6*家に戻りました
「…り、えり、絵里っ」
耳元で繰り返される、慣れた音。あたしの名前。
「ん、」
「良かった、気が付いたのか」
うっすら目を開けると、視界に映ったのは見慣れた姿だった。
「おや、じ」
「お父さんだ。……絵里、」
いつものように短く訂正した野太い声。毛深い眉にいかつい顔。あたしとちっとも似てないって言ってはやし立てたクラスメイトと取っ組み合いになって、大怪我させたこともあったっけ。
「本当に、良かった。心配、したんだぞ」
「―――」
看護師という職業上、清潔感は第一だっていつも言ってて。毎朝忘れずに剃刀当ててるのを知ってる。けど、今の顔はひどかった。無精髭がボウボウに生えてて、目が真っ赤に充血してクマも出来てて。まるでいつもと違う。
「お、とうさん、」
がばりと起き上がる。
「あの、あたし、その、」
「今までどこに行ってただとかはあとでいい。水飲むか? 身体、冷えてはいないか。具合はどうだ」
「だい、じょうぶ」
「そうか。よかった」
呟けば、応えてくれる声。案じてくれる存在。確かな……温もり。
(あたし、本物のバカだ)
どうして、親父があたしを拒絶してるかもなんて思ったんだろう。
「……っ、おや、おとうさん、あの、さ」
「どうした、絵里」
あたしは、やっとの思いで声を絞り出す。今までいえなかった、その気持ちを伝えるために。今なら、自然に言える気がしたから。
「ありがとう。そいで……心配かけて、ごめんなさい」
親父は何も言わず、わしゃわしゃと頭を撫でてくれた。涙が零れそうになって慌てて堪える。だってもう思いっきり泣いたあとだ、立て続けなんてかっこ悪いもん。
そういえば、どうして目が覚めたら親父がいるんだろう。いつの間にか朝になってるし。
「ここ、家?」
「ああそうだ」
当然のように場所も変わっていた。見慣れた姿のバックには、見慣れた風景。モノトーンの中に温みを感じる、我が家の屋内。
「わんころまふらーは……?」
「わんころまふらー? なんだそれは」
クマの出来た熊のような目がぱちくりと瞬く。あたしが寝ていたのは、あの不思議なもふもふのいる白い毛だまりの上ではなかった。いつものさらっとした敷き布団と触り慣れた毛布、掛け布団にいつの間にか替わっている。居間に敷かれた客用布団に寝かされていたらしい。
「それより絵里、腹は減ってるか」
「ううん」
「何か腹に入れたほうがいいぞ。朝食、食べてないだろう」
「……うん」
「ほら、握り飯作っておいたから」
「……いただきます」
やけにぽかぽかしてるなと思ったら部屋は高めの暖房が効いてて、足元には湯たんぽが二つも入ってた。あの洞窟内で感じたものとは違う、人工的なあったかさを全身に感じる。医療に携わってる親父らしい手際の良さだ。
布団から出てご飯を食べ終えると人心地がつく。その間にようやくヒゲを剃って来た親父に今更ながら気になったことを問う。
「どうしていきなり家に戻ったんだろ。穴ん中で寝ちゃったはずなのに」
「? 絵里はさっきまで、玄関前で座り込んで寝ていたんだぞ」
「え!?」
あの夜。あたしが家を飛び出してからしばらくのあいだ、親父は寝ずに屋内で待っていたそうだ。すぐに戻ってくるだろうと見越して。けれど、三十分近く経っても戻ってこないのでさすがに心配になり、自分も探しに出たのだという。その際、ついいつもの癖で玄関消灯・施錠もしてしまい、あたしと入れ違いになってしまったらしい。
「鍵をかけて、しかも外灯もつけず出てしまってお父さんも悪かった。だが、絵里にも反省点はあるな」
「う、ん。勝手にキレてごめんなさい」
いつもならここで余計な反発が出るが、今日はなぜかそんな気分にならなかった。脳裏にあの真っ白なもふもふが過ぎったから。あの時感じた、胸を掴まれるような思い。
(いつでも、親父の声を聞けるわけじゃない。反省できるときに反省しないと、自分が後悔する)そのことを、悟ったせいなのかもしれない。
反抗娘のいつにない素直な様子に親父は一瞬目を丸くさせたが、ややあって頷いた。
「わかっているならいい」
親子揃ってごたごたは引き摺らないタチだ。もうそれで、一晩かけた悶着は終了となった。
しゅんしゅん、と薬缶の音。ストーブの上には吊るされたダウン、ハンガーに引っ掛けられた手袋と帽子が温風に揺らいでいる。泥だらけだったのに、洗ってくれたのか。
あのマフラーはきちんと畳まれ、台所のテーブルの上に置いてあった。その脇の椅子には畳まれたタオルケット。布団に入らずその場で待っていた人の温みが伝わってくるかのような残景だった。
「親父はあの晩、どこにいたの?」
「お父さんと呼びなさい。家から集落までの区域を探して、コンビニと中村さんの間のとこで待っていたんだが、来ないから諦めて家に戻った。そうして、朝になっても戻らなければ自警団の人達に来てもらおうと思ったんだよ。今度は明かりをつけて待ってたんだが、つい眠ってしまって。五時頃だったか、凄い風の音がして飛び起きて、慌てて外にでてみたら、玄関のひさしの下で絵里が寝ていた」
「そうだったんだ。……あのね親父、あたし、変なわんころの巣にいたんだよ」
「お父さんだ。へんなわんころ? 動物か何かか」
「うん。あったまらせてくれた。きっとそいつが連れてきてくれたんだよ」
「夢じゃないのか」
「夢じゃない」
「よくわからんが……絵里は昔から、動物にやけに好かれるからな」
これも血筋なのか、と溜息をつきながら親父は立ち上がる。すぐ脇のポットから湯飲みにお湯を注ぎ、温まってから急須に注いだ。家事ひとつにも、やけに几帳面なのがあたしの親父なのである。
「ほら、お茶飲むか」
「うん」
受け取って口をつけると、親父の眼差しが感慨深げになる。
「本当に絵里は、死んだお母さんに似ている」
「そう?」
「なあ絵里、絵里はお父さんに、『母さんを忘れるなんて薄情だ』って言ったな」
「……う、ん」
言いたかったのはちょっと違うの。本当は、あたし自身に向けた言葉だったの。上手く云えないんだけど。
なんとかそう伝えると、親父のいかつい顔は和んだ。見た目とは反対に、繊細で優しい心そのままの微笑。
「そうだったか。気にするな、そんなこと。絵里だって年頃なんだから、悩んで当然だ。人間、成長過程で小さい頃の記憶を忘れたってちっとも不自然じゃない」
「……そうかな」
「ああ。けどな、絵里。ひとつだけ否定させてくれ」
親父の声が、真面目になる。
「お父さんは紗絵子さんを、絵里のお母さんを忘れた日など、一日も無かったよ」
「……」
それも、しってた。これまでずっと再婚しなかったのも、そのせいだった。あたしに気を遣ってた以上に大きかったのは、親父自身が母さんを忘れられなかったから。ちっちゃなあたしに「もうお母さんはいない」と言い聞かせながら、親父はずっとずっと、誰よりも深く激しく初恋のひとを想ってた。元から身体が弱いとわかっていた母さんとそれでも無理を言って結婚して、亡くなったあともずっと諦めきれてなかった。あのマフラーを渡すときだって、太い指は強張っていた。本当は渡したくない自分を抑えるように。離れていく思い出を、惜しむように。
けれど。
「でも、最近はあのひとの顔を思わない時間が、少しずつ増えてきた。理由はもう、知ってるな」
「……うん」
あたしが親父に母さんのことで我儘を言わない日も、同調するように増えていった。そしてそれは、父娘揃って同じ理由、同じひとのお陰。根っから凶暴で人見知りなあたしがグレずにいられているのも、ふとした愚痴や親父には言えない相談事を聞いてくれるひとがいたから。親父が仕事でどうしても抜けられない合間、トラブルだっていくつかあったけど、その全てをなんとか対処出来たのもそのひとが出来る限り動いてくれたお陰だった。最初は話しやすいだけの優しいお姉さん、赤の他人だったのに。時間をかけて本当の意味で親しみのある、新しい家族みたいな関係になっていった。
(芽衣子さん)
「絵里にお母さんのことを久しぶりに言われて、焦ったよ。反論も出来ないくらい……図星だったから」
「―――」
「ショックで、絵里が家を飛び出していったあともしばらく動けなかったくらいだ。こんな有様、梨沢さんには見せられないな。お父さん、やっぱりまだ決心はついてない。今のところ、絵里にしか弱音は吐けないよ。そういうことで、赦してくれないか」
「……」
赦すもなにも。そう云わなきゃいけないのはあたしのほうなのに。
「いいよ、もう。あたしもさ、芽衣子さん大好きだけど、実を言えばまだ覚悟出来てないんだよね。だから親……お父さんが決心ついたときに、教えてよ。多分あたしも覚悟出来てると思うからさ」
「そうか。じゃあ、そうさせてもらう。ありがとうな、絵里」
ほんのりと赤くなった親父の瞳が、また微笑む。
「こんな、情けない父親でごめんな。でも今日、絵里の本心が聞けてよかった」
「う、ん」
あたしも、親父の本心を聞けてよかった。あのわんころの言うとおり、ちゃんとうちに帰る決心がついてて、実際に家に戻れて本当によかった。
今度芽衣子さんがうちに来たとき、意地張らないで二人っきりにしてあげよう。きっと、親父の決心がつく日もすぐにやってくる。
・
・
・
と、ここまでならいい話だったのだが。
親父との会話のあと、ふとトイレに用足しに行ったあたしは数分後、真っ赤になって扉を閉めた。そうして居間にて布団を畳んでいる後ろ姿に、問いかける。
「―――ねえ、親父」
「お父さんだ。……どうした」
「『アレ』、また勝手にしたの」
振り返った熊親父は、もう一度目を瞬かせてからああ、といった風情で頷いた。そして、当然のように言い放つ。
「始まっていたようだったから、着けておいたぞ」
「………………………ッ」
「別のパンツにするなら、自分で替えておきなさい」
しれっと言い添える親父。あたしは次の瞬間、今までの感慨が吹き飛ぶ勢いで叫んでいた。
「――ッデリカシー無いクソ親父なんて、だいっきらいだぁああああああ!!」
……いくら人の看護に慣れてるからといって、おしめも取り替えたことのある実の娘だからといって、男が健康体である年頃の女の子の月経処置を勝手にするのはいかがなものか。セクハラだ。セクハラ以外のなにものでもない。
「こら絵里! お父さんに向かってその口の利き方はなんだ」
「だってひどい、ひどすぎるッ」
「何を言っている、お父さんは当然のことをしただけで……」
「このひどすぎるセクハラ所業、芽衣子さんに言いつけてやるぅううう」
「な、なんでそこで梨沢さんが出てくる」
職業柄、こういった女の子事情にもまったく戸惑いを見せず淡々と対処する父親。母親がいない家庭では心強いのかもしれないけど、十六歳の乙女としてこういうパターンが嫌になるのも仕方ない、それがうっすらわかっていただけただろうか。
※ないすみどるの方もそうでない方も、年頃の健康な娘さんを赤ん坊扱いするのはやめましょうね!