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最強魔術師なのに恋だけヘタレな幼馴染が、私の縁談を潰していた件

作者: 鈴木おもち
掲載日:2026/05/07

幼馴染同士の恋愛模様。ふわっとした設定ですが、温かい目で見ていただければ幸いです!

 


 国家魔術院には、触れてはならないものが三つある。


 一つ目は、封印棟地下三階の奥に眠る、古代魔導炉。

 二つ目は、院長が若かりし頃に書き残した、決して人に見せてはならない恋文の束。

 そして三つ目は――アルトゥール・グレイシアが研究に没頭しているときの、第三研究室である。



 ***** 



「第七式、展開」


 低く静かな声が、広い研究室に落ちた。


 その声に呼応するように、床一面に刻まれた魔法陣が淡く光る。銀青色の線が蛇のように這い、円を描き、幾何学模様を重ね、まるで夜空に星図が浮かび上がるように室内を照らした。


 中心に立つ青年は、身じろぎひとつしない。


 青みを帯びた黒髪は、魔力の風にわずかに揺れている。光を受けるたび、黒の奥に深い青がにじむようで、見る者に冷たい湖面を思わせた。


 灰色の瞳は、ただ真っ直ぐ魔法陣を見下ろしている。


 感情の色はない。恐れも、迷いも、昂りもない。

 ただ、計算と制御だけがそこにある。

 

「魔力密度、基準値の三倍を超過」

「術式干渉、確認」

「空間歪曲値、許容範囲内です!」


 周囲の研究員たちが、次々と測定値を読み上げる。

 誰もが緊張していた。


 ただ一人、アルトゥールだけが静かだった。


「第八式、接続」


 彼が短く告げた瞬間、魔法陣の光が一段と強くなる。

 研究室の窓が震えた。

 棚に並ぶ試験管がかすかに鳴る。


 空気そのものが重くなり、喉の奥に金属の味が広がるようだった。

 並の魔術師なら、立っているだけで膝をつくだろう。

 だがアルトゥールは、指先ひとつ乱さない。


 その姿は、冷静沈着という言葉をそのまま人の形にしたようだった。


 国家魔術院最年少の特級魔術師。


 子爵家の三男として生まれ、後ろ盾らしい後ろ盾もなく、ただ実力だけで魔術院の中枢まで上り詰めた男。


 若くして国境結界の再構築を成し遂げ、北方の魔獣災害を単独で鎮圧し、今や王国上層部からも厚く信頼される、当代最強の魔術師。


 アルトゥール・グレイシア。


 その名を知らぬ魔術師はいない。


「……すごい」


 若い研究員が、思わず息を漏らした。

 その横で、年長の研究員が苦笑する。 


「見惚れるな。記録を取れ。あれは人間ではなく、災害指定一歩手前の天才だと思ったほうがいい」

「聞こえています」

 

 淡々とした声が返る。

 研究員たちは、ぴたりと口を閉じた。

 アルトゥールは顔色ひとつ変えずに、指先で空中に術式を書き足す。

 灰色の瞳が、ほんのわずかに細められた。


「第九式、安定化」


 光が収束する。

 暴れていた魔力が、まるで首輪をかけられた獣のようにおとなしくなる。

 青白い輝きが一度大きく脈打ち、それから、静かに中央へ沈んでいった。

 研究室に張り詰めていた緊張が、ゆっくりとほどける。


「成功、です……!」

「魔力転写率、九十七・八パーセント!」

「理論値、超えました!」


 歓声が上がった。

 魔術師たちが手を叩く。

 誰もが興奮していた。

 歴史的な実験の成功である。


 だが、その中心に立つアルトゥールは、やはり静かなままだった。


 彼はゆっくりと手を下ろし、測定器の数値を一瞥する。


「誤差が大きい。第六層の補助式に無駄がある。記録をまとめておいてください。午後に再検証します」


 冷静な声だった。

 無駄がない。隙もない。


 感情に流されない、完璧な研究者の言葉。


 若い研究員たちは、その背中を尊敬と畏怖の入り混じった目で見つめた。


 やはり違う。彼は別格だ。

 魔術に愛された男なのだ、と。


 ――その数分後。


 第三研究室の奥、資料棚と大型計算器の間に挟まるようにして置かれた小さな休憩机に、当代最強の魔術師は突っ伏していた。


「……終わった」


 低い声が、机に吸い込まれる。


 先ほどまで世界最高峰の術式を涼しい顔で制御していた男とは、到底同一人物とは思えない声だった。


「終わってないわよ。むしろ成功したでしょうが」


 呆れたような声が返る。


 休憩机の向かい側に立っていたのは、一人の女性だった。


 ミルクティーブラウンの髪を、肩の少し下でゆるくまとめている。柔らかな色合いの髪は、窓から差し込む光を含んで、ほのかに金色を帯びて見えた。


 瞳は緑。森の若葉のような、まっすぐで澄んだ色をしている。

 穏やかな顔立ちに、淡い色の魔術師服。袖口には細い銀糸で結界紋が刺繍されていた。


 リシェル・アルヴェイン。


 アルトゥールと同じ子爵家の出であり、彼のはとこにあたる。


 そして、王国内でも指折りの結界術師だった。

 指折り、という表現では足りないかもしれない。


 魔力量だけならアルトゥールには及ばない。攻撃術式の展開速度も、複合魔術の処理能力も、彼には敵わない。


 けれど結界術に限れば、リシェルは彼と肩を並べる。


 いや、研究室の面々に言わせれば、彼女のほうが上だ。


 なにせ、アルトゥール・グレイシアという規格外の魔術師が、幼い頃から現在に至るまで、何度も何度も研究で魔力を暴発させてきたのである。


 そのたびに彼を閉じ込め、守り、周囲への被害を防いできたリシェルの結界術が、並のものになるはずがなかった。


「成功はした。けど誤差が大きい。第六層の補助式に無駄がある。あんなものを王立術式学会に提出したら終わる。俺の研究者人生が終わる。魔術院の恥になる。いや、そもそも俺が魔術院にいること自体が何かの間違いだったんだ。子爵家の三男が調子に乗って特級なんて肩書きを受けたからこうなる。身の程を知るべきだった」


「長い」


 リシェルが即座に切った。

 アルトゥールは机に額を押しつけたまま、さらに沈む。


「……ごめん」

「謝るところも違う」

「存在していてごめん」

「重い」


 リシェルは深く息を吐いた。


 研究室の若い魔術師たちは、少し離れたところからその様子を見守っている。


 いつものことだった。

 外部の人間が見れば、目を疑うだろう。


 王侯貴族の前でも一切取り乱さず、災害級魔獣を前にしても眉ひとつ動かさなかったアルトゥールが、リシェルの前では机にめり込みそうなほど沈んでいる。


 だが魔術院の者たちは知っていた。

 アルトゥール・グレイシアは、外面だけなら完璧なのだ。


 内側は、驚くほど脆い。


 人見知りで、気にしすぎで、自己評価が低く、一度悪い方向に思考が転がるとなかなか戻ってこない。

 彼が表向き冷静沈着に見えるのは、単に感情を表に出す方法がわからないだけである。


 そして、そんな彼を現実に引き戻せるのは、リシェルだけだった。


「アルトゥール」


 リシェルは机に両手をつき、身を乗り出す。

 彼の青黒い髪が、机の上にぐしゃりと広がっていた。


「顔を上げなさい」

「無理」

「三秒以内」

「本当に無理」

「二秒」


 アルトゥールが、のろのろと顔を上げた。

 灰色の瞳が、死んだ魚のようになっている。


 先ほどまで魔法陣を制御していた冷たい美貌はどこへやら、今は完全に叱られる直前の子どもだった。


「今回の実験は?」

「……成功」

「誤差は?」

「想定範囲よりは大きいけど、再検証で修正可能」

「術式は?」

「第六層と第七層の接続に改善余地あり」

「つまり?」


 リシェルが、にっこりと笑う。

 笑顔なのに、目がまったく笑っていなかった。


「終わってない」


 アルトゥールは沈黙した。

 それから、小さくうなずく。


「……終わってない」

「よろしい」


 リシェルは満足そうに頷いた。

 そのやりとりを見ていた研究員の一人が、小声で呟く。


「本当に、リシェル様がいないと駄目ですね……」

「静かにしろ。本人が聞いたらまた沈む」


 別の研究員が慌てて止める。

 しかし遅かった。

 アルトゥールの肩が、ぴくりと揺れた。


「やっぱり俺は駄目なんだ……」

「はい戻ってこーい」


 リシェルは彼の額を指先で軽く弾いた。


「痛い」

「痛くしたのよ」


 アルトゥールは額を押さえる。

 その仕草は、彼が普段見せる無機質な雰囲気とはかけ離れていた。


 リシェルは小さく息を吐く。

 この人は、昔からそうだ。

 強すぎるくせに、自分の強さを自分で信じない。


 人よりも遥かに遠くまで行けるのに、足元の小石につまずくことばかり恐れている。

 幼い頃から、ずっと。


 最初に魔術を教えたのは、リシェルだった。


 子どもの頃のアルトゥールは、今よりずっと小さくて、細くて、よく俯いていた。


 親戚の集まりでは、目立たないように部屋の隅に隠れていた。話しかけられると固まり、答えられず、同年代の子どもたちに笑われた。


 リシェルはそれが気に入らなくて、よく彼の前に立った。

 いじめっ子を言い負かし、ときには本当に魔術で返り討ちにして、年長者に怒られたこともある。


 その頃、リシェルはまだ簡単な明かりの魔術しか使えなかった。

 それでも、アルトゥールはそれを見て、目を輝かせた。


『すごい』


 小さな声だった。

 でも確かに、心の底からの声だった。


『リシェル、今の、どうやったの』


 それが始まりだった。

 リシェルが教えた。アルトゥールは覚えた。

 翌日には彼女より上手くなっていた。


 三日後には応用し、一週間後には大人が使う術式を解体し始めた。


 悔しかった。だからリシェルも必死で勉強した。

 置いていかれたくなかった。隣に立っていたかった。


 気づけば二人は、魔術師の道を歩いていた。


 アルトゥールは最強と呼ばれるようになり、リシェルは結界術の第一人者になった。

 ただ、関係だけは変わらなかった。


 幼馴染。はとこ。

 互いを一番よく知る相手。

 いつだって隣にいるのが当たり前の相手。


 ――それ以上ではない。

 少なくとも、形の上では。


「そういえば」


 リシェルは、机の上に置いていた茶器に手を伸ばした。


 今日の茶は、院内食堂から借りてきた安いハーブ茶だ。上等なものではないが、研究で疲れた頭にはちょうどいい。


「昨日、また実家から手紙が来たの」


 その瞬間、アルトゥールの指先が、ぴたりと止まった。


 ほんのわずかな変化だった。

 けれどリシェルは気づかなかった。


 彼女は自分のカップに茶を注ぎながら、疲れたように続ける。


「またお見合いの話。今度は釣書まで同封されてたわ。父も母も、心配性なのはわかるけど……さすがに数が多いのよね」


 研究室の温度が、半度ほど下がった。

 測定器の針が一瞬だけ震えた。

 近くにいた研究員が、無言で顔を上げる。


 アルトゥールは動かない。

 灰色の瞳は、リシェルの手元のカップを見ている。


 見ているだけだ。表情はない。声もない。

 だが、長年彼を知る研究員たちは察した。


 ――来た。


「……見合い」


 アルトゥールが、低く呟いた。


「そう。まあ、私ももういい年頃だし、家としては当然なんでしょうけど」

「誰」


 アルトゥールの低い声に、リシェルは首を傾げる。


「え?」

「相手は」

「まだちゃんと見てないわ。どうせ今回も断るつもりだったし」


 アルトゥールのまつげが震えた。


「断る」

「たぶんね。というか、今は結界術の研究が忙しいもの。結婚どころじゃないわ」


 リシェルは何気なくそう言った。

 本当に、深い意味はなかった。


 けれどアルトゥールの中では、その言葉がぐるぐると回り始める。


 今は、結婚どころじゃない。

 つまり、いずれは。いつかは。誰かと。


「……そう」


 彼は短く答えたし、声はいつも通りだった。

 外側だけなら、完璧だった。


 リシェルは、気づかない。


「でも面倒なのよね。父も母も、なぜか私があなたと結婚すると思ってたらしくて」


 その瞬間、アルトゥールの呼吸が止まった。


「この前、母に言われたのよ。『いつアルトゥール様と正式にお話を進めるの?』って。だから、付き合ってもいないんだってばって言ったら、両親そろってすごい顔をして」


 リシェルは、少し笑った。


「『あんなに仲がいいのに?』って。おかしいわよね。仲がいいからって、そういうわけじゃないのに」


 アルトゥールは、何も言わなかった。

 ただ、静かにカップを見つめていた。

 灰色の瞳に、ほんのかすかな影が落ちる。

 リシェルはそれに気づかず、茶を一口飲んだ。


「まあ、周りから見たらそう見えるのかしら。あなたの研究室に私が出入りするのも、今さらだし」


 今さら。その言葉が、アルトゥールの胸に静かに刺さった。

 そうだ。今さらなのだ。

 リシェルが隣にいることは、あまりにも当たり前になりすぎていた。


 だからこそ、誰も疑わなかった。

 彼女が彼のそばにいること。

 彼が彼女のそばにいること。


 それは子どもの頃から続く習慣であり、幼馴染としての距離であり、家同士の付き合いであり、魔術師としての協力関係だった。


 恋人ではない。婚約者でもない。何の約束もない。

 だから、誰かが正式に手を伸ばせば、彼女は簡単に奪われる。


 正しい手順で。正しい礼儀で。

 誰にも責められない形で。


「アルトゥール?」


 リシェルが覗き込む。

 アルトゥールは、はっとしたように顔を上げた。


「何でもない」

「本当?」

「本当」


 嘘だった。盛大な嘘だった。


 その証拠に、机の端に置かれていた羽ペンが、彼の無意識の魔力に反応してふわりと浮かび上がっている。


 リシェルはそれを見て、眉を寄せた。


「何でもない人は羽ペン浮かせないのよ」


 アルトゥールは無言で羽ペンを下ろした。


「……魔力漏れ」

「知ってる」


 リシェルは呆れたように笑う。

 その笑みが、また彼の胸を締めつける。

 彼女は知らない。


 自分がどれほど長い間、この笑顔を見てきたか。

 どれほど長い間、この笑顔だけを欲しいと思ってきたか。

 どれほど長い間、言えずにいたか。


 好きだ、と。


 たったそれだけの言葉が、言えなかった。

 王城の謁見の間で国王に術式説明をすることはできる。

 魔獣の群れの前で複合殲滅魔術を組むこともできる。


 古代語で書かれた禁書の解読も、封印された魔導具の解除も、彼にとっては難しくない。


 けれどリシェルに好きだと告げることだけは、どうしてもできなかった。


 拒まれたら終わる。今の距離すら失う。

 幼馴染として笑いかけてもらえなくなる。

 それなら、何もしないほうがいい。

 隣にいられるなら、それでいい。


 そう思ってきた。思おうとしてきた。


 ただし、それは彼女が誰のものにもならないという前提があっての話だった。



 ***** 



 その日の午後。


 アルトゥール・グレイシアは、王国魔術師名簿管理部の閲覧室にいた。

 表向きの理由は、共同研究者選定のための家系魔術傾向調査。


 実際の目的は、リシェルに送られた釣書の相手を特定することだった。


「グレイシア卿、こちらが今年度提出分の縁戚候補者名簿です」

「ありがとうございます」


 管理部の職員が、緊張した面持ちで分厚い資料を差し出す。

 アルトゥールは涼しい顔で受け取った。


 表情は完璧。声も静か。

 どこからどう見ても、国の未来を案じる若き特級魔術師である。

 その内心では、恐ろしい速度で思考が回っていた。


 誰だ。どこの誰だ。

 なぜリシェルに釣書を送った。

 結界術師の価値を理解しているのか。


 彼女が研究中に茶を飲むとき、熱すぎると眉を寄せる癖を知っているのか。

 考えごとをすると髪紐を触ることを知っているのか。


 術式に集中していると返事が半拍遅れることを知っているのか。

 幼い頃、俺に最初の魔術を教えたのは彼女だと知っているのか。


 知らないだろう。なら駄目だ。


 彼は無表情のまま、資料をめくる。

 ページを繰る速度が速すぎて、職員が目を瞬かせた。


「……お探しの家名が?」

「いえ。全体傾向を確認しています」


 嘘である。全力で探している。

 やがて、彼の目が一つの名前で止まった。

 侯爵家の次男。年齢はリシェルより三つ上。


 魔術師家系ではないが、財力と政治力は十分。王宮文官としての評判もよく、最近は魔術院との共同事業にも関わり始めている。


 家格、性格、将来性。どれを取っても悪くない。

 むしろ、見合い相手としてはかなり良い。


 アルトゥールの内心が、静かに崩落した。


 終わった。これは駄目だ。

 相手がまともすぎる。粗がない。


 前回の伯爵家嫡男は、魔術師に対して無理解な発言をしていたから、それをさりげなく親族に伝えれば済んだ。


 その前の子爵家次男は、結界術を「補助魔術」と軽んじていたので論外だった。


 さらにその前の相手は、家の資金繰りに問題があった。


 そのさらに前は、魔力波長の相性が最悪だった。これは彼が三日徹夜して証明した。


 どれも、自然に、穏便に、リシェルに負担をかけずに流れた。


 だが今回は違う。

 この男には、今のところ致命的な欠点がない。


 いや、探せ。絶対にある。

 人間なのだから欠点はある。

 むしろ欠点がない人間など信用できない。


 笑顔が完璧すぎる。怪しい。

 趣味が乗馬と読書。無難すぎる。怪しい。

 好きな菓子が蜂蜜菓子。リシェルも好きだ。危険。


 アルトゥールは資料を閉じた。


「この資料、一晩お借りしても?」

「えっ、あ、はい。グレイシア卿でしたら問題ございません」

「ありがとうございます」

 

 彼は静かに一礼し、閲覧室を後にした。

 背筋は伸びている。足取りも乱れない。誰もが思っただろう。


 さすがグレイシア卿。

 今日も落ち着いている、と。



 ***** 



 その夜。


 第三研究室の机には、侯爵家次男に関する資料が山のように積まれていた。


 家系図、交友関係、職務評価、過去の発言録、魔術院への寄付実績、出席した茶会の記録、果ては乗馬大会での成績まで。


 アルトゥールは無言でそれらを読み込んでいた。

 研究員たちは、誰も近づかなかった。


 彼の背後に漂う気配が、あまりにも重かったからである。


「……グレイシア卿、これは何の調査でしょうか」


 勇気ある年長研究員が尋ねた。

 アルトゥールは資料から目を上げないまま答える。


「国益に関わる問題です」


 恋愛である。


「なるほど」


 研究員は何も聞かなかったことにした。

 魔術院には、触れてはならないものが三つある。


 そのうち一つは、アルトゥール・グレイシアの研究中の第三研究室。


 もう一つ追加するなら、リシェル・アルヴェインの縁談に関わっているときのアルトゥール・グレイシアである。



 ***** 



 数日後。


 リシェルは実家から届いた新しい手紙を前に、深いため息をついていた。


 場所は魔術院中庭の東屋だった。


 春の終わりの風が、庭木の葉を揺らしている。白い小花が咲く低木の向こうで、若い魔術師たちが談笑しながら歩いていた。


 リシェルは手紙を膝の上に広げたまま、眉間に皺を寄せる。


「……おかしいわ」


 隣に座っていたアルトゥールが、ぎくりとした。

 彼は何気ない顔で茶を飲む。


「何が」

「今までの縁談、なんだかんだで全部流れてたのよね」

「そう」

「今回も、なぜか相手方から一度延期したいって連絡が来たらしいの」

「そう」


 アルトゥールはカップを置いた。

 手は震えていない。完璧だ。


「何か知らない?」

「知らない」


 即答だった。即答すぎた。

 リシェルの緑の瞳が細くなる。


「アルトゥール」

「知らない」

「まだ何も言ってない」

「……何も知らない」


 リシェルはじっと彼を見た。

 灰色の瞳は、微妙に逸れている。


 怪しい。非常に怪しい。


 だが、彼が自分の縁談に何かする理由が思い当たらない。

 いや、思い当たらないわけではない。


 思い当たりそうになるたび、リシェルは自分でその考えを押し戻してきた。


 そんなわけがない。

 アルトゥールが、自分を恋愛的な意味で見ているはずがない。

 彼にとってリシェルは、幼馴染だ。はとこだ。


 最初に魔術を教えた相手であり、研究仲間であり、時々ネガティブの底に落ちる彼を引きずり上げる係。


 それ以上ではない。

 だって、彼は何も言わない。

 何年も、何年も、何も。


 周囲がどれだけ勝手に二人をそういう関係だと思っていても、当の本人が何も言わないのだから、違うのだ。


 きっと。


「……まあ、いいけど」


 リシェルは手紙を畳んだ。

 胸の奥に、小さな痛みが残る。

 自分でも情けないと思う。


 彼が何も言わないことに、どうしてこんなに寂しくなるのだろう。


 彼とは、ずっと一緒にいた。

 子どもの頃から、魔術院に入ってからも、今も。


 彼の一番近くにいるのは自分だと、どこかで思っていた。


 けれど、それは何の約束にもならない。

 隣にいるだけでは、隣にいる権利にはならない。


「両親がね」


 リシェルは、手紙を見下ろしたまま言った。


「今度こそ、一度会うだけでもいいからって。相手方も悪い人ではなさそうだし、いつまでも断り続けるわけにもいかないでしょうって」


 アルトゥールの指先が、膝の上で固まった。


「会うの」

「……まだ決めてないわ」


 リシェルは笑おうとした。けれど、うまく笑えなかった。


「でも、いつかは決めなきゃいけないのかもしれないわね」


 沈黙が落ちる。

 

 中庭の向こうで、誰かが笑った。


 風が吹く。

 リシェルのミルクティーブラウンの髪が、頬にかかった。


 アルトゥールは、それを見ていた。


 その髪に触れたいと思った。

 けれど、動けなかった。触れる権利がないから。


「リシェル」


 声が出た。自分でも驚くほど小さな声だった。

 リシェルが顔を上げる。


「何?」


 言え。今、言え。

 見合いに行くな。俺のそばにいてほしい。

 ずっと好きだった。誰にも渡したくない。


 言えばいい。たったそれだけだ。

 魔術式より短い。古代語の詠唱より簡単だ。


 なのに。


「……茶が冷める」


 リシェルは瞬きをした。

 それから、少しだけ笑った。


「そうね」


 彼女はカップを手に取る。

 アルトゥールは自分の愚かさに内側から崩れ落ちた。


 終わった。なぜ茶の話をした。

 馬鹿なのか。いや馬鹿だ。


 最強魔術師などという肩書きは返上したほうがいい。

 茶が冷める?冷めているのは俺の人生だ。


 その夜、アルトゥールは研究室で一人、机に突っ伏していた。


「……終わった」


 いつもの言葉だった。

 だが、今夜のそれは重さが違った。


 研究の失敗ではない。術式の誤差でもない。

 リシェルが、本当に誰かのものになるかもしれない。


 その可能性が、彼の胸の奥で黒く広がっていた。


「何が終わったのですか」


 背後から声がした。


 院長だった。

 白髪混じりの老魔術師は、杖をつきながら研究室に入ってくる。


 アルトゥールは顔を上げない。


「人生です」

「また大きく出ましたね」

 

 院長は呆れたように言い、向かいの椅子に腰を下ろした。

 彼はアルトゥールの師匠でもある。


 若い頃、ほとんど誰とも話せなかったアルトゥールを魔術院へ引き込み、その才能を伸ばした人物だった。


 当然、彼の本性もよく知っている。

 

「リシェル嬢の縁談ですか」


 アルトゥールの肩が跳ねた。


「なぜ」

「院内で知らない者のほうが少ないですよ。君がここ数日、国益という名目で何を調べているか」

「……終わった」

「それはもう聞きました」


 院長はため息をついた。


「君ね。王国最強の魔術師が、なぜ好きな女性に好きだと言えないのです」


 アルトゥールはゆっくり顔を上げた。

 灰色の瞳は、絶望に沈んでいる。


「無理です」

「なぜ」


「嫌われたら死ぬ」

「死にません」


「社会的に死ぬ」

「死にません」


「精神が死ぬ」

「それは少しありそうですが」


 院長は否定しきれず、眉を揉んだ。


「では、彼女が他の誰かと結婚してもよいのですか」


 沈黙。


 アルトゥールの顔から、血の気が引いた。


「……よくない」


 ようやく出た声は、かすれていた。


「なら言いなさい」

「でも、俺なんかが」

「出ましたね」


 院長が杖で床を軽く叩く。


「その『俺なんかが』という癖、そろそろ封印指定にしたいところです」

「事実です。リシェルは優秀で、強くて、明るくて、俺みたいな面倒な人間の世話を焼く必要なんてない。彼女にはもっとまともな相手がいる」


「君は王国最強の魔術師ですが」

「それは魔術だけです」


「魔術師同士の縁談なら十分すぎる条件でしょう」

「人格に問題がある」


「自覚はあるのですね」

「あります」


 院長は頭を抱えた。


「君の厄介なところは、自己評価が低いのに能力は高いところです」


 アルトゥールは黙った。

 院長は少しだけ声を柔らかくする。


「アルトゥール。君がどれほど彼女を大切に思っているか、周囲は皆知っています」

「本人が知らないなら意味がない」

「その通りです」


 あまりにも正論だった。

 アルトゥールは再び机に沈んだ。


「……終わった」

「だから終わらせないために言いなさい」


 院長は立ち上がる。


「明日の午後、君は王城で新型防衛結界の実演ですね」

「はい」


「リシェル嬢も補佐として参加します」

「はい」


「大きな式を扱う前に、心を乱したままにしないことです。君の場合、魔力に出ますからね」


 アルトゥールは小さくうなずいた。


 自分でもわかっている。

 魔術師の精神状態は、術式に影響する。

 彼ほど巨大な魔力を扱う者なら、なおさらだ。


「……わかっています」

「ならよろしい」


 院長は扉の前で足を止めた。


「それと、君が何も言わないまま彼女を失ったとしても、それは相手の男のせいでも、彼女のご両親のせいでもありません」


 アルトゥールが顔を上げる。

 院長は静かに言った。


「君が臆病だったせいです」


 扉が閉まる。

 研究室に、沈黙が残った。


 アルトゥールはしばらく動かなかった。

 胸の奥に、院長の言葉が突き刺さっている。


 臆病。そうだ。

 彼は臆病だった。


 リシェルを失うのが怖いと言いながら、拒絶されるのが怖くて、ずっと何もしてこなかった。


 ただ水面下で縁談を潰し、何も知らない彼女の隣に居座っていた。


 卑怯だ。

 格好悪い。

 情けない。

 最悪だ。


 それでも。


「……渡したくない」


 声に出すと、胸の奥で何かが軋んだ。

 誰にも聞かれていない研究室で、彼は両手を握りしめる。


「リシェルを、誰にも」



 ***** 



 翌日。


 王城西棟の大広間には、王国の要人たちが集まっていた。


 新型防衛結界の実演。


 国境防衛に用いられる可能性のある重要な術式であり、王族、軍部、魔術院の上層部がそろって見守っている。


 広間の中央には、巨大な魔法陣が描かれていた。

 その中心にアルトゥールが立つ。少し離れた位置に、リシェル。

 彼女の役割は、実演中の魔力圧を安定させる補助結界の展開だった。


 いつも通りの配置。いつも通りの距離。

 だが今日は、違って見えた。


 アルトゥールは、リシェルの姿を横目で見た。


 ミルクティーブラウンの髪。緑の瞳。

 白を基調にした魔術師服の袖に、銀の結界紋。


 彼女は手元の術式板を確認している。


 真剣な横顔。


 その表情を、見合い相手の男も見るのだろうか。

 彼女が術式に集中している姿を、隣で見るのだろうか。

 茶が熱すぎるときの小さな眉の動きを知るのだろうか。


 ネガティブの底に沈んだ自分を、彼女が叱る声を、もう聞けなくなるのだろうか。


 胸の奥が、冷たくなる。


「グレイシア卿、準備は」


 王城魔術官の声に、アルトゥールは顔を上げた。


「問題ありません」


 声は静かだった。


 いつも通り、完璧な外面。


 リシェルだけが、少しだけ眉を寄せた。


 何かがおかしい。彼の声が、いつもより硬い。

 呼吸が浅いし、魔力の流れが、ほんのわずかに乱れている。


「アルトゥール」


 小声で呼ぶ。

 彼は振り向かない。


「始めます」


 魔法陣が光った。

 大広間の床に描かれた銀青の線が、一斉に輝き出す。


 周囲から感嘆の声が漏れた。


 防衛結界の基礎式が展開され、空間に透明な壁が幾重にも生まれる。見えないはずの魔力の層が、光の膜となって重なり合い、広間全体を包み込んだ。


 美しい術式だった。

 緻密で、強固で、無駄がない。

 アルトゥールらしい。


 リシェルは補助結界を展開しながら、その構造を読み取る。


 やはりすごい。

 何度見ても、悔しくなるほど美しい。

 子どもの頃、自分が教えた小さな明かりの魔術から、彼はここまで来た。


 遠い。でも、隣にいる。

 その事実が、リシェルの胸を少しだけ熱くする。



 そのときだった。

 結界の第三層が、不自然に揺れた。


「……?」


 リシェルは目を細める。


 揺れは一瞬。

 けれど、次の瞬間には第五層にまで波及した。


 空間が軋み、銀青の光が、わずかに黒を帯びる。

 

「魔力圧、上昇!」

「第三層から第五層、干渉発生!」

「グレイシア卿?」


 王城魔術官たちがざわめく。アルトゥールは動かない。

 表情は冷静なままだ。だが、リシェルにはわかった。


 違う。これは冷静なのではない。

 固まっている。


 アルトゥールの内側では、思考が崩れていた。


 駄目だ。集中しろ。

 今は実演中だ。

 王族も軍部も見ている。


 失敗できない。

 失敗したら終わる。


 でもリシェルは見合いに行くかもしれない。

 いや今考えることじゃない。


 でも相手はまともだった。

 俺よりずっとまともだ。


 俺は何も言っていない。

 彼女を引き止める権利がない。


 ない。何もない。

 魔術しかない。


 その魔術すら今乱れている。

 やっぱり駄目だ。


 俺は――


「アルトゥール!」


 リシェルの声が飛んだ。


 しかし遅い。

 巨大な魔力が、制御の隙間から噴き上がった。


 大広間の光が弾ける。

 床の魔法陣に亀裂が走る。

 悲鳴が上がった。


 リシェルは考えるより先に動いていた。


 両手を広げる。

 緑の瞳が、鋭く光った。


「第一結界、展開!」


 透明な壁が、アルトゥールの周囲に生まれる。

 だが魔力圧が強すぎる。一枚では足りない。


「第二、第三、第四――重層展開!」


 彼女の足元に、淡い金色の結界紋が広がる。


 空間が鳴った。

 暴走しかけた魔力を、リシェルの結界が包み込む。


 外から見れば、それはアルトゥールを閉じ込めたように見えた。


 だが違う。彼を責めるためではない。

 彼を守るためだ。


 彼の魔力が彼自身を傷つけないように。

 彼の失敗が、彼を壊さないように。


 リシェルは、全力で結界を張った。


 「リシェル嬢、危険です!」


 誰かが叫ぶ。

 だが、リシェルは聞かなかった。


 結界の中で、アルトゥールがようやく彼女を見る。


 灰色の瞳が揺れていた。

 冷たいはずの瞳が、迷子の子どものように揺れている。


 リシェルの胸が痛んだ。


 まただ。

 この人はまた、一人でどこかへ沈もうとしている。


「全員下がってください!」


 リシェルの声が広間に響いた。

 穏やかな普段の声ではない。

 結界術師としての、強い命令だった。


「ここは私が抑えます!」


 王城魔術官たちが補助に回る。

 要人たちが避難する。


 広間の中央に、重層結界が残った。


 光の壁の中に、アルトゥール。

 その外側に、リシェル。


 彼女は結界に手を当てる。


「アルトゥール」


 彼は答えない。魔力はまだ荒れている。

 青黒い光が、彼の周囲で渦を巻いていた。


「聞こえているでしょう」


 リシェルは、低く言う。


「逃げるな」


 その言葉に、アルトゥールの瞳が震えた。


「……逃げてない」


 かすかな声。

 リシェルは怒ったように眉を上げる。


「逃げてるわよ。今、完全に自分の中に逃げてる」

「違う」

「違わない」


 結界越しに、二人は向かい合う。

 外の騒ぎが遠のいていく。

 光の壁が、世界を切り取る。

 そこにはもう、王族も軍部も魔術院もいなかった。


 ただ、幼い頃から互いを知る二人だけがいた。


「何があったの」


 リシェルの声が、少しだけ柔らかくなる。


「昨日から変よ。魔力も乱れてる。あなたが実演でこんな乱れ方するなんて、普通じゃない」

「……何でもない」

「まだそれ言う?」


 リシェルの緑の瞳が細くなる。


「何でもない人は、防衛結界を暴走させないのよ」


 アルトゥールは黙った。


 沈黙。


 それから、小さく言う。

 

「……失敗した」

「実演はまだ立て直せる」

「そうじゃない」


 声が震えた。

 リシェルは息を止める。


 アルトゥールが、そんな声を出すのは珍しい。

 いや、彼女の前では弱音を吐くことはある。


 けれど今日のそれは、いつもの研究に対する自己嫌悪とは違っていた。

 もっと深いところから、こぼれている。


「俺は、ずっと失敗してた」


 彼は顔を伏せた。

 青みがかった黒髪が、灰色の瞳に影を落とす。


「何を?」


 リシェルが問う。

 アルトゥールは答えない。


 彼の周囲の魔力が、さらに揺れる。

 リシェルは結界を強めた。


「アルトゥール」


 名前を呼ぶ。強く。

 彼を沈ませないために。


「話しなさい」


 彼は唇を噛んだ。

 長い沈黙のあと、ようやく声が落ちる。


「……君の縁談」


 リシェルの表情が変わった。


「私の?」

「今までの」


 アルトゥールは、顔を上げない。


「全部、俺が止めた」


 結界の光が、かすかに揺れた。

 リシェルは一瞬、意味がわからなかった。


「……え?」

「君に来た縁談。過去のものも、今回のものも。全部じゃないけど、ほとんど」


 彼の声は、どんどん小さくなる。


「相手の家を調べて、問題があればそれを伝えた。魔力相性が悪ければ証明した。魔術師への理解が足りない相手は遠ざけた。君に負担がかからないように、自然に流れるようにした」


 リシェルは絶句した。

 結界越しに、アルトゥールを見る。


 彼はまるで罪を告白する囚人のような顔をしていた。


「……あなたが?」

「俺が」

「私の縁談を?」

「……潰した」

「何件?」


 アルトゥールは沈黙した。


「何件」


 リシェルの声が低くなる。


「……数えてない」

「数えなさい」


「六」

「六?」


「たぶん七」

「増えたわね」


「最初の一件は、向こうが勝手に辞退したから俺のせいじゃない」


 リシェルは額に手を当てた。


 頭が痛い。

 あまりにも予想外で、怒る前に呆れが来た。


 だが次の瞬間、胸の奥に別の感情が広がる。


 縁談が不自然に流れていた理由。

 両親が首を傾げていた理由。

 相手方から急に延期や辞退が続いた理由。


 全部、この男だった。


「なんで」


 リシェルの声は、自分でも驚くほど静かだった。

 アルトゥールは肩を震わせる。


「……嫌だった」


 たった一言。

 それだけなのに、リシェルの心臓が強く鳴った。


「何が」


 わかっている。

 わかっているのに、聞いた。

 聞かなければならないと思った。


 アルトゥールは、ゆっくり顔を上げる。

 灰色の瞳が、痛々しいほど揺れていた。


「君が、誰かのものになるのが」


 リシェルは息を飲んだ。


「嫌だった」


 アルトゥールは続ける。

 もう止まれないようだった。


「ずっと嫌だった。君に縁談が来るたびに、気が狂いそうだった。でも、俺が何か言える立場じゃない。俺は君の幼馴染で、はとこで、研究仲間で、それだけだ。何の約束もしてない」


 言葉がこぼれる。


 格好悪く。

 情けなく。

 けれど、どうしようもなく本音のまま。


「君は優秀で、強くて、結界術師として誰よりすごい。俺みたいな面倒な人間に付き合う必要なんてない。もっと穏やかで、まともで、君を不安にさせない相手がいる。だから、言えなかった」

「……」

「でも、無理だった」


 アルトゥールの声が震えた。


「君が誰かと会うって考えただけで、無理だった。誰かが君の隣に立つのが嫌だった。君がその人に笑うのが嫌だった。俺の知らないところで、俺の知らない顔をするのが嫌だった」


 彼は一度、唇を引き結ぶ。

 それから、ほとんど絞り出すように言った。


「リシェルが、好きだ」


 結界の中で、魔力の渦が止まった。


 静寂。


 大広間の外の気配すら、遠くなったように感じた。


「好きなんだ」


 アルトゥールは、ひどく苦しそうに続ける。


「ずっと。子どもの頃から、たぶんずっと。君が最初に魔術を教えてくれた日から。俺をかばってくれた日から。俺が沈むたびに、名前を呼んで引きずり上げてくれるたびに」


 灰色の瞳が、リシェルを見る。

 逃げるように揺れて、それでも逸らさなかった。


「君がいないと、俺はまともに息ができない」


 リシェルの喉が震えた。

 言葉が出ない。


「でも、俺なんかじゃ」


 その瞬間、リシェルの表情が、すっと変わった。


「は?」


 低い声だった。

 アルトゥールがびくりとする。


「今、何て?」

「……俺なんかじゃ」

「そこ」


 リシェルは結界に手を当てたまま、にっこり笑った。

 笑っているのに、目が怖い。


「そこが本当に腹立つのよ」


 アルトゥールは固まった。


「リ、リシェル」


「勝手に私の縁談を潰したことも腹立つ」

「ごめん」


「私に何も言わなかったことも腹立つ」

「ごめん」


「勝手に守って、勝手に諦めて、勝手に自分を下げてることが、一番腹立つ」


 リシェルの声が震えた。

 怒りだけではない。

 ずっと溜めていた寂しさが、そこに混じっていた。


「私が、どんな気持ちでいたと思ってるの」


 アルトゥールの瞳が見開かれる。


「あなたは何も言わない。周りは勝手に、私たちをそういう関係だと思ってる。でもあなたは何も言わない。だから私は、違うんだって思うしかなかった」


 リシェルは唇を噛んだ。

 緑の瞳が潤む。

 それでも、彼女は目を逸らさない。


「あなたにとって私は、ただの幼馴染なんだって。研究で暴走したときに結界を張る係で、落ち込んだときに叱る係で、それ以上じゃないんだって」

「違う」


 アルトゥールが即座に言った。

 今度は、逃げなかった。


「違う。そんなわけない」

「だったら言いなさいよ!」


 リシェルの声が、結界の内側まで響いた。


「私はずっと、あなたがいいって思ってたわよ!」


 アルトゥールの呼吸が止まった。


「……え」

「え、じゃない!」


 リシェルは顔を赤くして怒っていた。

 泣きそうで、怒っていて、恥ずかしそうで、それでも真っ直ぐだった。


「子どもの頃からずっと一緒にいて、魔術を教えたらあっという間に追い越されて、悔しくて、でも嬉しくて、置いていかれたくなくて、必死で勉強して。あなたが暴発するたびに結界を張って、叱って、引きずり上げて。それをずっとやってきたのが、ただの親戚だからだと思ってたの?」

「……」

「私だって、あなたが誰かに取られるのは嫌だったわよ」


 リシェルの声が、小さくなる。


「でもあなた、誰にも興味なさそうだし。私にも、そういう意味では興味ないんだって思ってた」

「ある」


 アルトゥールの声は、驚くほどはっきりしていた。


「ある。ありすぎて、どうしたらいいかわからなかった」

「馬鹿」

「うん」

「本当に馬鹿」

「うん」

「最強魔術師なのに」

「恋愛は専門外で」

「専門外で済ませるな」

「ごめん」


 リシェルは深く息を吐いた。

 それから、結界に触れていた手に力を込める。


 重層結界が、少しずつほどけていく。

 暴走していた魔力は、もう落ち着いていた。


 青黒い光は消え、広間には静かな魔力の残滓だけが漂っている。

 結界が最後の一枚になる。


 その透明な壁越しに、二人は見つめ合った。


「アルトゥール」


 リシェルが言う。


「はい」


 なぜか敬語になった。

 リシェルは少し笑いそうになったが、こらえた。


「私の縁談を勝手に潰したことについては、あとで詳しく聞きます」

「はい」

「両親にも説明してもらいます」

「……はい」

「でも、その前に」


 結界が消える。

 二人を隔てていた光の壁が、空気に溶けた。


 リシェルは一歩、彼に近づく。

 アルトゥールは逃げなかった。


 逃げられなかったのかもしれない。


「もう一回、ちゃんと言って」


 リシェルの緑の瞳が、彼をまっすぐ射抜く。


「私のこと、どう思ってるの」


 アルトゥールの喉が動いた。


 顔が赤い。

 あの冷静沈着で名高い最強魔術師が、耳まで赤くしている。


 けれど今度は、視線を逸らさなかった。


「リシェルが好きだ」


 声は少し震えていた。それでも、確かだった。


「幼馴染としてじゃなくて。はとことしてでもなくて。研究仲間としてでもなくて」


 彼は息を吸う。


「俺の隣に、ずっといてほしい人として、好きだ」


 リシェルの胸が、ぎゅっと詰まった。

 長い間、聞きたくて、でも諦めようとしていた言葉だった。


 こんな場所で。王城の大広間で。

 実演を半分失敗させて。結界で閉じ込めたあとに。

 こんなに格好悪く。それでも、彼らしく。


 リシェルは、ゆっくり笑った。


「遅い」

「ごめん」


「本当に遅い」

「ごめん」


「でも」

 

 彼女は手を伸ばした。

 アルトゥールの胸元のローブを、軽く掴む。


「私も好きよ」


 アルトゥールが固まった。


 完全に固まった。

 先ほどまで暴走していた魔力も、今度は逆にぴたりと静止する。


 リシェルは首を傾げる。


「聞こえた?」

「……聞こえた」

「理解した?」

「処理に時間が」

「そこは頑張りなさい」


 アルトゥールは両手で顔を覆った。


「……無理」

「何が」

「嬉しすぎて無理」


 リシェルは、とうとう吹き出した。

 緊張と怒りと涙が、笑いに変わる。


 彼女が笑うと、アルトゥールは指の隙間から彼女を見た。

 その目があまりにも情けなくて、でも愛おしくて、リシェルは胸元を掴んだ手に少しだけ力を込める。


「無理じゃないでしょ。最強魔術師なんだから」

「それは魔術だけで」

「恋愛も努力しなさい」

「……はい」


 そのとき、大広間の端から咳払いが聞こえた。


 二人は同時に振り向く。

 避難していたはずの院長と数名の魔術官が、少し離れた場所に立っていた。


 さらにその後ろには、王族の護衛たち。軍部の将官。

 つまり、完全に無人ではなかった。


 リシェルの顔が一気に赤くなる。

 アルトゥールの顔から血の気が引いた。


「……あ」


 院長は、にこやかに言った。


「実演は、途中少々予定外の展開がありましたが、防衛結界の基礎性能とアルヴェイン嬢の緊急結界技術の有用性は十分に示されましたね」


 無理やりまとめた。さすが院長である。

 王城魔術官たちは、何とも言えない顔をしている。

 将官の一人は、感心したように頷いた。


「なるほど。特級魔術師の暴走も抑え込めるなら、実戦投入に問題はないな」


 問題は大いにある。

 リシェルはそう思ったが、口には出さなかった。

 

 アルトゥールは完全に沈黙している。

 灰色の瞳が虚無になっていた。


 このまま放っておくと、また机に沈む。

 ここに机はないので、床に沈むかもしれない。


 リシェルは素早く彼の袖を掴んだ。


「戻ってこい」


 小声で言う。

 アルトゥールはかすかにうなずいた。


「……終わった」

「終わってない」

「社会的に終わった」

「終わってない。むしろ始まったのよ」


 その言葉に、アルトゥールがゆっくり彼女を見る。


 リシェルは少し恥ずかしそうに、でもしっかりと言った。


「私たちのこと」


 アルトゥールの顔が、また赤くなった。



 ***** 



 実演の正式な報告書には、こう記録された。


 新型防衛結界は、制御上の課題を残しつつも高い防御性能を示した。


 特に緊急時における多層結界の有効性は顕著であり、リシェル・アルヴェインの補助結界技術は王国防衛計画において極めて重要である。


 アルトゥール・グレイシアについては、術式改善の余地あり。


 精神状態の安定が今後の課題。


 最後の一文を書いたのは、おそらく院長だった。



 ***** 



 その日の夕方。


 魔術院へ戻った二人は、第三研究室の休憩机に向かい合って座っていた。

 研究員たちは、全員とても不自然に席を外している。


 誰も言わないが、全員が気を遣った結果だった。


 窓の外は夕暮れで、空が淡い橙色に染まっている。


 机の上には、冷めかけたハーブ茶。


 いつもの場所。いつもの二人。

 けれど、もう同じではない。


「それで」


 リシェルは腕を組んだ。


「説明してもらいましょうか」


 アルトゥールは背筋を伸ばした。

 まるで審問を受ける罪人である。


「はい」

「私の縁談を潰した件」

「はい」

「六件? 七件?」

「……七件です」

「増えた」

「最初の一件も、俺が相手方の魔術師軽視発言を親族経由で流しました」

「完全にあなたじゃない」

「はい」


 リシェルは額を押さえた。


「有能なのが腹立つわね……」

「ごめん」

「謝罪は受け取るけど、反省は?」

「してる」

「本当に?」

「してる。次からは、勝手に潰さず、先にリシェルに相談する」


 リシェルは目を細める。


「次?」


 アルトゥールは固まった。


「次の縁談が来たら、という仮定で」

「来ると思ってるの?」

「……来る可能性は」

「私、あなたに好きって言ったわよね」

「言った」

「あなたも言ったわよね」

「言った」

「じゃあ次にすることは?」


 アルトゥールは真剣に考え込んだ。

 考え込んでしまった。


 リシェルは嫌な予感がした。


「……結婚?」

「順番をすっ飛ばすな」


 即座に叱った。

 アルトゥールは肩を落とす。


「違うのか」

「違うわよ。普通、まずはお付き合いでしょう」

「お付き合い」


 彼はその言葉を、まるで初めて見る古代語のように繰り返した。


「恋人、ということ?」

「そう」

「俺とリシェルが?」

「そう」

「……本当に?」


 リシェルはじっと彼を見る。


「本当に」


 アルトゥールは黙った。

 その顔が、じわじわと赤くなる。


「処理が」

「頑張って」

「リシェルが、俺の恋人」

「そうよ」

「……無理」

「また?」

「嬉しすぎて」


 リシェルはため息をついた。

 だが、その口元は緩んでいた。


 昔から、彼はこうだ。

 魔術ならば誰よりも遠くへ行けるのに、感情のことになると途端に足元が危うくなる。


 でも、それでいいと思った。

 完璧ではない彼を、自分はずっと見てきた。


 弱くて、面倒で、すぐ沈んで、けれど魔術には誰より真っ直ぐで。

 そして、自分を誰にも渡したくないと、あんなに格好悪く告白した彼を。


「アルトゥール」


 リシェルは、机越しに手を伸ばした。


 彼の手の甲に、そっと触れる。

 アルトゥールが息を止める。

 

「今度からは、ちゃんと言って」


 灰色の瞳が、彼女を見る。


「不安になったら、不安だって。嫌なら、嫌だって。私にどうしてほしいのか、ちゃんと言って」

「……言っていいのか」

「言わないとわからないわ」

「リシェルでも?」

「私でも」


 アルトゥールは、彼女の手を見下ろした。

 小さく、指先を動かす。

 触れ返していいのか迷うような仕草だった。


 リシェルは少し笑って、自分から彼の手を握る。


「ほら」


 アルトゥールの肩から、力が抜けた。


「……リシェル」

「何?」

「好きだ」


 あまりにも突然だった。リシェルの顔が熱くなる。


「なっ……今?」

「ちゃんと言えって」

「言ったけど、頻度を考えなさい」

「難しい」

「努力して」

「する」


 彼は真面目にうなずいた。


 その真面目さがおかしくて、リシェルは笑った。

 アルトゥールも、ほんの少しだけ笑う。


 外の人間なら見逃してしまうほどの、小さな変化。


 けれどリシェルにはわかった。

 彼が心から安心したときの表情だった。


 そこへ、扉が軽く叩かれた。

 

「入っても?」


 院長の声だった。


 リシェルは慌てて手を離そうとしたが、アルトゥールが反射的に握り返した。


 彼自身も驚いた顔をする。リシェルも驚いた。

 そして、少しだけ嬉しくなった。

 

「どうぞ」


 リシェルが答える。


 院長が入ってきて、二人の手を見た。

 にこやかな笑みが深まる。

 

「おや、ようやくですか」


 リシェルは赤くなり、アルトゥールは固まった。


「院長」

「いや、めでたい。魔術院七不思議の一つが解決しましたね」

「七不思議?」

「『なぜあの二人はまだ付き合っていないのか』です」


 リシェルは顔を覆いたくなった。

 そんなものが七不思議になっていたとは知らなかった。


 アルトゥールは低く呟く。


「……終わった」

「始まったところでしょう」 


 院長は楽しそうに言う。 


「それで、アルヴェイン家への説明はいつにしますか?」


 アルトゥールの顔が、再び白くなる。

 リシェルは横目で彼を見た。


「もちろん、近いうちに行くわよね?」

「……行く」

「私の両親に、何を言うの?」


 アルトゥールはしばらく沈黙した。

 それから、震える声で言った。


「リシェルさんと、お付き合いさせていただいています」

「そこからね」

「将来的には、結婚を前提に」


 リシェルは咳き込んだ。

 院長が笑いをこらえる。


「順番!」

「でも、見合いを止めるには婚約まで進めたほうが確実で」

「またそうやって効率で考える!」

「違う。効率もあるけど、俺がしたい」


 不意打ちだった。リシェルは言葉を失う。

 アルトゥールは真っ赤になりながらも、目を逸らさない。


「いつか、じゃなくて。できるなら、ちゃんと約束したい」


 夕暮れの光が、彼の青みがかった黒髪を照らしている。


 灰色の瞳はまだ不安げだった。

 けれどその奥に、確かな意志があった。


「もう、勝手に守るだけじゃなくて」


 彼は、握った手に少しだけ力を込める。


「君の隣にいる権利がほしい」


 リシェルの胸の奥が、ゆっくりと温かくなった。


 この人は、本当に不器用だ。

 臆病で、ネガティブで、すぐ自分を下げる。

 けれど一度決めたら、きっと逃げない。

 逃げそうになっても、自分が引き戻せばいい。


 昔から、そうしてきたのだから。


「……それなら」

 

 リシェルは、小さく笑った。


「ちゃんと順番を守って、ちゃんと私に相談して、ちゃんと私の両親に頭を下げて」

「うん」

「それから、ちゃんと私を口説いて」

 

 アルトゥールが固まる。

 

「口説く」

「そう」

「どうやって」

「自分で考えなさい」

「……研究する」

「変な論文は読むな」


 院長が肩を震わせて笑っている。

 リシェルは恥ずかしくなって、わざと咳払いをした。


「まあ、今のは少しよかったわ」


 アルトゥールが目を見開く。


「本当に?」

「本当に」

「記録してもいい?」

「駄目」


 彼は少し残念そうにした。

 リシェルは呆れながらも、手は離さなかった。



 ***** 



 それから数日後。


 アルヴェイン家の応接室で、アルトゥール・グレイシアはリシェルの両親を前に座っていた。


 背筋は伸びている。表情は静か。

 見た目だけなら、王国最強の魔術師らしい堂々とした姿だった。


 しかし膝の上の手は、わずかに強く握られている。

 隣に座るリシェルだけが、それに気づいていた。


「つまり」


 リシェルの父が、ゆっくりと言う。


「アルトゥール卿は、以前から娘を想ってくださっていたと」

「はい」

「だが、何も言わず」

「はい」

「娘に来た縁談を、水面下でいくつも潰していた」

「……はい」



 沈黙。


 リシェルの母が、扇で口元を隠した。


 肩が震えている。


 怒っているのかと思ったが、どうやら笑いをこらえているらしい。


「あなた」


 母が父に小声で言う。


「だから言ったでしょう。あの二人は絶対にそうだって」

「いや、しかし、付き合ってもいないとリシェルが言うから」

「本人たちが気付くのが遅すぎただけですわ」


 リシェルは顔を赤くした。


「お母様」


 父は深く息を吐く。

 それから、アルトゥールを見た。

 

「正直に申し上げると、我が家としては、あなたなら何の不足もありません」

 

 アルトゥールが目を伏せる。


「……ありがとうございます」

「ただし」


 父の声が少し低くなった。


「娘に何も告げず、勝手に縁談を潰したことは褒められません」

「はい」

「今後、娘に関わることは、娘本人の意思を第一に考えること」

「はい」

「不安があるなら、勝手に裏で動く前に、娘と話し合うこと」

「はい」

「そして、娘を泣かせないこと」


 アルトゥールは、一度だけリシェルを見た。

 リシェルも彼を見る。


 緑の瞳が、静かに笑っていた。

 彼は深く頭を下げる。


「誓います」


 その声は、震えていなかった。



 ***** 



 帰り道。


 夕暮れの街を、二人は並んで歩いていた。

 石畳の道に、二人分の影が長く伸びている。


 リシェルは少し前を歩き、アルトゥールは半歩後ろにいる。


 昔からの距離。でも、今日は少し違う。

 リシェルは立ち止まり、振り向いた。


「アルトゥール」

「何」

「半歩後ろ禁止」


 彼は目を瞬かせる。


「隣」


 リシェルがそう言うと、アルトゥールは少し戸惑ったあと、彼女の隣に並んだ。


 肩が触れそうで触れない距離。

 リシェルは自分から手を伸ばした。

 彼の指先に触れると、アルトゥールが息を止めた。


「手」

「……いいのか」

「恋人でしょう」


 その言葉だけで、彼はまた処理落ちしそうになった。

 けれど今度は踏みとどまった。


 おそるおそる、リシェルの手を握る。


 大きな手だった。

 魔術式を書く指。

 膨大な魔力を操る手。


 けれど、今は驚くほど慎重に、彼女の手を包んでいる。


「……リシェル」

「何?」

「好きだ」


 リシェルは足を止めかけた。

 また突然だ。けれど、今度は怒らなかった。


 夕暮れの光の中で、彼女は小さく笑う。

 

「私も」 


 アルトゥールの指に力がこもった。


 強すぎず、弱すぎず。

 彼女を確かめるように。


「……終わらなかった」


 彼が小さく呟く。

 リシェルは横を見る。


「何が?」

「人生」


 リシェルは呆れて、それから笑った。


「大げさ」

「本気だった」

「知ってる」


 彼は本気で沈む。本気で怯える。

 本気で彼女を好きでいる。


 その全部を、リシェルは知っている。


 だから彼女は、握った手を少し引いた。


「でも、もう一人で終わったって言わないで」


 アルトゥールが彼女を見る。


「終わりそうになったら、私が結界を張るから」


 緑の瞳が、まっすぐ彼を見ていた。


「あなたが勝手に沈まないように。勝手に諦めないように。ちゃんと、私のところに戻ってこられるように」


 アルトゥールの灰色の瞳が、柔らかく揺れる。

 そして、彼はほんの少しだけ笑った。


「それは、すごく強い結界だ」

「当然でしょう」


 リシェルは胸を張る。


「私は結界術の第一人者だもの」


 アルトゥールは、その言葉に静かに頷いた。


「うん。知ってる」


 その声があまりにも優しくて、リシェルは少しだけ照れた。


 二人は再び歩き出す。

 夕暮れの街に、鐘の音が響いていた。


 幼馴染として過ごした長い時間。言えなかった想い。

 勝手に守って、勝手に諦めようとして、ようやくぶつかった不器用な告白。


 それらすべてを抱えたまま、二人の影は並んで伸びていく。

 


 王国最強の魔術師、アルトゥール・グレイシア。


 彼は国境結界を張り替え、魔獣災害を鎮め、王国の上層部から頼られる一流の魔術師である。


 けれど彼にとって最も難しかった魔術は、古代術式の解読でも、災害級魔力の制御でもなかった。


 ただ一人の幼馴染に、好きだと告げること。


 そしてその手を、逃げずに握ること。


 


 その日、最強魔術師はようやく、自分の魔術よりもずっと難しいものに成功した。


 リシェル・アルヴェインという、世界で一番強い結界の内側で。



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