凶悪な翼を広げたのかと錯覚した。
聴きなれた声が木霊する。
「姉さんが怖い?」
影だと錯覚したものは、黄金の彫像に成り代わっていた。表だっていうことはありえないが、この世で彼女がもっとも敬愛する姉がそこにいた。
姉は、妹がしかめっ面で自分を睨んでいることが気に入らないようだ。
「そんな目で見なくてもいいでしょ?あなたの生まれ、というか順位が悪かったのね。確かにかわいそうだわ」
いったい、ジャクリーヌは何を言っているのか、全く理解できない。頑是ない妹が何を考えているかなどと、まったく考えずに先に進んでしまう。昔からそうだった。
「姉さんは人間じゃないって、マリーは言ったわよね」
はじめて、姉の意図を察した。このようにいつもわかりやすく説明してくれればいいのだ。とりあえず謝っておこうと考えた。
「ご、ごめん・・・」
「そうじゃないわ、ある意味ではそれは正しいのよ、みて」とジャクリーヌは右手を差し出した。その手は光っている。
「あれをみて」
「あ、狼!パパを呼ばないと・・」
「その必要はないわ」
そう言って指を獣に向けた・・・と思ったら、正確には狼の、四足にそんなものがあればの話だが、足元に光の線が飛んだ。それが消えるか消えないか、そう思った瞬間に地面が燃え出したのである。巨大な狼はまるで子犬のようにきゅんと鳴くと森の方向に走って逃げだした。
「いつからこんなことができるようになったの?」
「私はこの家の子じゃないの。侯爵が言うには王家の眷属らしいわ」本来ならばジャクリーヌはとんでもないことを言っているのだが、別段、驚くにあたらなかった。二つの要素、それぞれが、今までマリーが見せつけられた物的な証拠から、もはや疑う余地がなかったからである。
「そんな偉い人がどうして家にいるの?いるんですか?」
「無理して敬語を使う必要はないわ」
微笑を浮かべながらジャクリーヌは続ける。
「まだどうして本当のお母様が私を放逐したのか、その理由は知らされていないの」
「いったい、どこにでかけて、何をしているの?」
ジャクリーヌは、やおら腕を捲った。マリーが見たものは痛々しい傷跡だった。「戦闘訓練、剣の扱い方を侯爵から習ってるの、後は戦のやり方、実地訓練。今度、本当の戦に出してもらえるの、初陣よ」いったい、姉が何を言っているのか、本当に魔界か天界での出来事のように思えた。
「あの竜に乗って戦うの?」
いったい誰と何のためにそうするのか、マリーは想像もできなかったが、とにかくそのような単語を文法通りに並べることで、自分の精神の安定を図った。
ジャクリーヌは俗説だと笑ったが、戦争で活躍する竜はとかく怖い生き物だと、幼いころから吹き込まれている。
彼女が知っている典型的な話では、竜騎士が目を話した隙に泥棒が竜に近づいた途端に食われてしまったり、嫌いな恋敵を殺すために竜の前に突き出したりする内容が、子供向けの説話に描かれている。聖職者は、子供に言葉を教えるうえでこのような話を利用するのだ。因みに、恋敵を殺そうとする行為は未遂に終わる。なんとなれば、竜は自分の目の前に飛び込んできた少女をスルーして、殺人未遂者を一飲みにしてしまうからだ。因みに、竜騎士とその少女は結ばれる、というハッピーエンドが用意されている。
マリーが竜に対する興味を失いそうになったので、ジャクリーヌは話題を変えることにした。
「ところで私たちは誰と戦ってると思う?」
「私たちってヴェルサイユ村が?」
「ナントの王さまよ、いまリヴァプール王国と戦っているわ。私は王さまの娘だからそちら側に立って戦うの・・マリーには難しすぎたかしら?姉さんにもよくわからないの。ただ侯爵は私に国を助けてほしいと言うだけ」
「くに?くにってなに?ヴェルサイユのこと?」
「どうやらヴェルサイユはナントの王さまに属するらしいわ」
全く知らない概念のオンパレードにマリーは混乱の極みにあった。ジャクリーヌと自分が血のつながりがないことは、無意識的にはわかっていたような気がする。しかし、それ以上になると・・・本当にちんぷんかんぷんと言うより他にない。ヴェルサイユは交通の要衝からかけ離れているばかりか、宗教的および魔法的な意味においてもなんら意味を持つ土地ではない。それゆえに中央で行われている戦乱とは無縁な平和を貪っていたともいえる。それは少女たちにある種の無感覚を植え付けた。
「だけど、こんな僻地にそれなりの戦力を伏せておくということは、リヴァプール軍のいらぬ興味を引くと思うけど・・」
「姉さん、それってどういうこと?」
「え?私、何か、言ったかしら」
驚くべきことにさきほど自分が言ったことを覚えていないようだった。完全に別人の顔だった。
ジャクリーヌは、妹に、いったい自分が何事をしゃべったのか、その内容を問い質した。意識が曖昧になってはいたが、何か重要なことを言ったような感覚は舌の付け根あたりに残ってはいたのだ。妹は、姉が言ったままを返したが、その意味はほとんどわからなかった。
姉さんはそんなことを言っていたの?侯爵が言っていたけど、たまにこういうことがあるらしいの。私は眠たくなるだけで、回りの人が後から教えてくれるんだけど、とうてい私ごときの学識や経験では言えないことを言っているらしいわ」
「どういう意味なの?」
マリーの好奇心が疼いた。
その発言は、侯爵がいるところで、以前、口走ったことがあるらしい。ヴェルサイユというのは戦争をやる際には全く重要な地点じゃないらしいの。しかし、そこに軍隊が必要以上に存在するならば、何かがあるとは敵さんも思うわ、姉さんでも思うと思う」マリーは釈然としなかった。
「マリーには難しすぎたわね」
そう言われると負けず嫌いの性分がふつふつと顔を出すのだが、姉の言うことが正しいので口を開くわけにはいかない。ここで何を言ってもボロが出るのはわかりきっているゆえである。
姉は続ける。
「ナント、リヴァプールそういわれてもピンとこないのよ」
「国王さまや侯爵が、いったい何をそれほど命がけで守ろうとしているものがなんなのか?その正体がよくわからない。戦争のやり方自体はわかるのよ、これでも将軍と呼ばれる人たちに連戦連勝なんだから」
王様にとっての大事なものが、私たちにとってのヴェルサイユ村よりもずっと広いのかな」
マリーの言っていることは、当を得ているようで、そうではないような気もした。そもそも自分がどうしてヴェルサイユ村に隠匿されたのか、実母から引き離されたのか、いくらそういう重要な質問を侯爵にしても、「いつかわかります、殿下」の一言で強制終了させられてしまう。
「あ、狼だよ、お姉さん!」
マリーの怯えた声で、ジャクリーヌは現実に引き戻された。しかし自分に敵意を持っていないことは、その青い目をみればわかった。さきほどの攻撃で、どうやら自分をボスだと認めてしまったようだ。
「今日から、この犬を飼うよ、名前はジャン、いいね」
豆鉄砲を食らったような顔のマリーを後目にして、ジャクリーヌは自宅に進路を取ろうする。
「私はねえ、ヴェルサイユ村が好きなのさ」
いくら人為的に作った村だとしてもね、という言葉を呑み込んで、「だから ナントの王さまと利益を共有できるならば、そちらに協力したいの」
そう言いながら笑う姉の姿は、すでに妹にとって手の届かない所にあって、いま、彼女がみている姉の像は単なる虚像にすぎないように思われた。