2*寒いです
しゃく、ぐちゅ。からっからに乾いた落ち葉が踏み潰され、泥に踵が沈み込む音だ。運動靴が埋まってしまいそうな土はぐちょぐちょにぬかるんでいる。昼間に霜柱が溶けたあとも乾かないまま夜に突入し、翌朝になるまでまた凍りつくといった現象を繰り返した土壌だ。表面が凍って硬い箇所も、踏み固められてない内側が柔らかい独特の感触。見るからに、舗装道路ではない。
道に迷った。いや、本来ならあり得ない場所で迷った。
「なんで、え、いつの間にか裏山に入った……!?」
あたしんちは集落からちょっとだけ離れたところ。古びた二軒の家と都会のおばさまの別荘もとい邸宅、それと小さな山が隣り合っている。山の敷地はお隣さんのものなのだが、手入れや見回りは曾祖父さんの頃から付き合いのある我が家も共同でやらせていただいている。地権者がかなりのお年よりだということで、比較的若い親父が大抵のことを取り仕切っており、管理はほぼ我が家が主体と言っていい。あたしもかなりちっちゃい頃からこの山に出入りし、袂までならまさに自分の庭みたく思っていた。
なのに。
「どうして、迷った。いや、その前にいつこっちに歩いてた」
コンビニのある集落とは反対方向にある山なのに。あたしは間違いなく、集落に向かって歩いてたはずなのに。
周囲は背の高い木々が生い茂り、隙間から木枯らしが吹く。足元もアスファルトでなく、湿気た土とごろごろの石。爪先に感じる斜面。人の足で踏み固められてはいない、歩きやすくもない獣道だ。山道ですらない。
(暗くて、どこにいるのかもわからない)
立ち止まり周囲を見渡してみても、明かりは見えない。当たり前だ、本当に裏山に入ってしまったとなると周囲は我が家とお隣さん二軒しか人家は無い。そのどれもが消灯してたこと、さっき確認済みだ。
しかし、なんで。どうして山に入ってしまったのだろう。
(考え事してたから? 気づかないうちに道に逸れてた?)
そんなわけない。家の前から集落に続く舗装道路は一本道だ。いくら脳内が混乱してたからといって、十六年暮らしてきたこの村で、真夜中とはいえ視線も足取りも逸れるはずもない。あたしはバカだがそこまでバカじゃない。
なのに。今は実際。
「なんで山ん中にいるの――――!?」
絶叫しても、応えるひとはいない。田舎だし。
◆◆◆
『絵里ちゃんは偉いね。ひとりでお留守番できて』
『えらいでしょ。えり、おとうさんがいなくても平気』
『わたしだったらひとりぼっちだと、とってもさびしいわ。絵里ちゃんは本当に凄いね』
山奥の我が家に、いつも灯油を届けに来てくれるガソリンスタンドのお姉さん。
『めいこさんも、ひとりでお使いすごいね。ほめてあげる。えらいえらい』
『あはは、ありがとー』
大きな車から降りてくる、細い身体。にっこりと明るい笑顔。
『絵里ちゃんがいつも褒めてくれるから、わたしもいつも頑張れるの』
ひとりぼっちがさびしくなかったのは、お姉さんがこうやってきてくれて、笑顔を向けてくれるお陰でもあった。あたしだって、芽衣子さんが褒めてくれるから、頑張れてた。
人見知りするあたしが、最初から普通に喋れたのはそのひとが初。それくらい自然に、芽衣子さんは我が家にとって欠かせない存在になってた。
『絵里ちゃんのお父さんは、幸せね』
だから、大好きなそのお姉さんが本当の家族になるんだとしたら、反対する要素はひとつも無い。むしろ、あたし個人の望みと重なる。喜ぶべきことだ。
なのに、どうして親父にはあんなことしか言えないんだろう。
◆◆◆
「誰かぁ――――!!」
大声で叫んでみた。
「誰かいませんかぁ――――!」
息を吸い込んで、もう一度。
「誰かぁ―――助けてくださぁああああい!!!」
周囲に、音が吸い込まれていく。その後も何度か叫んだけど、声の張り上げすぎで喉が痛くなっただけでなんの反応も無い。
「ここどこなのぉ――――!?」
こだまさえも、かえってこなかった。
「………。………、とりあえず落ち着けあたし」
再混乱しそうになった脳内をどうどうと落ち着かせる。さすがに田舎暮らしは長い。自然界のなかで迷子……いや、道に迷ったことは前にもある。
「落ち着け。現状把握しろ」
裏山に入ってから迷ったのは過去に数回ある。そのどれも昼間で、かつ親父がすぐ見つけてくれたからことなきを得てた。しかし今はそれは望めない、状況的に。どうやって舗装道路から逸れてしまったのかがわからない上、ここが本当に裏山なのかも不明。
周囲は真っ暗闇で。足元は獣道、頬に感じる空気は梢を吹きぬける風、ひとの気配は勿論ゼロ。白い色してるはずの吐く息すら見えない。
「どうすりゃいい」
こういうときは下手に動いちゃいけない。しかし、登山中に迷ったならまだしも、突然山の中にワープしてしまったかのような今の状況で、まずどうしたらいいのかもわからない。
虫の音ひとつ聴こえないのは、今が冬だからだ。これは不幸中の幸いなのか、害虫や害獣は冬眠中の時期。となると、あたしが出来ることは。
(このままじっとして、明るくなって視界が開けてから袂に下りればいい)それが一番確実な安全確保方法だろう。
しかし、やっぱり拭えない問題はひとつある。
「さっみいぃいいいいいいいいいいいい……!」
考えなくともわかるだろう、夜間の高所が極寒なことなんて。今は何合目あたりなのかも不明だが、取り敢えず自宅より高い場所に到達していることは体感温度が知らせてくれた。
「真冬の山に防寒ほぼ無しで登るってバカか。バカだよ。なんだこのふざけた状況ぉッ」
まったくもってわけわからない、今の状態の理不尽さに涙も出ない。鼻水だけが出る。
(とりあえず、風除け探さないと)
この辺の木はみんな背が高くて細く、生え方もまばらだ。歩き続けてさすがに疲れが出始めてる。脚を休ませたいし、ちょっとでも寒さを凌げるところに入りたい。洞窟とか無いかな。無いよな。何もなかったらそこらの木の根元で頑張るしかないが、この寒さにこの薄着でそれはなるべく避けたい。
取り敢えず立っていたところに印として、転がっていた枝を突き刺した。暗がりのなか目を凝らし、そろそろと足を滑らせるようにして周囲を散策する。ぬかるんだ土壌に足で道筋を刻みながら。
(雪降ってなくて良かった。吹雪いてたら、あたし瞬殺だった)
びゅうぅっと吹き抜ける山風の寒さに身を竦めながら、じんわりじんわり歩を進める。とてつもなく寒い。しばれる。吹雪いてなくてよかったどころの話じゃない。疲労も身体の芯から表面から責めてくる。なんでお前こんなとこにいて、こんな目に遭ってるんだよ。そもそもあんなことでキレずに、もう少し冷静になって親父に弁解出来てたら、こんな辛い目に遭わないで済んで、今頃はあったかい布団の中でぐっすり眠れてたんじゃないか。お前はバカか。バカですね。
肉体的にも、精神的にも寒さがひどい。
(さむいよ)
ただでさえ惨めなのに、気持ちでも卑屈になりたくない。それでもやっぱり自虐という名の後悔が襲ってくる。
「ぅうっ……あたしのばかぁ~……」
呼べば、いつも助けにきてくれるはずの存在はいない。今の自分が情けなすぎて、呼ぶことさえ出来ない。
・
・
・
上に登らないよう気をつけながら、且つ足元を確かめながら風除けを探すことしばし、やっとそれらしきものを発見できた。発見してしまった。
「洞窟、無いと思ってたのにあった……」
それは、立っていた箇所から二十歩ほど下った箇所。ややへこんだところに、そうとわかるほどにどでかい岩の塊があった。そしてそこは、あつらえたかのように風の吹きつける方角と反対方向の山肌に窪んでいる。入り口の大きさはあたしがやっと入れるくらい、といったところだろうか。周囲の闇夜より深い暗がりは、一体どこまで続いているのか。しかし、ちょっと手を差し伸べてみてもわかるほど、洞の中は無風であった。きっと奥まったところはもっとあったかいだろう。
なんという発見。そしてなんという出来すぎ感。幹が太めの木か、でかい岩陰でもあればラッキーだな、と思っていたので、この僥倖はむしろ新たな不安も呼び起こす。
(熊とか、の冬眠場所だったりしたら)
むしろ、その可能性が高い。入った途端、寝ぼけ眼の猛獣に襲われて(人生の)終了、とか充分あり得る。
「……………」
迷ったのは、三秒ほどの時間だった。しかし、今の状況からしてあたしの選ぶ行動は決まっていた。時間が経つごとにひどくなっていく山風、びゅおおぅと吹き荒れる冷気のさなかで決意を固める。
「……森下絵里十六歳、山中で凍死より洞穴でクマに食べられて死亡を望みます! 以上!!」
かくしてあたしは、鼻水垂らしながらその洞窟内へと前進、もとい潜り込んだのである。だってとにかく寒かったんだもん。
※よいこのおなごはこんな選択しないよう、つまり山中で遭難しちゃだめだよ!