ジャッカルにて
飛鳥が「ジャッカル」に迎え入れられてから、数日が経過した。
宗光との死闘で枯渇しかけていたリヒトの魔力は、数日間の休息を経て完全に底を打つことはなくなり、かつての輝きを取り戻していた。体内に巡る魔力の奔流を確かめながら、リヒトは地下へと続く重い石扉に手をかける。向かう先は、飛鳥の待つ修練場だ。
彼が飛鳥を組織に引き入れたのには、単なる情けではない明確な理由があった。
その最たるものが、彼女が携える「玄武の刀」の存在だ。
その刀は、所有者の魔力を際限なく喰らう代償として、肉体の限界を強制的に引き上げる「呪い」にも似た特性を持つ。義洞の直系である彼女がそれを平然と持ち歩けているという事実。それは飛鳥が、自分でも制御しきれないほどの「膨大すぎる魔力」を秘めていることの証左であり、同時にその扱いを教わる機会さえなかったという未熟さの表れでもあった。
リヒトはそれを見抜いていた。
当面の課題は、玄武に魔力を吸われながらも、身体強化に振り回されず戦える土台を作ること。だが、その先にある真の目的は、彼女の内に眠る膨大な魔力を、彼女自身の意思で操る術を叩き込むことにある。
リヒト「……まあ、ジャッカルには規格外の魔力バカもいれば、魔力に頼らずとも人間をやめている連中もいる。どうにでもなるだろう」
そんな、ある種投げやりで楽観的な目算を胸に、リヒトは修練場へと足を踏み入れた。
修練場は、四方三十メートルほどの無機質な空間だ。
一面を覆う無骨な石畳には、メーガスが精緻に組み上げた「金剛刻印」の魔法が幾重にも施されている。ギークやジャックが日夜「手合わせ」と称した殺し合い紛いの殴り合いを演じても、表面に傷一つつかないほどの強固さを誇る場所だ。もっとも、彼らが戦場で振るうような真の力を解放すれば一溜まりもないだろうが、幸いにして彼らはこの場所を壊さない程度の分別――あるいは「壊すとメーガスの説教が長い」という恐怖――を持ち合わせていた。
その殺風景な空間の中央。
石畳の上に凛とした姿で正座し、目を閉じて瞑想に耽る少女がいた。
飛鳥「呼び出しておきながら……遅かったわね」
目を開けることなく、飛鳥が静かに声を響かせる。その傍らには、彼女の魔力を静かに、しかし確実に蝕み続ける玄武の刀が置かれている。
リヒト「ああ……悪いな」
リヒトは特に悪びれる様子もなく、どこか気だるげな謝罪を口にしながら、コツコツとブーツの音を鳴らして彼女の前へと歩み寄った。
リヒトは、数歩先で立ち止まると、感情の読めない瞳で彼女を射抜いた。
リヒト「今のお前の実力を見てやろう」
その淡々とした、しかし有無を言わせぬ響きを含んだ言葉に、飛鳥は思わず呆れたような溜息を吐いた。
飛鳥「正気? 私の実力で……あなたと、たとえ稽古であっても打ち合えるわけがないでしょう。自殺志願者じゃないのよ、私は」
飛鳥の反論はもっともだった。
弍科の型をすべて履修し、剣技においては卓越している自負はある。だが、魔力を自在に操る術を知らず、玄武による身体強化のみを頼りとする今の彼女では、リヒトという「怪物」には掠りもしない。何より、先日の戦いで彼らが見せた、人の理を軽々と踏み越えた「破壊」を目の当たりにしたばかりだ。飛鳥にとって、リヒトと対峙することは修行ではなく、ただの処刑に等しかった。
リヒトは鼻で笑い、肩をすくめる。
リヒト「だろうな。だから――別の人間を用意している。来い、ジャック!」
ジャック「はーい! 呼びました、リヒトさん!」
その明るすぎる声と同時に、修練場へ弾むように入ってきたのはジャックだった。その無邪気な様子を一瞥した飛鳥は、少しだけ緊張を解き、納得したように頷く。
飛鳥「なるほど……。あなた以外なら、確かに多少は『稽古』になりそうね」
ジャック「?? よくわからないけど、僕は飛鳥さんと手合わせをすればいいんですか??」
首を傾げるジャックに、リヒトは冷徹な命令を下した。
リヒト「そうだ。手加減はいらん、本気でやって構わない」
ジャック「なるほど、了解です! 剣士の方と手合わせできる機会なんて滅多にないですからね。飛鳥さん、よろしくお願いします!」
ジャックはすべてを理解したのかは怪しいところだったが、その瞳には純粋な戦意と好奇心がみなぎっていた。彼は飛鳥の正面に立つと、スポーツの試合でも始めるかのように元気よく一礼した。
それを受けた飛鳥も、静かに正座を解き、ゆっくりと立ち上がる。
傍らに置かれた薄橙の刀――「玄武」を手に取り、腰に差した。鞘に収まった状態でも、その刀が周囲の魔力を貪欲に喰らい、彼女の血管を激しく脈動させるのが分かる。
飛鳥は一歩足を踏み出し、ジャックと向き直った。その眼差しからは先程までの呆れは消え、鋭い「剣士」の光が宿っていた。
ジャック「じゃあ……いきます!」
その宣言は、予備動作すら感じさせないほど唐突だった。
踏み込んだジャックの姿が、飛鳥の視界からかき消える。地面に這いつくばるような、獣じみた低い体勢からの超高速突進。
しかし、飛鳥は動じない。
飛鳥「……そこっ!」
研ぎ澄まされた直感で弾丸のような一撃を紙一重で回避。続く追撃の打ち込みも、流れるような身のこなしで難なくいなしてみせる。
それを受けたジャックは、一瞬だけ不思議そうに首を傾げたが、すぐにその口角を吊り上げた。
ジャック「へぇ、今のを避けるんだ。面白い!」
ジャックは「ニヤリ」と少年のように笑うと、今度は独特のステップ――不規則なリズムで重心を揺らす、掴みどころのない歩法で間合いを詰めた。
空気を切り裂く鋭い拳が数度、飛鳥を襲う。一発一発が、まともに喰らえば骨ごと砕かれかねない質量を秘めていた。
飛鳥「くっ……!」
飛鳥は抜刀した「玄武」の峰を盾にし、ジャックの硬質な拳を滑らせるようにいなしながら後退する。
だが、距離が取れない。
退こうとした先には、すでにジャックの影が滑り込んでいる。獲物を追い詰める捕食者のような粘り強い間合い管理に、飛鳥はジリジリと壁際へと追い詰められていった。
ジャック「うーん。リヒトさん! これ、いつまで付き合えばいいんですかね?」
拳による猛烈なラッシュを継続しながら、ジャックはあろうことかリヒトの方を振り返った。戦いの最中だというのに、その声には一切の息切れもなく、隠しきれない「退屈さ」さえ混じっている。
リヒト「ジャック、俺はさっきなんと言った?」
修練場の端で腕を組むリヒトが、氷のように冷たい声を投げ返す。
ジャック「! ……そうでした。『本気で』、でしたね!」
その瞬間、ジャックの纏う空気が、文字通り「変質」した。
無邪気な子供同士の遊びをしていたような気配が霧散し、戦場を蹂躙する殺戮者のプレッシャーが修練場を支配する。
ジャック「体が温まったので、もう少し威力を上げます。――死なないように、気をつけてくださいね!」
親切心のつもりだろうか、短い忠告を挟むジャック。だがその瞳に宿る光は、すでに目の前の相手を「人間」としてではなく、「壊すべき標的」として捉えていた。
飛鳥(冗談じゃない……! さっきの連撃ですら、私の知る達人たちの域を遥かに超えていた。ここから、まだ上がるというの!?)
飛鳥は肺に冷たい空気を送り込み、呼吸を整える。
玄武の刀が、呼応するように彼女の魔力を激しく吸い上げ始めた。血管を焼くような熱い感覚――限界まで引き上げられた身体強化の感覚を全身に巡らせ、飛鳥は迫り来る「嵐」に備えて、ただ一点に神経を研ぎ澄ませた。
トーン、トーン、トーン……。
ジャックはその場で軽やかに跳躍を開始した。まるで重力など存在しないかのように、何度も、何度も、一定のリズムで。しかし、その着地のたびに石畳が微かに震え、彼の中に膨大なエネルギーが蓄積されていくのがわかる。
ジャック「飛鳥さんからも打ち込んできてください! そうでなければ、稽古の意味がないでしょ!」
跳躍の予備動作を崩さぬまま、ジャックが不敵な笑みで挑発を投げかける。
攻勢に回るのはジャックからだと、無意識に身を固めていた飛鳥の思考が一瞬遅れた。しかし、戦士としての本能がすぐに上書きされる。挑発に乗るのではない。この隙を逃せば、次に来る嵐に呑み込まれるだけだ。
飛鳥は「静」の姿勢から、一気に爆発的な「動」へと転じた。
飛鳥「――参式・牙突!!」
地を裂くような踏み込み。玄武による身体強化が、彼女を文字通りの弾丸へと変える。最短距離を貫く渾身の一突きは、空気を鋭く切り裂き、ジャックの胸元を捉えた。
手応えはある。取れる――そう確信した飛鳥の突きだったが、ジャックは空中で微かに身を捩り、信じられない角度でその一撃を紙一重で回避してみせた。
飛鳥(かわされた!? なら……!)
突きが空を切ったことを認識した瞬間、飛鳥は思考を止めて肉体に任せた。突進の慣性を殺すことなく、瞬時に重心をスライドさせ、次なる技へと強引に繋げる。
飛鳥「伍式――!!」
流れるような連続攻撃の態勢。その淀みのなさに、修練場の端で見ていたリヒトの目が細められた。
リヒト(……あの突進の体勢から、一切の淀みなく技を切り替えたか。型の繋ぎ、その練度に関しては金光以上か……?)
リヒトは冷静に分析していた。飛鳥が持つ「剣士」としての天賦の才。それは単なる筋力の向上ではなく、身体の理を極限まで理解しているがゆえの美しさだった。
この予想外の鋭い「切り替え」には、余裕を見せていたジャックも目を見開く。流石にこの速度で剣筋が変わるとは思っていなかったのか、彼はわずかに体勢を崩し、たじろぐように後方へ下がった。
飛鳥「そこっ!」
その絶好の隙を、飛鳥が見逃すはずもない。
剣術の基本に忠実でありながら、死角から吸い込まれるように放たれた喉元への刺突。それは稽古の域を完全に超え、相手の命を断つための一撃だった。
ジャック「!?」
脳を直接揺さぶるような死の予感。
ジャックの生存本能が火を吹いた。彼は反射的に上半身を極限まで反らし、回避と同時にバネのように全身を躍動させる。
後方宙返り。その回転の勢いをすべて乗せた全力の蹴りが、飛鳥の「玄武」を真下から跳ね上げた。
――ガギィィィン!!
修練場に激しい金属音が響き渡り、飛鳥の手首に痺れるような衝撃が走る。
飛鳥「嘘でしょ……!?」
一本取った、そう確信した瞬間の出来事だった。完璧な機を捉えたはずの攻撃を、野生動物のような超反応で凌がれただけでなく、反撃の威力で刀を弾き返された。
目の前に着地したジャックは、冷や汗を拭いながらも、その瞳をいっそうギラつかせている。
ジャック「今のはとてもいい! ギークさんとやり合ってる時のようなヒリつきを感じました!」
ジャックは子供のように瞳を輝かせ、純粋な賛辞を飛鳥に送る。
だが、その間も独特のリズムを刻む跳躍は止まることがない。トーン、トーン、と石畳を叩く音は、次第に耳鳴りのように飛鳥の意識を圧迫していく。
そして、何度目かの着地の瞬間。
ジャックの姿が、唐突に現実から切り離されるように消失した。
飛鳥「目を離してなかったのに……っ!」
武人の嗜みとして、戦闘中に敵から視線を外すことなど万に一つもありえない。
瞬きすら惜しみ、その動向を注視していた。それにもかかわらず、ジャックという存在そのものが、光の屈折に紛れるようにして彼女の視界から完全に消え去ったのだ。
ジャック「それっ!」
直後、思考を上書きするほどの激痛が走った。
飛鳥の鳩尾に、ジャックの小さな拳が深く沈み込む。
「が……はっ!?」
肺の中の酸素がすべて強制的に吐き出され、飛鳥の華奢な体は木の葉のように宙を舞った。凄まじい衝撃を伴って修練場の壁へと叩きつけられ、無機質な石壁に蜘蛛の巣状の巨大な亀裂を刻みながら、力なく床へと崩れ落ちる。
直後、メーガスの施した刻印魔法が淡い光を放ち、壁の亀裂は何事もなかったかのように滑らかに修繕されていった。そのあまりに無機質な光景が、この場で行われている行為の異常さを際立たせる。
飛鳥「……かっ……はっ……はっ……あ……」
喉が焼けるように熱い。体内に酸素を取り込もうとしても、痙攣した肺がそれを拒絶する。視界が激しく点滅し、世界がぐるぐると歪んで見えた。
だが、そんな苦悶のさなかでも、冷徹な影が彼女の前に立ちはだかる。
ジャック「……おしまい?」
無邪気さと残酷さが同居したその問いかけは、飛鳥に敗北を悟らせるには十分すぎる響きを持っていた。
飛鳥は震える腕で床を突き、必死にジャックを睨みつける。しかし、焦点は定まらず、悔し涙が滲んで視界をさらに曇らせる。
弍科の剣術所作は、兄たちよりも綺麗だ、上だ、と周囲から称賛されてきた。自分でもそう信じていた。だが、本当の意味での「実戦」においては、型など何の意味も持たなかった。
かつて兄たちが自分に向けて吐き捨てた「弱い」という言葉。その真意が、冷たい鉄のような重みを持って今さら心に突き刺さる。
(私……は……まだ……っ!!)
不甲斐なさ。情けなさ。そして自分自身へのやり場のない憤怒。
腸が煮えくり返るような熱い感情が、飛鳥の中で渦を巻き、叫びとなって喉元までせり上がった。
リヒト「そこまでだ」
その激昂を切り裂くように、リヒトの静かな声が修練場に響き渡った。
リヒト「ジャック、メーガスを呼んでこい。もう一つ、試しておかねばならないことがある」
ジャック「えっ? これからが本当の『本気』だって言うのに……」
ジャックは、お気に入りのおもちゃを取り上げられた子供のように、露骨に残念そうな顔をして肩を落とした。彼にしてみれば、ようやく体が温まり、本気の打ち込みで「遊び」が「戦闘」へと昇華し始めた矢先の制止だ。消化不良もいいところだろう。
リヒト「いいから行け。メーガスを呼んで、お前もすぐに戻ってこい。俺の考えが正しければ、稽古はまだ終わらん」
ジャック「えっ!? 本当ですか!? ――それなら話は別です。すぐに連れてきますね!」
リヒトの言葉を聞いた途端、ジャックは年相応の無邪気な笑顔を弾けさせ、弾丸のような速さで修練場を飛び出していった。
静寂が戻った室内には、いまだに呼吸を正常に戻せない飛鳥の、苦しげな喘ぎ声だけが虚しく響いている。
リヒト「実戦経験は、どの程度だ?」
壁に背を預けたまま、リヒトが不意に問いかけた。
しかし、飛鳥は鳩尾を駆け抜ける鈍痛と、拭いきれない敗北の悔しさから声を出すことができない。ただ俯いたまま、力なく首を左右に振るのが精一杯だった。
リヒト「なるほど。技の形ができているなら、足りないのは純粋な『経験』の差か。……実戦経験のない者に『玄武』を預けるとはな。まったく。義洞は相当にお前を大事にしていたと見える」
リヒトは呆れを含んだ溜息とともに独り言ちた。
飛鳥には、その言葉の真意が分からない。「大事にされていた」という言葉が、今の自分にはあまりに皮肉に聞こえたからだ。
飛鳥「……っ……ぅ……」
リヒト「まあ、ないのならここで積めばいいだけの話だ。死ぬ気でな。――とにかく今は、呼吸を整えることに集中しろ。肺だけじゃない。体内の血管、毛細血管の一つひとつに至るまで意識を巡らせ、強引にでも酸素を送り込め」
感情の起伏を感じさせない、淡々とした、しかし的確な助言。
リヒトは再び壁に寄りかかり、興味なさげに視線を逸らした。
飛鳥はその言葉に従い、石畳の上に横たわったまま、必死に己の内側へと意識を向けた。玄武に吸われ、細くなった魔力の回路。そこに酸素を流し込み、千切れそうな意識を繋ぎ止める。
今の彼女にできるのは、次に訪れるさらなる過酷な「試練」に備え、傷ついた体を無理やり再起動させることだけだった。




