ジャクリーヌ、約束の期日に遅刻する。その後。リヴァプール王マイケル5世の闇。
「もし、あなたさまのご芳名を伺っていませんが」
立ち去ろうとするジャクリーヌを、例の衛兵が呼びとめた。
これまた例のオスカルと呼ばれた衛兵が姿を消したのを確かめて、やはりこういうところがカトリーヌとの違いであろう、言葉を返す。
「毒気を抜かれたとはこのことを言うのね。私は・・・・アンヌマリーよ。たしか、門地をあからさまに聴くのは竜騎士試合では無風流だと聞きましたが」
「その通りです。あなたほどの貴族ならば誰も文句を言う人などありますまい」
「そう、それはよかったわ、三日後ね」
「午前9時までにこちらにお出でください。オーラーは私だけでなく、猊下も確認なさいましたから、ご芳名と一致すればお入りになれます。竜が同伴というのは当然のことですが・・・」
「それはわかっていますけど、あのヴェルヌイーイ猊下のことでですけど、それほどシャンディルナゴルでは有名なんですか?」
シャンディルナゴルに大司教座なんてあったのかと、少女は自問自答しながら質問した。
「あのお方は陛下がリヴァプールから連れてきたのです」
「マイ・・・陛下とご懇意なんですか?」
「ご懇意も何も、あの方の家庭教師でいらっしゃったんです。ご両親は若いころから戦場を駆けずり回っていましたから、何せほぼあの方のご一族が7王国を屈服せしめたのですから、忙しいはずです。とにかく、陛下にとっては父とも呼ばれるお方です」
「そうだったのですか」
王家に生まれるということは、それがどんな境遇にあっても孤独と無縁ではないのかもしれない、と少女は思った。彼女のとっては兄にあたる王太子にしても、そうだが、っむしろ、自分のような育ち方を経て孤独で涙したなどと言ったら、お二人に笑われそうにも思えた。
そのとき、マイケル王はシャンディルナゴルを占領した際に接収した屋敷のうち、執務室を簡素に名づけた建物の一室で政務を取っていた。都市の中央部に存在する市庁舎などを選ばなかったのは、民の自尊心をむやみに傷つけない目的がひとつ、それから、実用的なつくりよりは貴族的な様式美を愛する王らしい選択から、中心地から少しばかり離れた貴族の邸宅を、もちろん有償で一時的に借り受けたのである。
王が立ち上がったのは、先ほど使用人から渡された書類に由々しき問題を見つけたからである。
「エセックス伯爵夫人はご在宅か?」
「は、少しばかり臥せっておられます」
「そんなことは常套句だ、アーサー、余が3分後に向かうと伝達せよ」
「・・・・」
「・・わかった、アルチュール、さっさと行け」
「は、陛下」
ナント語が彼らの母国語である。敵と味方が同じ言語を使っている。しかし、この戦いは内乱ではない。いや、事実上、この戦を開始したロバート3世にとってみれば、ある意味内乱でなければならなかった。だが100年近くが経過して事情は180度ほど変わってしまった、いや、マイケル5世が無理やりに捻じ曲げたのだ、そういう自負があるからこそ、内心では野蛮で粗野な言語だと見下しているリヴァプール語の公用語化を密かに始めている。だがそれを始めた本人がその気になれないのだから、うまくいかないはずだ。
今もアーサーとリヴァプール語で呼ばれた近侍の少年が眉間に皺を寄せた。
いかに主君とて、汚く罵られることは我慢できないというような心持だ。国王本人とて、マイケルというよりは、ミッシェルと呼ばれた方がしっくりとくる。
「これではうまくいくはずがない・・・・か」
王の、言語に関する思考を中止させたのは、さきほどの、アーサーもといアルチュール少年の報告だった。
しかし、少年の不遜そうな顔を見るなりに機先を制して、「もうよい、そなたの言いたいことは了解している。何もいうな」
だが、王は上着を羽織ると少年の予想を違えて執務室を後にしようとした。
「へ、陛下・・・」
「アルチュール、ついて参れ」
少年の言葉を無視して突き進んでいく。
廻廊から見える中庭では、すでに夜のとばりは降りたというのに、暗い蝋燭の灯のしたで、竜騎士たちが互いに剣を交えていた。少年はそれをみるなり不安に青ざめた。主君のセリフが予知能力などないのにわかってしまったからだ。
「アルチュール、しばらく剣の稽古をつけてやっていなかったな。竜騎士試合を開催することだし、要件がすんだら相手をしてやろう」
「は、ありがとうございます・・・・」
べつに少年が試合に参加するわけではない。いったい、それを開催することと、近侍の剣の修練と何の関係があるのだろう。そこまで考えて少年ははっとなった。王族レベルところか、本物の王の傍にいるということを忘れ去っていた。たとえ、純粋な攻撃属性であろうとも、このレベルになるとかなり人の心を察知できる。
だが、すでに王の視界にアルチュールなどは除外されているようだ。すべてはこの長い廊下の先に住まわしている、美しい麗人に注がれているようだ。
ほとんど、王以外の相手に身体を晒さないが、一度だけ、ほとんど事故というかたちで少年はエセックス伯爵夫人を垣間見たことがある。人間とは思えないほどの美しさだった。そのことは、王には見透かされていたようで、後にさんざんいじめられたものである。もちろん、陽性の王であるから、陰険でも、あるいは人の心を傷けるような不作法なことを言われるわけでもないが、ストレスの解消の対象にされる少年にしてみればたまったものではない。
「そなたは、ここで待っておれ」
お目当ての部屋に到着してはじめて、少年の存在を思い出したように王は言うと自分でドアを開けて暗い部屋のなかに消える。
驚いたことに、伯爵夫人の美貌を二度目の、遠目ながらに、再見することになった。いや、それ以上にアルチュールを驚かせたのは、あの冷たい美貌がにっこりと聖母ウェヌスのような慈悲の微笑を浮かべたことだ。そして、永遠に彼の前では開かれないとおもわれた塑像のようにかたちの整った口元が動いた。
「アルチュール、ご苦労さん」
何と、彼の名前を憶えていた。あの時、まったく気づかれていないと思ったのだが、もしかしたら王が教えたのか、それとも伯爵夫人がそれほどの濃い青い血を体内に巡らせているということか。少年はふらふらになりながらも近侍としての役目のひとつ、主君が退出してくるまでドアの前で身動きせずに立ち続ける、という義務を果たさねばならない。
「子供をからかうのは止めてもらえませんか、ロペスピエール侯爵夫人」
「あら、人のことがいえるのかしら?陛下、あの子の顔に書いてありましたわよ、陛下にいじめられましたとね」
「これはこれは、夫人には珍しくご機嫌がよろしいようですね」
「出産以来出会うことが叶わなかった娘と再会できるとあれば、私とて口角が上がるというものです」
「やっと本題に入れましたね、夫人、何も、あなたが思っていらっしゃるかたちで顔を合わせる必用はないでしょう。それにもう接触なさったはずですが?」
「ジャンですね、あの子ったら、才能はあるというのに・・・・」
王は蝋燭に照らし出される夫人の美貌が眩しすぎたのか、顔を背けて、カーテンが閉められた窓へと向かう。普段ならば灯に背を向けて闇と接吻をするのが彼女の常なのだ。それにも拘わらず、このような姿勢を取っているのが内心を如実に示しているのだろう。
しかし、王が友人としている以上、知的にはもちろんのこと、あらゆる面において単純ではありえない。自分の明るい面をわざと示すという作為的な部分がないわけがない。戦争では、わざと負けてこちらが有利な状況に引きずり込むという策があるが、それを弄しているとも考えられる。そもそもそうでなければ第一に面白くない。もちろん、政治的な有効性から彼女をエセックス伯爵夫人に封じているわけだが、この国王が最優先させているのは、自分の精神的生活の充実である。その結果、周囲が幸福になればいいという心づもりなのだ。
「アルチュール君は少なくとも、幸福ではないようですねえ、陛下」
心を読まれた王は夫人の不調法を詰りたくなったが、済んでのところで止めたのは、心を解放していたのは、当の自分だと気づいたからである。だが、口でしゃべれば済むことをわざわざ能力を使う必要はない、というのが王のポリシーである。
「わかりましたわ、能力は使いません。さしで話をしましょう」
「そういう傍から使っておられる」
そういいながら、マイケル5世は振り向いた。さきほどと違って冷たく引き締まった美貌が鎮座ましていた。蝋燭の暗い灯の性格からまるで生首が浮いているようにみえるが、それでさえ上品で高貴なのは、夫人の性質ゆえであろう。
「夫人、どうしてあなたが出場なさる必要があるとお考えなのか?余にはわかりません」
「この世界でもっとも評価される行為、戦闘でしかわかりあえないとは、武人たる陛下ならおわかりでしょう」
ならば、余と一線を交えますか?という言葉を呑み込む前に心を引き締める。本当にこのような、何事にも秀でた人と相手にすることは、軍を率いて他国と戦争をすることと同意だと、得に夫人を真正面に据えたときには思わざるを得ない。言葉という不可視の剣を使って干戈している。もはや一歩も攻められないが引くこともできない。
「あの娘が、それとも陛下にとって頭痛の種になる可能性がおありと受け取ってもいいのですか?」
「アンヌマリーと名乗っているようだが、あの少女は、ヴェルヌイーイからの報告によると、本当にあなたにそっくりだという」
「猊下がおっしゃったのですか?」
「そんなことはどうでもよろしい。あなたがあのような強行に出られたのは、彼女の約束の期日を思い出させるためでしょう?加えて先生にも口添えを頼んだ」
「すべて陛下のご想像ですわ」
「私の想像はよく当たると評判でしてね」
「能力は使わないとおっしゃったのは陛下ですわ」
「論点をずらすのはやめていただきたい。余が言及したいのはアントワーヌ殿のことです。血を分けた子供ながら、あの方には何の心も示されない、これはどういうことですか?」
王がどうして、論理の飛躍としかふつうには受け取れない言いようをしたのか、その理由を彼女は弁えていた。だから反論は止めた。しかしすでに遅かったようだ。
「私は、聖母ウェヌスの精神などという、母親の愛などというものが信じられない・・・・」
そこまで言って、王は、自分が位置する地位にふさわしくない態度に出ていることを思い出さずにはいられずに言いよどんだ。
「ミッシェル・・・」
「・・・・・」
滅多に夫人の口からみることができない、友人への呼び捨てから、王は彼女の真意を覚ると、灯から再び目を背けてこう言って部屋を後にしようとした。
「・・・私はあの少女が羨ましい。何も努力せずに私が得たいと思ったものを傲慢にも手にしている・・・・私は子供の相手をしなければならないので、失礼したします」