5.5*
――――ぴしょん、
滴るのは地下水。霊気を漲らせている岩全体より浸み出でる、天然の飲み水である。
――――ぴしょん。
それが溜まった窪みに頭部を差し入れ、喉を潤す。飲み終えてから身を起こし、『彼』は背後を顧みた。
「……やれやれ」
思わず肉声で嘆息してしまったのは仕方ない。『彼』の寝床には今現在、珍客がいるからだ。『彼』の本性よりは大きいが、もうひとつの姿よりはだいぶ小さな二本足の雌。香草藁の上、『彼』の霊毛に包まってすやすやと寝息をたてている。
邂逅時はとにかく精神が錯乱状態であった。にも関わらず、『彼』が防寒具と同じ色だったからという理由で瞬時に警戒を解き、怖いものしらずにも抱きついてきた。その精神構造は、理解がまったく不能。
「私がもう少し若く、闘争を好む類の雄であったら。おぬし、とうの昔に串刺されておるぞ」
そればかりか、天の獣たる『彼』を愛玩動物のように撫で回して。あまつさえ、一族の象徴たる大切な角までも無遠慮にこねくり回して。そうしたかと思えばこんなに簡単に眠ってしまう。当初は苛立ちも覚えたが、その邪気の無さに毒気を抜かれてしまった。まるで行動の予測がつかず、本気で怒るいとまが無い。
気分の上下が激しく、考えていることも無知で無礼。まさに、幼子の典型ともいえる。人間は寿命が短い分、精神的な老成区間も短い。見かけは成人でも中身は無知無礼なこどもが大半なのが、かの種族なのだ。
《彼らの突飛さには、ついていけないな》
こんなものに手こずっているようでは私もまだまだ了見が狭い、と今度は思念で嘆息する。人界に出入りするようになって百年余り、様々な獣や人型種と交流してきたが、人間ほど性質がつかみにくい種族もそうはいない。
《結界を張ったとしても、こうして入ってきてしまうし》
一族の性質とは相容れない生き物だということが判明してのち、『彼』は人間と交流するのを諦めた。諦めたのちも人界の獣や他人型種とは仲良くなれたので、こうしてちょくちょくと人界に出入りし、霊力が枯れかけた山にこもって芳醇な自身の霊気を分け与えてやるという、慈善事業をしているのだ。
その際、集中するためそうとわかるほどの「領域」を作り、縄張りを印している。雑多な器や霊気持たぬ動物に反応し視覚的にこちらを隠す作用のある霊気結界を張っているのだ。つまり、只の人間にはこの洞穴は見えもせず近づくことすらできない。しかし、この小さな人間は勘付き、入ってきてしまった。
そこまで考えて、はたと気づく。
《もしや、「霊法師」か》
むしろ、その可能性を今まで思い当たらなかった自分はやはり未熟者だ。雑多な器持つ人型種は内在気が読みにくいとはいえ、気づくのが遅かった。『樫の剣』という栄誉を得ていようと、その名に恥じぬ、とはまだまだ称せない。自嘲しつつ、また溜息をつく。
《まだ未成熟の年代であるのに、……おそろしいものだな》
本質は外見と連動しないという例は、やはりどの世界も存在するらしい。
この世に生まれ育ってゆくさなかで、器の素質というものは決まっていく。霊力向きの肉体になるか、相反する魔力向きの肉体になるか。雑多な器持つ人間の場合、周囲環境によって決まることが多い。そう、この人間の場合は霊力向きに。周囲が霊力豊かな自然環境であったばかりに、本人はしらず霊力の恩恵を受け成長したのだ。精霊族と個人契約をしていないようなので霊力自体は操れないようだが、それでも霊法師たる素質は十二分に有るとみえる。何せ、こうして霊気結界が無効になってしまうようだし。
「私の思念も受け取れることからして、ある程度の内在霊気は既に芽生えているのだろう」
肉声で独り言を洩らしながら、『彼』はかの存在に近寄った。健やかな寝息をたて、眠りについている小さな顔は、至極平和なものだ。一族でも有数の霊気持つ『彼』の結界を簡単に破った実力者とは、到底思えない。
「父親は霊力向きの器でないというのに。これも適応性ある人間の性質ということか」
ずり落ちた霊毛をまた新たに覆わせてやりながら呟く。細い指が握り締めたままだった防寒具の一部をそっと鼻づらで離させ、泥まみれのそれを咥えてねぐらの外に持っていく。人間は毛皮が無い分、こうして他種族の毛や羽でこさえた衣類をまとい、寒さを凌ぐのである。そういう二本足特有の技術が結晶された「道具」の数々は、彼としても興味深い。獣には無い創意工夫の仕方だと思う。
《まふらぁ……とは如何なるものであったか。確か以前にも聞いたことがあったが―――ああ、思い出した》
首巻きのことであるな。そんなことを考えつつ、飲み水とは別の区分に溜めてある貯水窪にて、泥まみれの防寒具を洗う。咥えたまましゃばしゃばと霊水の中で頤を振れば、毛糸は瞬時に元の色を取り戻したようだ。先が五本に分かれたものと、両脇に余りを垂らしているもの。
「このまま乾かせばよいな」一声かけるなり、『彼』はそれらをみずからの角にひっかけた。
ほの暗い洞窟内に、稲妻めいた閃光が走る。冷たい水が滴っていた小さな手袋と帽子は次の瞬間、じゅぅっと蒸気に包まれ、あっという間に乾燥した。
岩穴に張り巡らしてある霊気をほんの少し強くしたので、内部気温は高まっている。
霊気を媒体に循環させるだけで、自身にとって心地の良い空間を作れるのが霊力の利点である。風はおろか、余計な寒気や暑気も遮断する効果のあるこの洞窟は、ある程度の霊気持つものなら簡単に作れるものだ。同様のものをつくり、生活している獣は人界にも何頭か存在した。ただ、その事例はわずかである。この界は天に比べて大気内の霊圧が至極薄く、霊力を行使することが難しい。歳月を重ねるうちに霊気を持つようになった獣は数多かれど、皆が皆、楽に暮らせているかといえばそうではないのだ。
《いぬ、か。そういえば、人間に捨てられたあの肉食種はどうしたか。霊穴を作れぬようだったので、自然区域にて暮らすのは苦労をしていたようだったが》
六十年ほど前、この山奥にて一匹だけで暮らしていた獣を思い起こす。身の内に霊気を蓄えていながら容量はさほどでもなく特殊性も持っておらず、元は人間に食物を提供してもらっていたようなので、自力で糧を得ることすら難儀していたようだった。肉食種であったので『彼』はあまり関われなかったが、それでも同じ霊気持つ獣として、遠目に見ながら多少の同情を覚えていた。
この山からかの犬の気配は消えているが、あれから幸せに過ごせたのだろうか。
《この界自体、我らにとって過ごし難くなってしまった》
人界は、その名の通り人間を始めとする人型種のための界……ではない。もとは彼の故郷たる天同様、様々な動物が暮らすいきものの楽園であった。しかし、昨今発達してきた人間という人型種が幅を利かせ、今となってはどこでも獣は過ごしにくい界と化してしまった。天より遥かに狭い空間に遥かに多い生き物が密集しているだけでなく、人間の作りえた住居や物体が所狭しと立ち並び始め、自然区域においても雑多な気配と匂いに満ち溢れている。『彼』のような鼻の利く獣にとっては特に、棲みにくい世界なのである。けれど、それを恨むつもりはない。そのなかでも逞しく生き抜いている獣は数多いし、生き物の進化発展としてこういう現状もありえる、と『彼』は考えているからだ。
元々、『彼』は二本足の技術や独自の生態に好意的であった。今も、獣にない発想や創意工夫を生み出す人間の適応力には感心している。けれども。
「いまだ、わからない。少しばかり長生きをして不気味だからといって、自分達の生活に慣らした獣を簡単に追い出すその感覚が。ことばを喋るようになったからといって、それまで暮らしていた家族を野に放り、ひとの界隈で生きようとする霊獣の生活区域を無情にも狭める」
『彼』の黒い瞳には静かな憤りがある。
「まこと、人間とはわからない」
苛立ちを含ませた視線は、足元に落ちてふと和らいだ。
「わんころ……まふらー……」 真っ白な毛を握り締めた幼子から、幸せそうに寝言が呟かれたからだった。
《―――まあ、それでも幼子にはなんの罪もあるまいな》
思念でもう一度呟き、『彼』は寝床のすぐ傍らに身を丸まらせた。悪感情が長く続かないのも種族の本能である。たまに自身でも難儀だと感じることはあるが、今はこういう性質で良かったとも思う。
この幼子の突飛さには多少危惧も覚えたが、自分と同じく霊力に属するもの――霊気持つ獣を「霊獣」と称するのに対し霊気持つ人間は「霊法師」と称する――とわかってしまえば獣に対する異常な懐こさも合点がゆく。抱きつかれて角を触られても不快感が皆無だったのにも納得がゆ……かざるを得ない。
「……」
そこまで考えて沈黙する。あの感触は三百年余り生きてきた中でまったく未知の感触だった。今まで二本足にあそこまで簡単に接近を赦したことも、あまつさえあれほど接触させたことも皆無だったから。
あの、えもいわれぬ快感。無意識に角が垂れてしまった屈辱。それらを思い起こした『彼』の背が武者震いでないものにぶるりと震えた。歴戦の雄が、なんとも情けない。洩れ出た肉声での独り言も、常とは違う部類の慄きが含まれていた。
「れ、霊法師とはまことおそろしい……霊気持つ指、しかも人間の器用さを以ってこその技巧か……否、あそこまでの毛づくろいの技術を持つのは特例だと信じたい……」
ぷるぷると邪念を振り払うように純白の毛皮が振られる。いちど気を赦せば底無しの悦楽に堕ちていってしまいそうな、魔性のひとときであった。五本指の器用さ、やはり侮りがたし。
気を取り直し、『彼』は頭部をねぐら内部に寄せる。秀でた角は、今はまた小さく縮まっている。家族同士や仲間同士で毛づくろいするとき、自然とこうなるのである。誇り高いことで知られる角持つ一族が他種族相手に自然とそうなってしまう辺り、霊法師とはつくづくおそろしい。四元精霊らが血眼で探し求めるのも解る気がする。
しかし、今ここに眠っているのはそういった存在ではない。自身の特殊なちからに気づいていない、自覚も無い、ただ親御のもとに還りたいと望む、ただの無力な幼子だ。
《疲労が溜まっているようだし、宵闇が晴れたら、父御のもとに戻してやるからな》
滑らかな頬に残る涙のあと。それをまたぺろりと舌で拭ってやってから、彼も瞼を閉じた。夜明けまで、あと数刻といったところか。
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霊穴内に光は差し込まずとも、時間の経過と周囲の感覚はつかめる。
『彼』は音も無く目を覚ましたのち、伸び上がって四肢を伸ばし、ぶんっとかぶりを振った。最大の誇りたる角は本日も黒々と光り、勇ましく空を切る。
《さて、夜も明けた。そろそろ幼子を起こすか》
傍らで健やかな寝息を立てるいきものを見やり、『彼』はその場に身を屈め―――
「……ん?」
ふと、その動作が止まった。ひくひくっと黒い鼻が震える。
「この、匂いは、」
小さな頭を近づけ、臭気の発生源を確かめた『彼』の表情は見る間に蒼白に――二本足のように表情筋など無いのだが、雰囲気として――なってゆく。
ややあって、がばっと身を起こした『彼』は心底から動揺した様子であった。
《もしやこの人間、生殖可能な雌であるのか………!?》
思念で叫んだ声は眠っている存在には聴こえない。
何も知らずすうすうと惰眠を貪る幼子、いや、少女は、ぬくぬくふわふわの寝床にて幸せそうに寝返りを打っただけだった。