4*泣きつきました
親父と喧嘩し、家を飛び出して閉め出しを食らい、コンビニに行くつもりがなぜか山ん中にワープして遭難しかけた矢先、見つけて潜り込んだ洞窟。あったかさと不思議な安心感に誘われ、最奥で出逢った一匹の獣。
真っ白な体毛が暗闇で光を発し、周囲をほんわりと照らしている光景は幻想的だ。額から伸びる、真っ黒な太い角。体表のすべてが、不思議な声が響くごと、表面を淡く光らせる。どうみても、この世界の生き物じゃない。しゃべれるみたいだし。
しかし。もふもふに触りたいという欲求の前では全ての警戒心は塵に等しい。
《退け!》
ぱちちっ、と電流のように黒い角に光が走る。ぶんぶんぶんっと振り落とすように、獣が濡れた身体をぷるぷるするあの要領で振られたが、負けじとぎゅうっとしがみつく。
《~~離れろ二本足ッ》
「はなれないっ」
毛量は多いが、体格自体は細身のようだ。157センチのあたしよりちっちゃい身体なので、押さえ込むようにしてしまうと逆にへばってしまったようだ。
ぜえ、はあ、とわんころの鼻づらが呼吸を切らしてる。
《この、二本足、めッ。幼子と思い手加減していれば、調子に、乗って……ッ》
その近い距離で、黒い瞳がぐりんっと移動し、首に手をまわしているこちらを睨んでいるのがわかった。わかったが、はっきり言って全然怖くない。威嚇するように歯をむき出しても、そいつの牙は全然尖ってなかったからだ。そう、まるで馬みたいな歯をしてた。見掛けは犬なのに。
《うま、に、いぬ……だと。誇り高き光の獣たる私に向かって、なんという決め付け。ますますけしからぬ輩だ》
どうやらこちらの考えていることがわかるらしい。思った以上に賢いなこのわんころ。
《――またも、無礼な物言いを。赦さぬッ我が天雷を食らわせてやる!》
「ここ洞窟だもん、雷落ちてこないもん」
《はっそうか、盲点だった……、ええい、そうではなく!》
至近距離の真っ黒な鼻が、まるで人間のようにふんっと鳴らされた。かなり喜怒哀楽が激しいもふもふだ。
《とにかくこの無礼な腕を離せ、二本足》
不思議な声は、そこから聞こえてくる風ではない。どこからともなく脳に直接届くような、なんとも形容しがたい感じの音。
《離せ》
「やだね」
だはあ、と器用に溜息をつくもふもふ。馬や犬どころか、そこらの獣には備わっていないだろう人間みたいな表情の動かし方。
《離すのだ、いい子だから》
「やだもん」
さっきから不思議で不可解なことばっかり起こってる。なのに。
《……離してくれ。そして、泣き止むがよい。迷い子たる、幼い人間よ》
このもふもふも、脳内に響く声も。どうしてこんなに安心するの。さっきまで出なかった涙が、なんで今になって出てくるの。
《幼子よ。どうしておぬしが私の霊気結界に入り込んだのか、その追求はあとにしておいてやる。取り敢えず、落ち着くがいい。ここに外敵はいない》
腕の中で短い首が身動きし、頬をぺろりと柔らかい感触が這った。涙を舐めてくれたのだ、とわかってから、あっという間に涙腺は決壊する。
「ふ、っく、ぅえ、」
《ああ、鼻水をつけるでない》
「ぅわぁああああん、こわかったよ、さむかったよぉおおおっ」
《はあ……よしよし、宵闇は怖かったな、毛皮の無い身で外は寒かったであろう。たんと泣くがよい。ここは私の霊力に包まれているゆえ、安全だ》
「わんころまふら~~っ」
《……不可解な……。どの世界でも幼生の扱いは難しいな》
仕方あるまい、今宵はそのわんころまふらぁとやらになってやる。そう呟く呆れた声音からは、いつしか険がとれていた。腕の中のちっちゃい四肢は強張りを解き、されるがままにこちらをしがみつかせてくれる。その優しさに縋って、あたしはおいおいと泣いた。本当はとっても怖かった、心細かったのだ。
不思議なわんころはもうひとつ溜息をつく。拒絶する風でなくなったもふもふからは、ひたすらにあったかい温度が伝わってきた。
《それにしてもおぬし、なぜ冬宵の中、そのような薄着で闊歩していた》
「……いいたくない」
《そうか》
もふもふはその場にまた座り込んだ。つられてあたしも座り込む。腕は離さずに。
「ね、え。ここって、裏山、なの?」
《うらやま……? それかどうかは知らぬが、すぐ近くに人間の棲み処はあるぞ》
よくわからないけど、そんなに山奥でもないらしい。
《おぬしが望むなら、連れていってやる》
「ほんと!?」
《ああ》
優しいもふもふだ。しかし、ちょっと気になることがあって聞いてみる。
「ねえ、その人間の住処って、赤い屋根してる?」
《ひとつはそうだな。もうひとつは青い屋根と茶色の屋根だ》
「う……」
どうやら、ここは思いっきり自宅の裏山だ。そして、このまま自宅に戻ることになりそう。
《どうした。ここがおぬしの棲み処近くとわかったのであろう》
「そうなん、だけどさ。なんとなく戻りづらいっていうか」
《なぜ戻りづらい。先ほども思念で痛いほど父御を求めていたというに》
「しねん?」
《無意識か。まあ、そういう輩が人間に多いこと、知ってはいるが。とにかく、おぬしはまだ親の庇護が必要な年代であろう。どうして父御の下に戻らない》
「……」
なんで親父のことをしってるのか、「しねん」ってなんのことなのか。わんころの言ってることはよくわからなかったが、取り敢えず質問には答える。
「……こわいの」
《何が怖い》
「親父に逢うのがこわい」
《なぜ父御を怖がる?》
「親父が、」
《父御が?》
「親父が、あたしのこともういらないって言ったら、どうしよう。こんな悪い子、いらないっていわれたら」
《……》
「お、とうさん、にきらわれたら、どうしよう。もどれない、かもしれない。こわいよぅ」
《……》
「それは、本人に確かめたのか」
「え?」
「父御が、実際におぬしのことを厭うと発言したのか。もうねぐらに戻ってくるなと、実際におぬしの耳で聞いたのか?」
暗闇よりも濃く深い漆黒の瞳が、凛とあたしを見据える。
「……」
「確かめてもいない自身の勝手な予想を、断定するな。それこそ、無駄な心積もりよ」
「……」
胸が掴まれた心地になって、あたしはもふもふに再度顔を埋めた。頭に響いていた声は、いつしか違う方向から聴こえてきていた――そう、眼前の黒い鼻づらから、直接空気を震わす、肉声に。
「父御が何を思っているのか、しりたくば実際に本人から確かめろ。そのためにも、ひとまずちゃんと棲家に戻るのが、おぬしの為すべきことだ」
「……うん」
生の声は、あたしの鼓膜に直接届いて視えない胸郭も震わせた。あったかくて、厳しくも優しくて。まるで、親父がいつもあたしを叱るときみたく。