3*邂逅しました
◆◆◆
『おとうさん。ねえねえ、』
『どうした?』
『お母さんは、どこにいるの。びょういんに行ってから、ずっとかえってこない。えり、いい子でおるすばんしてたでしょう。どうしてかえってこないの』
『―――前にも言っただろう。一緒に、お見送りもしただろう。お母さんはもう、帰ってこないんだよ』
『やだ。だって、のぞみちゃんちはかえってきたよ』
『壷口さんは病気が治ったからだ。でも、絵里のお母さんは病気が治らなかったんだ。お母さんは、帰ってこないんだよ。死……、』
『し?』
『っとにかく、もう帰ってこないんだ』
『やだ。やだやだやだ』
『絵里、お父さんがいるだろう』
『お父さん、いつもいないじゃん。いつもおしごとじゃん。えり、お母さんがいい』
『――』
『お母さんがいないの、やだぁッ』
『ッ絵里、』
あたしが嫌だったのは、お母さんがいないことじゃない。
凶暴な上に人見知りする幼児だったから、託児所や親戚のおうちにはちっとも馴染めなかった。我が家に戻ってもあんまり一緒にいてくれない親父が恨めしくて、一緒にいてくれるひとを求めてた。休日出勤がざらな親父が遊んでくれる約束をキャンセルして出かけるあいだ、一人で過ごすのもつまらなかった。独りぼっちでお留守番するのが辛かったから、もうとっくにいないとわかっている母さんを求めた。それだけの話だ。
薄情なのはあたしのほう。どんどん母さんの顔を、温もりを忘れていく。それが嫌で、成長してからも自己嫌悪のまま親に当たってただけ。
忘れるなんて薄情だ、なんて。母さんが死んでからもう十三年、ずっと苦労をかけ通しで、今やっと幸せを掴もうとしてる親父に対し、なんて利己的な娘なんだろう。
あたしって本当に、自分勝手でバカなこども。
◆◆◆
「あったか、い……!」
確認しなくともわかる、もう全身泥だらけだ。疲労と冷たさで手足の末端が麻痺してる。なので休める場所は本当にありがたい。マフラーは無いけど、帽子と手袋を着けたままだったのでそれら数少ない防寒着を押さえ込むようにして寒空を歩いてた。そして、ようやくそれらを取ってもよい空間に辿り着いた。
洞穴の中は、思った通りに無風で。思った以上にあったかかった。
(良かった、取り敢えず良かった)
身を切るような寒さからいっとき解放された。首から入ってきてた冷気がおさまった。例えるなら猛吹雪の中、遭難を覚悟したところで山小屋を発見し、やっとの思いで扉を閉めた心地だろうか。屋内よりは断然寒いんだけど、吹きさらしよりは数百倍マシ、というやつである。
竦めていた首を伸ばし、内部を見渡す。暗闇で何も見えないと思ったのに、そのときは不思議に感覚が冴えていた。
「うわ、結構広い」
口内で呟いたはずだったのにほわんと声が反響する。狭い入り口に反し、中はかなり広々と奥行きがあった。全身を入れてもまだ余裕がある。暗いので視界は開けないが、結構長いトンネル状になっているのかもしれない。
(クマがいきなり飛び出てくる可能性も薄い、かな)
現に、穴の入り口際、獣の毛皮がこびりついてる様子でなければそういう匂いもしない。暗がりな足元を触ってみても、これといった痕跡が見当たらない。
雨露風よけには絶好の場所にしては、内部に動物の気配がしない不思議な洞窟だ。
と、なると。
「もうちょい、奥に入らせてもらいますよ~っと……」
当初の警戒は明後日の彼方に吹き飛び、あたしはそのままずんずんと洞窟内に脚を踏み入れた。入り口付近だとまだちょっと寒かったから。人間、欲が出るとどんどん重なる。
入り口から岩壁の側面に手を当て、迷わないよう気をつけながら少しずつ洞窟の奥に歩を進める。いくばくもしないうち突き当たりに到達した。ここまで足場もしっかりしていて、蝙蝠かなんかも出てくる様子が無い。静か過ぎるほどに静かな洞穴は、奥まるごとにあたしに奇妙な安心感を与えてくれた。
(なんだろ)
無風であったかいというだけでは説明がつかない心境だった。灯りを何ひとつ持ってない真っ暗闇、しかも下手をすれば更なる遭難が待ち受けたかもしれない広い洞窟だったのに、どうしてあそこまで恐怖心がゼロだったのか、今考えても謎であるが。
「曲がってOK、かな」
その辺りで止まっておくのが普通の人間の判断だったのに。
「よし、もっと行っちゃえ」
奇妙な安心感そのままに、あたしは突き当たりを曲がり、更なる奥に進んでしまった。
そして、こんな考え無しでおバカなあたしだったからこそ、そいつと邂逅することとなるのである。
◆◆◆
『絵里、ほら』
『なにこれ』
『お母さんが、絵里が生まれる前に作ったものだよ。形見だ』
『え』
『大切にしなさい』
あたし、知ってた。それ、親父の部屋の押入れ奥に仕舞いこんであったやつ。真っ白な毛糸と黒い毛糸が品よく編みこんであるお洒落な手縫いマフラー。ほんのちょっと端っこがほつれてるけど、長くてたっぷりした……母さんが死んでから、親父が自分で身に着けることはなくなったもののひとつ。
それを差し出す親父の太い指。そこから伝わった思い。
『……わかってるよ』
なのにあたしは。そのときありがとうもごめんなさいも言えず、可愛げの無い言葉と共にそれを受け取るだけだった。
思えばずぅっと昔から、あたしは肝心なところで素直になれなかった。一番大切に感じるひとに、考えを伝えきれない。口を開けばぶつかってばっかり。
親父はあたしにとって一番気を赦せるひと、頼れるひとなのに。素直に、助けを求めたい、求めてもいいと感じるたった一人の家族なのに。
いつだって、親父には胸の内を伝えきれない。だから、不安だった。
―――家には車が停まったままで、消灯・施錠されてて。だから、一気に不安になったんだ。これは、親父があたしに愛想を尽かした結果なんじゃないか。反抗的な娘が嫌になって、文字通り閉め出したんじゃないか。
そうだとしたら。大好きなお父さんに、拒絶、されてたら。
だから、どんなに寒くたって心細くたって、たった一人の家族に助けは求められなかった。
◆◆◆
どのくらい、暗闇を歩いただろうか。家の廊下程度の広さだった洞窟の道が、不意に開けた。
「あ、」
そして、視界も。
(あかるい……?)
それは暗闇に慣れた目にも刺激が強すぎない、ほんわりとした明かり。岩壁に置いていた右手を離しても平気なくらい。明かりは、開けた洞窟道の更に奥からもれ出るように光っている。
「苔、か何かかな」
洞窟内でも光を発する種類の植物が、この辺に群生しているのだろうか。興味の赴くまま、あたしは更に歩を進めた。洞は進むごとにどんどんあったかくなっていて、もう屋内と称していい心地よさだった。そのぽかぽかとした体感温度に誘われ、あたしはいつしか帽子を脱ぎダウンの前も開けていた。くたくただったはずの足取りさえ軽かった。いや、そのときは本当に疲れがとれていた。思えば、意を決して洞窟内に入ってからずっと疲労は感じていない。むしろ、歩くごとに霧散しているような気がする。精神的に居心地が良いからだろうか。
(なんで、こんなに)
ここは、こんなにもあったかく、気持ち的にも安心するんだろう。不可思議な現象、奇妙な心境。その謎を突き止めるためには、やっぱり進むしかなくて。
そして、最後の突き当りを曲がったその最奥にて。
そいつは、座っていた。
―――――ぴしょん、
岩肌を地下水がつたい、落ちる音。
―――――ぴしょん。
水滴はきらきらと光る。そいつから発される微光に照らされて。
《おぬしは、何者だ。私の霊気結界をいとも容易く破るとは、只者ではあるまい》
脳裏に響く、不思議な声。低くも広がりのある、豊かな声調。
《返応をしろ》
「………」
何も反応出来ず、ぽかんと見惚れた。だって、だって。
《返応をしないのなら、敵とみなすぞ二本足》
「………」
そいつは、あまりにも。
《……私の思念を無視するとは、良い度胸だ》
「………」
あまりにも。
《天の領域に踏み入った愚かな人間よ。我が角の裁きを受けるがよい。我が名は――》
あまりにも、もふもふだったから。
「―――ッまふらぁあああああああ!!」
《!?》
なので、あたしは取り敢えず飛びついた。つかつかと歩み寄り、有無を言わさずその短躯、柔らかそうな胴体にしがみつく。
《いきなりなにをする二本足ッ》
もふっと頬に、露出していた首に当たる毛の塊。ああやっぱりあったかい。ぐりぐりと頬ずりするように顔を埋めれば、腕の中でちまい四肢がびくっと跳ねたが構うものか。
《……ッこの、無礼者め! ええい、触るな、この怒りが――》
なんで急にそんなことをしたのか。あとからそのときの状態を弁明させていただくと、とにかく衝動的な欲求が抑えられなかったのだ。元々モノトーンが好きな親父の好みに合わせて、家具はそれ系統のデザインが多かった。クッションカバーとか便座カバーとか、炬燵布団やら座布団やら。あのマフラーもそう。つまり、丁度思い起こしていた母さんの形見とそいつが同色だったせいです、と主張したい。
真っ白と真っ黒のコントラスト。あたしの中では、その色彩イコール「暖を取るためのもの」。無条件で安心する、魔法のカラーリングだったのだ。
「うっせぇ! 黙ってあったまらせろわんころマフラーッ」
《わんこ……、!?》
なので、多少の突飛さは多めにみてもらいたい。欲望とは、時に自分でも制御出来ないものなのだ。
※だからといって、よいこのおなごは見ず知らずの獣にとびついちゃいけないよ!