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聖女1  作者: 明宏訊
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ナント王国史あらまし

 エウロペ世界には二つの同等の権威をもつ世俗勢力が存在する。ひとつは、神聖ミラノ帝国の皇帝、そして、いまひとつはナント王国国王である。前者はかつては賢帝と仰がれたものの、今は一人で立つことすら満足にできない老人と成り果てた。そして、後者は不在、しかしながら王太子は、複数の理由から即位できずに燻っていた。ひとつは、第三の権威を名乗り、いや、あわよくばナント王国を呑み込んで、その地位を奪おうとリヴァプール王国がナント王国の版図深くに攻め込んで、いまや、王都ナルボンヌを臨もうとしている。それは100年前、当時のリヴァプール王ロバート三世が自分の母親の系統から、ナント王国の継承権を主張していらい、えんえんと流血のドラマをエウロペ大陸に招聘してきたのである。いまや、現王マイケル五世は破竹の勢いでナント王国を圧倒していた。諸侯は、マイケル五世と王太子アントワーヌを天秤にかけた場合、貴族たちは思わずみな一様に口を噤んでしまうのだった。

 ふたつめの理由は、有力諸侯の支持が得られないこと、それには王太子自身の資質も関係しているが、それよりももっと大きな理由が隠れていた。それは彼の人生にとって耐えがたい恥辱であり、生きる意味を根底から揺るがすほど大きいものだった。

 ここは、王都ナルボンヌは王宮奥深く、王太子アントワーヌの政務室である。いま、ちょうど政務報告官から上奏された書類にチェックを入れ終えたばかりで、これから浴室にでも行こうとしたときのことだ。

 何者かがノックもせずに扉を開けようとしていた。衛兵たちがとがめもせず、名目上

この国でもっとも偉い人物の部屋に侵入できる人物は、この世界でたったひとりだけである。

 エベール伯爵夫人ナデージュ。

 全国王が摂政に任じたということに、あくまでも名目上はなっているから、彼女が委託している故に王太子は政務室の主でいることができる。

 扉が開くなり、彼にとってみればこの世でもっとも重要な女性に対して、まるで子が

親に対するような礼儀を示した。

「余に妹がいるというのは、本当ですか?母上さま」

お世辞にも美男子とはいえない青年がとうてい妙齢とはいえないが、かつては美貌を誇ったであろう、そして、今は年相応に美観だとだれもがみなしている、そういう女性に向かって、思わず、人前で尊称を使ってしまった・・・そのことを密かに注意するために、女性は口元に薬指を添えるという、ナント王国独自の注意法を示した。「母上さま」はあくまでも二人だけで一つの部屋を占領しているときのみに許された尊称であると、この国の王太子とされる青年と貴婦人との間で交わした、いわば条約だった。

この貴婦人は、青年の実母でもなければ、あるいは、養母ですらない。単なる、前王の代に政治権力を持っていた五人の有力諸侯のうちのひとりの妹に過ぎない。王太子の父親である前王は、狂王として恥名をエウロペ大陸に轟かしていた。彼には兄弟もない故に五代まで遡って・・・王の血筋をその身体に流す貴族、5家の当主が談合してナント王国というエウロペ大陸きっての大国を運営することになった。前王が発狂したとき、王太子は乳飲み子にすぎなかった。当然のことながら外戚である貴族家と母親が歴史に習って世俗権力を一時的に握ったが・・・五人の貴族によって討ち果たされ、王太子の義父は戦死し、実母はパリという僻地に追放となった。

 因みにその罪名は前ナント王マクシミリア二世を魔法によって発狂させた、という容疑によってである。すでに五賢侯の支配下にあった高等法院は裁判を開く前から籠絡されていた。

ナント王国に住居をもつ者で寒村パリを知っている人間は、よほどの博学者か、精神異常者かのどちらかだろう。

 王都ナルボンヌからはるか遠くにある極寒の地である。

 しかしこの、ナント王国きっての悪女と称される女性は、最後の足掻きを忘れなかった。ナント王国内にて、反王家の盟主と謳われる、ロペスピエール侯爵家に身を委ねて再起を図ったのである。

逃亡地において、ナント王国はおろか遠く海の向こうまで聞こえるような激震を、夫人は走らせた。

王太子は自分の子ではあるが・・・父親はあのきちがいではないと、宣言したのである。五人の貴族、後に五賢候と呼ばれるが、彼らによって引き離れるまであれほど母親としての情愛を示していた国母の変容に誰もが眉をひそめた。貴族たちばかりか、赤い血の賤民までもがそれに習ったのである。

 五賢侯の筆頭であった、カルッカソンム侯爵は信頼の厚い妹、ナデージュに王太子の養育を任せた。エベール伯爵家に嫁いだものの子をなすことができなかった彼女は、献身的に幼児に尽くすことを誓った。

王太子アントワーヌ。後に、ナント王国史上、もっとも恥ずべき行為、いや、正確にいうと不作為だが、そのことで悪しざまに言われることの多い王だが、ごく公平な立場から、彼は歴代のどんな王よりも王としての素質に欠格していたと、歴史家のだれもが認めよう。

 だが、貴婦人の養育によって、自分がいかに無能でカリスマ性に欠けていたとしても、理性の力でそれを認める・・・という王太子にとって唯一の徳政を本来ならば備えていた。それは、他人の能力を信用し、嫉視しないという、本来、王を継ぐと運命づけられた人間にはありうべからざる資質である。だが、それも不幸な境遇によって、ナデージュの献身があったにしても、まるで玉ねぎを一枚一枚剥いていくとやがて何もなくなってしまうように、成人式を迎えるころには残滓だけが一枚だけ残っていた。だが、彼を溺愛するナデージュにとってみれば、それだけで十分だったのである。

 王太子は、心から愛する伯爵夫人に、生じた疑問をぶつける。

「では、あの時にあの女は身ごもっていたというのですか?」

「私も、昨日、兄上からじかに聞いたのです」

 王太子は、この貴婦人の言うことなら、たとえ、太陽が昇ってくるのが西からといっても信用するだろう。

彼女の言っていることに、砂粒一つほどの疑念も持ち合わせない。

王太子は自分にこの母上を与えてくれた、彼は父上と呼んでいる老人がいるが、さいきん、彼の元に出仕しないのだ。尋ねてみるとこのところめっきり年を取ってしまったという。貴婦人の双眸を凝視しながら尋ねる。

「父上さまのご病状はどうなのですか?」

 信頼できる人間が少ない王太子にとってみれば、尊敬する後見人が自分に隠し事をしていた・・・自分に内緒で妹を育てていたとは・・・王太子は複雑な気持ちを押し隠せないでいた。

 王太子の中で不安が増大する。妹が、王家の血を引く人間が自分以外にいるとは・・非常に憂慮すべき事態なのだ。しかも彼は世間の疑義以上に、自分が父王の血を本当に引いているのか、疑問に感じずにはいられない青春時代を送ってきたのだ。真偽は定かではないが・・・・・どちらにしろ、青年を苦しめ続ける、狂王の息子、あるいは、父しれずという境遇。

 赤い血の賤民が父親などと平気で言いまわる貴族すらいると聞く。その顔を思い浮かべるだけで首どころか胴体を輪切りにしたくなる。

 因みに、地場たを這いずっている、赤い血の賤民ならばともかく、後者はけっして青い血を体内にめぐらせる貴族には適用しない処刑法だった。

 貴婦人は、王太子がいまそんなことに頭を悩ませるべきではないと諭す。実妹が、王の器を備えてもでいたら大変なことになる。

「もしも生きているならば、情け容赦するべきではないかもしれません、殿下」侍女が退出したことを確認して言う。

「母上さま・・」

 たしかに頭が鈍いと自覚している王太子にあっても、妹の存在が自分にとって目の上のたんこぶになることはあえて言葉にする必要がないほど明確である。王位継承権の正統を主張して、彼女を推す貴族たちが必ず出現するだろう。それゆえに貴婦人の兄である侯爵も憂慮しているのだろう。

 しかしあきらかに母方の血をひくことは疑いようがない。王太子は自分ときょうたいの関係にある妹の身が心配であることは言うまでもない。だから真実を知ったとき、どれほど葛藤で苦しむのか、そんな自分を予見できてしまうことに、憂慮がある。縋るような視線を貴婦人に向ける。

 この王太子の美点は、わが身を知る以外に、そのやさしさにもあった。心労が多すぎた子供、青春時代を余儀なくすること酔ってすり減ったとはいえ、たしかに残っている。ナデージュは自分に向けられる目を、自分以外にも向けているのだ、という誤解があった。そのことが悲劇を増幅させるのだが、それは今少し時間を必要とする。

 とにかく、ナデージュの目にはアントワーヌは無能なれど、慈悲に溢れる、愛すべき、そして、民にも愛される権利を備えている好青年にみえるのだ。

 貴婦人が恐れたのは、王太子の生き別れとなった、じつは彼女も積極的にかかわって無理やりに引き離したのだが、王家の血を引く実妹のことだった。

 だが、この憂慮すべき状況にあって、すでに侯爵は虫の息で明日をも知れぬ命である、真実を知らされるとは・・五賢侯のうち二人は黄泉の川を渡り、存命の三人も、兄はそのような状態であり、残る二人も何とか王都ナルボンヌに詰めているものの、年齢には勝てないと仕切りに零している始末だ。結局、貴婦人の肩に王太子とナント王国の未来がかかっている。彼らは、両者が天秤にかかったときは・・迷わずに王国を選べと、二人は主張し、病床の兄は苦悶の顔で頷いた。ナント始まっていらいの悪女と称せられるロペスピエール侯爵夫人だが、その政治力だけは王国の未来を憂慮するのは当たり前だと一人はにこやかに微笑を浮かべながら言う始末だ。貴婦人に王太子を裏切れというのだ。

 エベール伯爵夫人はけっして、愚昧な人物ではなかった。

 口ではそれを除くことを言いながらも、理性では、もしも王たる器があるならば彼女に王国を任せてもいいのではないか、憎きリヴァプール国王、じつは彼は何と国王の家臣にすぎなく、例にするのは必ずしも適当ではないかもしれないが、ロペスピエール侯爵と同等といっても過言ではない、故に、彼女にそれを期待してもいいとも考えてはいる。しかし、感情的にはあくまでも息子同然のアントワーヌを即位させてやりたい。両者の間の葛藤で苦しみ姿は、あいにくと後世には伝わっていない。

 王太子を溺愛する夫人にそんなことを考えさせるほどにマイケル5世の勢いは旭日のごとくである。

 目下のところ、ナント王国は建国以来の危機状態にある。世俗権威においてエウロペ大陸において肩を並べるのは神聖ミラノ帝国の皇帝ぐらいだ。それがナント王家の家臣にすぎないリヴァプール王国の侵略に苛まれるようになって100年、彼らは首都ナルボンヌを臨もうする位置にある。

 

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