位置情報:シャンディルナゴル、竜騎士試合参加選手控室。
ジャクリーヌは、この世間知らずの若様によってかなりのところ救われていたといってよい。自分こそがその代表格に収まるべき存在ではないかと、内心ではひやひやしていたのだ。ところが、この少年は彼女よりもはるかに上を行きそうだ。もっとも年齢的にかなり少女よりも年下のように思える。高く見積もって、15歳は超えていないのではないか。それも年齢よりも幼く見積もって、ということだ。13、14歳ということもありうる。
その年齢で初陣を迎えた名門貴族の子弟やことによると王族すら、文献の中では目にすすることができるし、カルッカソンム侯爵の知己で満12歳にも足りないにも関わらず戦場に凛々しい鎧姿を見せたという強者すら存在すると聞いたことがある。
せっかく大地の神に精神を安定させてもらおうと思ったのに、試合を目の前にして混乱するばかりだった。少年の声もよく聞こえない。ユーラモスな外見も彼女の口角を上げることができなくなっていた。かつてウオルシンカム家の肖像画をみたことがあるが、服装の特徴からして、アルチュールよりもかなり年代が過去であることが、氏名の表記がナント語と併記されていたことからもわかる。時のリヴァプール王は、ナント出身の貴族たちに、ナヴァロンにおける広大な土地を与える代わりにナント名を捨てることを強要したらしいが、従わなかったり、両名表記で誤魔化したりする貴族もいたとのことだ。
いずれにしても身体的特徴は一族を示していた。
そんなことを考えているうちに、自分が属する血族について思いが向かう。父方はシャトーブリアン王家であり、母方は・・・少女の思考を破ったのは巨大な気だった。入口の方から足音がする。新しい参加者らしい。
「お、女の方ですか?」
またしても少女を救ったのは、アルチュール少年の世間知らずな一言だった。たしかに鎧の形状から、その人物が女性であることは一目瞭然である。
カルッカソンム侯爵によって貴族の嗜みは厳しく躾けられた少女にとって、少年の行動は不可思議としか言いようがなかった。
だがそれよりも彼女の首をひねらせたのは、彼女は試合前、それもまだかなりの余裕があるというのに兜で頭部を隠していることだった。それはかなり身分が高く、かつ、エウロペ全体に名が知れた有名人ということだろうか、匿名が目的で正体を隠しているのかもしれないと直感的に思った。
またしても少年のすっとんきょうな声がジャクリーヌの思考を中断させた。
「し、失礼ですけど、兜を取っていただけ・・・」
だが、アンスバッハの野太い声と腕によって強制的に中止させられた。
彼の猪首が細くみえるくらいに巻きついた腕は太い。もう片方の手で少年の言葉を止めている。
「こいつの無礼はお許し願いますか?な・・・あ、あなたは・・・」
アンスバッハは近づいてくる女性竜騎士に何か記憶に残るものを感じるようだ。ところが、彼女がドレスデン人の耳元で何事か囁くととたんに黙りこくった。そして、次に口を開くときには、少年の言葉が完全なマナーに合致していると思えるほどに、粗野で野蛮な
言葉の連続だった。
「出場者に、この女が手ひどく振った男がいるんだとよ・・それで・・ぐ・・・?!」
アンスバッハの言葉は、女性竜騎士の肘鉄が鳩尾に食い込んだことで中断させられた。彼の反応からして二人はかなりの親しい知己同志のように見受けられる。
「お嬢さん、いや、お嬢ちゃんかしら?とんだ猿芝居をお見せしたわね。どうやら集まっている出場者のなかで唯一まともに会話できるのは、そなた・・いやあなたぐらいのようだ」
いまだに鳩尾を抑えて苦しむアンスバッハを後目に、ジャクリーヌに近づいてくる。
「お、お初に、お目にかかります・・・・」
どうしたことだろう。この人を前にするとまともに口が動かない。アルチュールではないが、兜の下を覗きたくてたまらない。どれほど高貴で美しい容貌をしておられるのだろうか。もしかしたら、自分の手本になってくれそう人かもしれない。
「私の名前は、ロクサーヌ・ド・プランタジネット」
「まったく、適当な名まえを思いついたもの・・・・・ぐ」
ようやく立ち上がりかけたドレスデン人竜騎士に、再び一撃を加えようとしたところで、相手が押し黙ったので、意図を貫徹できずに不満そうだったがロクサーヌなる女性は腕を振り下ろした。
「アンスバッハだと?笑いたいのはこちらだ・・・さて、お嬢さん・・・」
「ジャ・・・アンヌマリーです」
思わず本名が口に出てしまいそうになった。
「ジャンヌどの?」
「いえアンヌマリーです」
べつにジャンヌでもよかったのだが、自分が思いついた名前には愛着というものがあったので憮然とした顔をしてみせた。
「ふふ、子供ねえ。竜騎士たるもの、そう簡単に真意を表に出さないものよ」
「顔を隠している人にそんなことを言う資格はないとおもいます・・・す、すいません」
「いえ、いいのよ、若いとはいいことね」
口調や身のこなしから、少女よりもはるかに年長だというこがわかる。明らかに技量では敵わないだろう。だが、どうしてもこの人と対戦したいという気持ちがふつふつとわきあがって抑えられなくなってきた。
一方、ロクサーヌ・ド・プランタジネットこと、ロペスピエール伯爵夫人は、仮面の下から愛するはずの娘を文字通りの意味で、目で愛していた。
何と立派に育ったものか、詳しく言葉を交わさなくても、この少女がどのように人に遇され、かつ、遇してきたのか手に取るようにわかる。薄い色の瞳は南の海のように澄んでいて、主人の内面を暗示している。
この手であの柔らかくも芯のしっかりとした頬に触れてしまいたくなる。一度すら撫でたことはない、いや、撫でさせてくれなかったのだ。触れた瞬間に手が吸い付くようになじむに決まっている。何と言っても、この腹を痛めて生んだ子なのだ。
そう思った瞬間に、最後にアントワーヌ王太子の顔を見たときのことを思い出した。
「もう就寝の時間ですよ、母にお別れのキスをなさい」
それは、王や貴族に限らずエウロペでは上から下まで眠るまえの、母親が子に対してする挨拶だった。まさか、真実になるとは夢にも思っていなかった。たしか、幼いころに聖職者から聞いた話によると、「一時」という言葉が隠されているそうだ。
その意味では、あのやりとりは偽となってしまったのだが、いや、これはお互いの意思しだいで、真にも塗り替えられる。
しかし、あの子は・・・侯爵夫人にとって、当時は王妃だったが、彼女と王太子の関係は誰に対しても秘密にしなければならないベールの向こうに隠されているのだ。それは本人にすら生涯、開示されないであろう。
アントワーヌのことを考えていたら、無意識のうちに娘の頬に触れようとして、手を動かしてしまった。慌てて髪に触れる。容貌は美しいものの髪質はよくない。きっとコンプレクスを抱いているにちがいない。まるで自分にそっくりではないか?このような些細な自分との共通点すら愛おしい。抱きしめてキスしてしまいたい。母はそなたのことを思わぬ日はなかったと言ってやりたい。だが、そういうわけにはいかない。
口から出てきたのは、憐れな母心を否定するために使われるような、下卑た言葉の数々だった。
「顔の手入れもろくにしていないとは、貴族の嗜みにもとりますよ。お嬢さん。いくら若いと言ってもね・・・・もっとも産毛しか生えてないような顔を、幾ら手入れするといってもねえ」
からからと笑いだした女性竜騎士に、ジャクリーヌはもちろんのこと屈辱を感じずにはいられない。言って返したいが、相手は鎧の中に隠れている。そうだ、鎧だ。そこに反論の鍵が隠れているにちがいない。
ただでさえ大きな瞳を見開くと、少女は口もそれに連動させた。
「よろしければ、大人の肌というものを見せていただけませんか?プランタジネット殿。まだ試合も始まっていないのに、そんな兜をかぶっていたら、さぞかしきれいな顔がだいないですよ」
ジャクリーヌはカトリーヌをまねてみたのである。このようなことは、本来、彼女の性分にないことである。だが、馴れないことはするものではない。プランタジネット殿は少女の言葉の端々のそのようなものの片鱗をみつけて、ほくそ笑んだ。
もちろん、それはストレートに彼女に伝わる。
少女は怒りで爆発しそうになった。だが、さきほど、彼女に言われた言葉が頭の中を回転する。竜騎士たるもの簡単に感情を表に表すべきではない。それはある意味教訓のように思える。彼女は母性というものを知らないから、それが母親の情であるなどと、想像だにできなかったのである。そのことを兜で顔を隠した貴婦人ですら理解できなかった。
だが傍らで腐っているはずの、アンスバッハは見通していた。
「ロクサーヌ!いい加減にしないか!」
驚いたことに、殊勝にも、プランタジネット殿は謝罪を求めて握手を求めてきた。年上の者からこのような行為をすることは常識ではありえない。ありえるとすれば、過失によるよほどの失態に対する謝罪、のみである。
握手とは年下から持ちかけるものだ。幼児のころから、貴族の家に生まれたものはそう親から教えられるのだ。
アンスバッハは、ここである趣向を思いついた。
少女に近づくとおもむろに彼女の左腕を摑んだ。彼女は、あまりにも失礼な態度に叫びそうになったが、彼の言葉がそれを打ち消した。
「そなたが、あまりにも礼を失するから、年上として見ていられなくなった」
彼の口から迸ったのは、ネイティブかと耳を疑うくらいに美しいナント語の発音だった。そして、その声は、彼がいかに上流の階級に属するのか、いや、それだけでなく、それよりも大事なことは彼の人柄だ。それが信用に値する何かを言葉の端々に孕んでいたのだ。
そして、彼によって行われていることが、少女が憧れていたことだからだ。
カルッカソンム侯爵に貴族としての心構えを学ぶために、匿名でとある舞踏会に参加したことがある。そのときに目撃したのは、幼い少女が母親に左腕を支えられて、年長者、そのときは、老貴族だったが、彼に握手を求めていた。それは親が子供に礼儀教育の一歩だった。当時、すでに10歳に達していたので、そういう教育を受ける年齢ではなかったし、いかに尊敬していたとはいえ、侯爵にされるのは違和感を否めなかったであろう。
いま、アンスバッハと言う出会ったばかりの貴族に、憧れていた行為を教えられようとしている。あたかも、彼は自分の境遇を知っているかのようだった。このときに不可思議な既視感を覚えた。
かくして、少女は、生まれてはじめて実母と握手をしたのである。
しかし、後者は真実を知っていたにもかかわらず、前者はまったく知らなかった。だが、熱いものが目を満たし、やがて頬を伝わった。
ウオルシンカム家の三男坊は、いったい、何事が起こったのか皆目見当がつかずおろおろするばかりだ。