第二話 橋の下で
萌香が去ったあと、後ろの方から声が聞こえた。
「兄也、今の子はなに?」
ギクリ、と身体を強張らせる。振り返ったその先には、昨日俺を叱った張本人がいた。
「いま、なんの話をしていたの?」
物凄いオーラを放ちながら、だんだんと近づいてくる。足がすくんで全く動けない。
「か、母さん……」
目の前にいる自分の母親に対して、防衛本能のようなものが働く。
まずい。
そうは思っていても何もすることはできない。足がすくんでいるからではない。何をしても無駄だらかだ。
「か、母さん。どうしたの、こんなところで?」
「兄也、今は私が質問しているのよ。いま、あの子となんの話をしていたの?」
聞かれていなかったのか? それならごまかせれば……。
「え、えっとね。今のは……そう! 彼女は勉強に詰まってて、少し散歩していたらしいんだ。それで、たまたま俺を見つけて、それで勉強を教えてあげてたんだ」
うん。まあ咄嗟に出た言い訳にしてはなかなかいいんじゃないかな?
「……そうですか。ところで兄也。あなたの方は勉強は進んでいるの? 早く一人前になってもらわないと……」
そういって歩き出す。――萌香が走り去った方向へ。
「っ! 母さん!!」
母を止めようと手を伸ばす。しかしその手は届くことなく、目標を見失ってしまった。
「……くそっ!」
気が付いた時にはもう、足が動き出していた。
* * *
萌香を見つけたのはそれから五分も掛からなかっただろう。
川の向こう岸まで掛かっている橋。その下に川と平行に走っている道路に萌香はいた。
「あっ」
そしてそこにはもう一つ人影があった。少しおびえている萌香に一歩一歩近づいていく。
しかし、俺が止めにはいるよりも早く、萌香を光のヴェールが包み込んだ。
「きゃっ……」
萌香の短い悲鳴が聞こえた。間に合わないと分かっていても全力で萌香の所まで走る。
瞬間。萌香を取り巻く光が爆発した。
そのすぐそばでは、驚いた表情を隠しきれないでいる母さんかいた。
「ま、まさか、そんな……!」
しばらく硬直していた母だったが、俺の足音に気が付いたらしく、こちらに振り返った。
「兄也! ちょうどいいわ。あなた、この子と知り合いなのよね?」
「え、あ、うん。一応」
「なら、兄也。この子と結婚しなさい」
「は?」
一瞬何を言っているのか分からなくなった。いや、よく考えてみても何を言ってるか分からない。
「別に今すぐ、と言うわけではありません。この子は見たところ小学生でしょう? しかるべき時が来るまで婚約、と言う形でいれば問題はないでしょう」
「いや、そう言う問題じゃなくて……萌香も困ってるじゃないか!!」
母さんがなんでいきなりこんな事を言い出すのか、全く理解が出来ない。
いや、そもそもの話として八歳差はおかしいだろ!?
「萌香さん、と言うのですか。それでは、萌香さんはどうなのですか?」
「え、わ、私ですか!?」
いきなり話を振られて、若干裏返った声で返事をする。
何を言って良いのか迷っている様子の萌香を尻目に、母さんが話を進める。
「とりあえずご両親に話をしたいので、家まで案内して頂けますか? ……さもなくば、今度こそ記憶を消さなければなりません。できれば私もそんなことはしたくないので」
母さんの強気な口調に、萌香が後ずさる。とてもおびえているように見える。
「あぅ……」
そして萌香が小さく呻く。流石の俺も、黙って見ていられない。
「母さん! そんなにきつく言うことないじゃないか!!」
「あ、あの兄也さん。良いんです。わ、私もその、短い間ですけど、兄也さんとの事忘れたくありませんから……。えと、こっちです」
萌香は道路の横、歩道を川の下流に向かって進み始めた。
その後ろに、母さんが続く。俺もその後を追った。
先ほどの地点から二件ほど家を飛ばし、三件目の家の表札に『佐藤』と書かれていた。萌香はそこで立ち止まった。
「……ここです」
萌香がそう言うと、母さんがインターホンを押した。
『はい、どちら様ですかー?』
マイクから若い女性の声が聞こえた。萌香のお母さんだろうか?
「どうも、小野という者ですが。失礼ですが萌香さんのお母様はいらっしゃいますか?」
『……まあ、私が母のようなものですが。何かご用ですか?』
母のようなものって、どういうことだろう?
「少し萌香さんの事でお話があるのですが、お時間よろしいでしょうか?」
『萌香の? ……少し待っていて下さい』
プツン、という短い音だけを残して、女性の声は聞こえなくなった。
そして、それからすぐに玄関のドアが開いた。
「どうぞ中へ」
中から出てきた女性に招かれ、俺も中に入った。
玄関から廊下を歩き、突き当たりのドアに入った。
中は広めのリビングになっていて、壁と同じ真っ白のテーブルがあった。三つしか椅子はなかったが、女性が別の部屋から一つ椅子を持ってきた。そして女性がお茶を持って来た後に、持ってきた椅子に自分で座った。俺たちは元々あった椅子に腰を下ろす。
「私は佐藤真奈実といいます。それで、なんのご用でしたか?」
「ああ申し遅れました。私は小野晴子です。それで萌香さんの事なのですが、実は……」
出されたお茶を一口飲んでから続きを話す。
「――萌香さんをうちで引き取らせて頂けませんか?」
「……は? い、いきなり何を」
「冗談ではなく本気です。うちの兄也がお宅の萌香さんと婚約関係になる以上、いろいろと教えることが……」
「ちょ、ちょっと待て下さい。萌香が婚約? この子はまだ小学生ですよ!?」
「ええ、ですから『婚約』ならかまいませんでしょう? 萌香さんは、私どもの自宅で預かりますが、宜しいですか?」
「大体萌香だって……」
「萌香さんなら了承して下さいましたよ。ですよね?」
「え、あ、はい」
「でも、そんなこと……」
「あとは萌香さんの保護者が許可を下されば何も問題は無いのですが」
「ちょ、ちょっと待ってて下さい! 今、主人に連絡してみますから」
「お願いします」
一礼して席を立ち、携帯電話を持って部屋を出る。少しすると話し声が聞こえてくる。
母さんがお茶を一口飲むと、静に口を動かした。
「それで萌香さん。あの方はお母様では無いのですか?」
それは俺も気になっていたことで、でもなんとなく聞きづらかった。
「えっと……私のお母さんとお父さんは、私が小さい頃に事故で亡くなっちゃって。ほとんど顔も覚えてないんですけど、それで親のいなくなった私を引き取ってくれたのがお父さんのお兄さんで……とっても優しくしてもらってるんです」
そう言う萌香の顔は、笑っているがどこか寂しそうだった。
「だから……」
萌香がその続きを言おうとした時、ガチャリとドアが開く。
「主人とは話がつきました。二人で話し合った結果……萌香の事をよろしくお願いします」
携帯を握りしめたまま、部屋の入り口で下を向いた。どうやら了承してくれたらしい。だが、はたして喜んで良いのだろうか?
「そうですか。それはありがとうございます。では、二人は先に家に帰っていてもらえますか? 私はもう少し話すことがありますから」
「……うん。わかった。いこう、萌香」
「は、はい」
席を立ち、萌香の手を取って家を出る。
同じ町内なので、十分ほどで家に着くだろう。でも、その前に少し訊いておきたいことがある。
「あ、そうだ。萌香、さっきはなんて言おうとしたの?」
「えっと、ああ……」
一瞬分からなかったようだが、すぐに理解したようで、また少しうつむいてしまった。
「あ、言いたく無いなら無理に言わないでいいから」
「いや、別に言いたくないわけじゃないんですけど……。えっと、今まで優しくしてもらったって所の続き、ですよね? その、優しくしてもらったから、あんまり迷惑をかけたくないんですよ。だから、今回の事もきっと迷惑なんじゃないかなって思って。出来れば断りたかったんですけど……」
「あ、そうか……」
そうすると、俺とのやりとりの記憶が全部なくなっちゃうんだもんな。短かったけど、萌香にとってはきっと忘れたくないことなんだろう。俺も、忘れて欲しくはない。
「だけど、その、頑張って兄也さんに尽くします! それで、立派な大人になって、お義母さんに今までの分を恩返ししたいんです!」
「……そっか」
どこまでも前向きな萌香に、俺にはそれしか言うことが出来なかった。
ヤフー氏、早速感想あざーず。今回ではあまり直っていないと思いますが、次回から気を付けていきたいと思います! ただ、作品の性質上少し難しいのが事実ですがw