義洞家訪問3
音は、消失した。
あるいは、宗光の踏み込みが音速の壁を突き破り、鼓膜がその衝撃に追いつけなかったのかもしれない。
先ほどまで宗光が立っていた場所には、ただ砕けた石畳の破片が舞っているだけだった。動いた形跡も、空気の揺らぎすらもない。
リヒトが「認識」の壁を越えた時には、すでに視界のすべてを宗光の刀身が埋め尽くしていた。
リヒト「なっ……!?」
反射的に上体を仰け反らせる。冷たい死の感触が鼻先を掠めた。かろうじて致命を避けたものの、頬から目の下にかけて細い朱線が走り、鮮血が舞う。だが、その傷は超回復の蒸気によって、零れ落ちた血が地に届くよりも早く、跡形もなく塞がった。
しかし、宗光はリヒトに呼吸の間すら与えない。
宗光「参式……牙突!」
――ドゴオォォォンッ!!!
それはもはや、剣術が発する音ではなかった。大口径の砲弾が空気を爆破させたかのような轟音がリヒトの鼓膜を震わせる。リヒトの耳元を通り抜けた一撃の余波は、背後にある屋敷の防壁を巨大な円状に抉り飛ばし、瓦礫の雨を降らせた。
宗光「肆式……八咫烏!」
逃げ場を塞ぐ死の檻。
視界の両端から、まるで巨大な翼が打ち下ろされるような左右の薙ぎ払い。そして同時に、天から断罪の如く振り下ろされる縦一閃。三方向からの同時攻撃。
物理法則を無視したその速度。リヒトの超感覚をもってしても、三方向すべての迎撃は不可能だった。二つの斬撃がリヒトの肩と脇腹を深く引き裂き、肉を断つ不快な感触がリヒトの脳を刺激した。
リヒト「ぐっ……!」
リヒトは魔力を爆発させ、弾かれるように後方へ跳躍した。
距離を置くその数瞬の間にも、彼の肉体からは激しい蒸気が立ち昇り、斬り裂かれた傷口がみるみると修復されていく。
宗光「伍式……」
宗光に油断はない。距離を空けたリヒトを追うのではなく、彼はあえてその場で刀を正面に正眼に構えた。
周囲の喧騒が嘘のように引き、二人の間に凍てつくような静寂が流れる。
どちらが先に、次の一歩を踏み出すのか。極限の緊張が、夜の空気そのものを固形化させたかのようだった。
宗光「――流桜!」
仕掛けたのは宗光だった。
上段からの凄まじい振り下ろし。リヒトがそれを防いだ瞬間、宗光の身体は独楽のように回転し、円運動の遠心力を乗せた横一閃が放たれる。突き、斬り上げ、返しの刃。それはまるで、激流に舞う桜の花弁のように、淀みなく流麗に繋がっていく。
リヒト「今更……この程度っ!」
先ほどの神速の連技に比べれば、一つ一つの速度はリヒトにとって「捉えられる」領域だった。
だが、宗光の猛攻は終わらない。一心不乱に、機械のような正確さで基礎動作を繋げ続ける。
リヒト「くっ……しつこい……!」
リヒトの眉間に皺が寄る。
終わらない。宗光の刀が、止まらないのだ。
それどころか、一撃を重ねるごとに、その速度と重さが幾何級数的に増大していく。
弐科伍式・流桜。
その本質は、単なる連続攻撃ではない。刀を振るうために最適化された筋力と持久力、そして心肺を極限まで酷使する特殊な呼吸法。それらすべてを「基礎動作の反復」という円環の中に閉じ込めることで、技の繋ぎ目――すなわち「隙」を完全に消失させる究極の持続技。
技が続けば続くほど、身体から余計な力が抜け、加速した刀身には凄まじい遠心力と自重が加算されていく。
宗光「ふぅぅぅーーっ!!」
宗光が鋭く呼気を吐き出し、瞬時に肺を満たす。
その逡巡の合間さえ、刀の円環は途切れない。リヒトが反撃の糸口を探そうとするたび、より重く、より速くなった刃がその企みを叩き潰す。
リヒト「ちっ! めんどくさいっ!」
リヒトの足元の石畳が、受け流すたびに放射状に割れていく。
背後の屋敷の壁には、宗光の刀から放たれる剣圧だけで無数の切り傷が刻まれ始めていた。
リヒトの意識は、視認を越えた反射の領域に達していた。膨大な魔力を反射神経へとバイパスし、辛うじてその円環に対応している。だが、そこまでの対応を強いている宗光という男の執念こそが、異常であった。
そして、限界は唐突に訪れた。
増大し続けた流桜の衝撃に、ついにリヒトの「魔成剣」が耐えきれず、激しい火花と共に虚空へと弾き飛ばされたのだ。
リヒト「なにっ……!?」
宗光「はああぁぁぁ~~~っ!!」
宗光はこの瞬間を逃さなかった。
円環の頂点。これまでで最大、最強の加速を乗せた一撃が、無防備となったリヒトの脳天を割るべく振り下ろされた。
必勝。誰もがそう確信した。宗光の刃が、リヒトの存在を頭頂から両断する――。
――ドズゥゥゥゥンッ!!!!
庭園が震えた。
しかし、その手応えは「肉」のものではなかった。
宗光の渾身の一撃は、空気を爆砕して石畳を粉々に粉砕し、その余波だけで庭に面した縁側を跡形もなく破壊した。
宗光「……!?」
砂埃の中、宗光の眼が見開かれる。
確実な間合い。確実なタイミング。
しかし、その刃の下に、リヒトの姿は影さえ残っていなかった。
〜〜〜
宗光「どこに……消えた……」
切っ先を震わせることなく、宗光は極限の集中を維持していた。
己が全霊を懸けた流桜の一撃を空振らされ、あまつさえ標的を完全に見失う。武人として、あるいは弐科の当主代行として、これほどの屈辱と戦慄はない。しかし、ここで取り乱せば死が待っている。
遠くから見守る弟と妹に、その背中は依然として不動の巨岩の如き威厳を放っていた。
沈黙。夜風に揺れる葉音すらも、今の宗光には爆音のように響く。
永遠とも思える数秒が過ぎた、その時。
――ザザ……。
宗光「そこかッ!?」
庭の隅、茂みがわずかに揺れた。
刹那、宗光の身体は「舜動法」によって弾丸と化し、コンマ数秒でその地点へと肉薄する。横一閃。空気を切り裂く鋭い風切り音が響くが、手応えはない。切り裂かれた茂みの先で、背後の石壁が凄まじい風圧により粉々に砕け散った。
リヒト「もらった!」
声は、背後から。
勝利を確信したリヒトの冷徹な宣告が、宗光の項を撫でる。
宗光「……っ!?」
驚愕に目を見開きながらも、宗光は本能的に防御の型を取りつつ振り返る。だが、そこには既に「魔成剣」の軌道が描かれていた。
物理法則を無視して現れたリヒトの横一閃。回避はもはや不可能。
――ドシュッ!!
鋭い斬撃が宗光の腹部を深く捉え、鮮烈な赤が夜の闇にぶち撒けられた。
宗光「ぐぅっ……!?」
苦悶の呻き。宗光は意識が遠のくほどの衝撃に耐え、反撃の一太刀を振るう。しかし、力なきその一撃はリヒトを数メートル後退させるに留まった。
リヒト「……さすがに、勝負はついたと思うが?」
余裕を湛えたリヒトの声が、静まり返った庭園に響く。
宗光「はぁ……はぁ……っ……。この私が……ここまでの、傷を……」
膝が折れそうになるのを、気力だけで繋ぎ止める。腹部の傷からは絶え間なく血が溢れ、立っていることさえ奇跡に近い。だが、宗光の瞳に宿る炎は消えていなかった。その切っ先は、依然としてリヒトを射抜いている。
宗光「……私はまだ、終わってなどいない」
宗光の体内から、再び重苦しい魔力が漏れ出す。リヒトはそれを止めようとはしなかった。戦士として、この男の「最後」を見届ける義務があると感じたからだ。
リヒト「まだ……何かあるのか?」
宗光「……ふっ……。私は……まだ……負けてないッ!!!」
咆哮。
宗光「緋扇――二連閃!!」
死力を尽くした居合術が、不可視の衝撃波となってリヒトを襲う。
リヒト「まじかよッ!?」
リヒトは咄嗟に距離を取りながら剣を交差させた。だが、その威力は想像を絶していた。これほどの深手を負いながら、なぜこれほどまでの出力が出せるのか。
――ズガアァァァンッ!!!
居合とは思えぬ爆鳴と共に、弐科の屋敷の一部が瓦礫の山へと変わった。
リヒト「さすがに弐科の現当主代行だ。今のが最高の一撃だったな。……だが、もう終わりにしよう」
リヒトは二本の魔成剣を強く握り直し、ゆっくりと歩み寄る。
宗光「よかろう……。ならば……。次の一手で叶わねば、我が敗北を認めよう。……受けきって、みせよ……!!」
リヒト「いいだろう、付き合ってやる。だが、それで最後だ」
宗光「義洞の名にかけて……!」
誓いとともに、宗光の身体から溢れ出した魔力は、もはや物理的な圧力を伴う「奔流」へと変貌していた。
深手を負った腹部から流れる鮮血が、自身の練り上げた魔力と混じり合い、宗光の周囲を薄紅色の霧となって包み込んでいく。蜃気楼のように揺らめく空間の中心で、宗光の存在は一際大きく、神々しくさえ見えた。
リヒト(……なんという密度だ。命そのものを魔力に変換していやがるのか……!)
リヒトは本能的な戦慄を覚え、即座にもう一本の魔成剣を錬成した。二振りの剣を十字に構え、体内の膨大な魔力を防御へと一点集中させる。
静寂
ししおどしの音が止まり、風が止み、世界から音が消えた。
宗光「弐科……奥伝……紅桜・蕾・咲初……!」
刹那
世界が、紅く染まった。
リヒト「……っ!?」
油断はなかった。むしろ、これまでの中で最大級の警戒を払っていた。
だが、宗光の一閃はリヒトの「認識」そのものを置き去りにした。
リヒトが気づいた時には、すでに胸元に一本の細い紅い線が刻まれていた。魔力の壁を紙のように切り裂き、リヒトの頑強な肉体に届いたその一撃。すぐに塞がる程度の浅い傷ではあるが、それはこれから始まる「死の舞踏」の、ほんの序章に過ぎなかった。
宗光「五分……七分咲き……!」
一閃を皮切りに、空間そのものが「刃」と化した。
宗光の姿はもはや視認できない。リヒトの周囲、あらゆる角度から目に見えぬほどの超高速斬撃が、逃げ場を許さぬ檻となって襲いかかる。
キィィィィィィンッ! と、空気が悲鳴を上げるような高音が連続し、リヒトの身体に次々と浅い傷が刻まれていく。
不思議なことに、飛び散ったリヒトの血は地面に落ちることはなかった。それらは宗光の魔力の渦に巻き込まれ、空中で静止し、まるで開花を待つ桜の「蕾」のようにリヒトを取り囲んでいく。
リヒト「くっ……これは……回避は無意味か……!」
当初、リヒトは魔力を感知に回し、最小限の動きで回避を試みた。しかし、あまりにも多すぎる手数、あまりに速すぎる斬撃。自身の反応速度を遥かに凌駕する「数」の暴力。
無駄と判断したリヒトは、即座に魔力を防御、そして「肉体の硬化」に全て注ぎ込んだ。
宗光「満開……桜花、爛漫!!!」
宗光の咆哮が響き渡る。
瞬間、リヒトを囲んでいた無数の血の蕾が一斉に爆ぜた。
幻覚ではない。リヒトの視界は、空を埋め尽くすほどの「桜の花びら」で埋め尽くされた。
だが、その一枚一枚が、触れれば肉を削ぎ落とす鋭利な魔力の刃。
全方位、全角度、死角など存在しない絶対的な攻撃。吹雪のように舞い踊る紅い刃が、リヒトの体表を、外套を、髪を、慈悲なく切り裂いていく。
リヒト「……ッ、がぁぁぁッ!!」
声にならない悲鳴が漏れる。
視界さえも遮るほどの密度の魔力。超回復が追いつかないほどの速度で、新しい傷が古い傷を上書きしていく。
リヒトを包み込むのは、美しくも残酷な、紅い嵐。
その嵐の中心で、リヒトはただ奥歯を噛み締め、嵐が過ぎ去るのを耐え忍ぶしかなかった。宗光の魔力操作はもはや神の域に達し、敵の返り血さえも自らの武器へと変えるその技巧に、リヒトは強烈な圧迫感を覚えていた。
そして、無限とも思える「狂い咲き」の時間が、不意に静止した。
猛吹雪が晴れるかのように、リヒトの周囲の幻影が霧散していく。
宗光は、リヒトに背を向け、静かに刀を鞘へと戻そうとしていた。
極限まで高まった緊張が、一点に集束する。
宗光「残心解放……【花の散るらむ】」
――チィン。
硬質な、どこか悲しげな音が夜の空気に響いた。
それは、世界を止めていた結界が解かれた合図。
リヒト「が、は……っ!?」
次の瞬間、リヒトの全身に刻まれていた数千の傷口から、蓄積されていたダメージが一気に爆発した。
ドッ、と噴き出した鮮血が、リヒトを中心として円を描くように空へと舞い上がる。
それはまさに、満開を過ぎた桜が、一陣の風によって一斉に散りゆく様そのものであった。
リヒトが、その血の華に隠れて見えなくなる。
宗光「がはっ……、ぜぇ……はぁ……」
全てを出し切った宗光は、杖代わりの鞘を突き、その場に崩れ落ちそうになるのを辛うじて支えていた。
顔面は蒼白。呼吸は乱れ、体内の魔力は一滴残らず枯渇している。
だが、その瞳には「やり遂げた」という確信が宿っていた。
この奥義をまともに喰らって、立ち続けられる者など、この大陸には存在しない。
宗光「さすがの……化け物……も……。これで……果てよう……な……」
舞い散る血の花びらが、ゆっくりと地面に降り積もる。
宗光は、自らの剣技が到達した「完璧な終焉」を、勝利の確信とともに見届けようとしていた。
〜〜〜
舞い散る血の花びらが石畳を赤く染め、静寂が庭園を支配した。
膝から崩れ落ちたリヒトの巨躯を見届けた瞬間、宗光の身体を支えていた最後の一糸がぷつりと切れた。視界が急速に狭まり、暗転する意識。崩れゆくその身体を、温かな何かが受け止めた。
飛鳥「……さすがでございます。宗光兄様」
耳元に届いたのは、妹・飛鳥の震える声だった。
宗光は薄く目を開け、焦点の定まらない瞳を彼女に向けた。
宗光「飛鳥……か……。私の……ぐふっ、戦い……を。その……眼に……焼き……ぐっ、付けた……か……?」
言葉を発するたびに肺の隙間から血が漏れ、呼吸は喘鳴となって漏れる。蒼白な顔面を自身の鮮血が汚し、次期当主の威厳は今や悲壮なまでの痛々しさへと変わっていた。
飛鳥「もちろんです。……すべて、しかと見届けました。今はもう、お話しにならぬよう。……すぐに手当てをします」
飛鳥は必死に涙を堪え、かろうじて折れずに残っていた庭木の根元に宗光を座らせた。震える手で薬を取り出し、宗光の深い傷口に布を当てる。
数分後。止血を終え、考え得る限りの応急処置を施した頃、静寂の中に宗光の掠れた声が響いた。
宗光「……すまぬな。飛鳥……」
その言葉は、これまでの峻厳な兄としてのそれではなく、一人の人間としての、どこか寂しげな響きを帯びていた。
飛鳥は驚き、処置の手を止めて小さく首を振った。
飛鳥「何を、言われるのですか。……義洞の誇りは、兄上が守り抜いたのです。この程度の手当てなど、妹として……えっ!?」
飛鳥の言葉は、衝撃と共に中断された。
宗光が残された最後の力を振り絞り、飛鳥の身体を横へと強く突き飛ばしたのだ。
飛鳥「きゃあっ!」
無様に転がった飛鳥が顔を上げた、その瞬間。
つい先ほどまで彼女の頭があった場所――庭木の幹に、一本の剣が深々と突き刺さっていた。
月光を浴びて淡く輝く、半透明の刃。
それは、見間違えるはずもない。この死闘の間、幾度となく宗光の命を狙い、最後には【紅桜】によって砕け散ったはずの
――リヒトの「魔成剣」であった。
背筋を凍りつかせるような静寂が、再び場を支配する。
刺さった剣が意味するもの。それは、死神の鎌がまだ収められていないという、あまりにも非情な現実。
宗光「……私の……負け……ということか……」
宗光が自嘲気味に、絶望を込めて呟いた。
その視線の先。
血の霧が晴れた庭園の中央に、その男は立っていた。
全身の至るところから血を流し、外套は襤褸のように裂けている。だが、リヒトは倒れてなどいなかった。
それどころか、傷口からは依然として膨大な魔力が蒸気となって立ち昇り、数千の斬撃を刻まれたはずの肉体を、今この瞬間も驚異的な速度で繋ぎ直していたのだ。
リヒトは無造作に歩みを進める。
一歩。また一歩。
その足取りは重く、しかし揺るぎない。
魔力の残滓を纏いながら、リヒトは突き刺さった魔成剣の傍らまで辿り着くと、それを引き抜くこともなく、ただ静かに宗光を見下ろした。
決着であった。
すべてを出し切り、奥義の果てに辿り着いた宗光と、そのすべてを喰らい尽くしてなお立ち上がった「人外」のリヒト。
庭園に横たわる瓦礫と静寂が、義洞の敗北を無慈悲に告げていた。
庭園を埋め尽くした紅い魔力の残滓が、夜風にさらわれて虚空へと溶けていく。
死闘の果ての静寂。その中心で、リヒトは庭木の元にかろうじて座っている宗光を見下ろしていた。
リヒト「約束通り、お前たちの『力』を貰い受ける。……だが、俺が連れて行くのは、その娘一人だ」
その宣告に、飛鳥の肩が大きく跳ねた。
金光「リヒト! 飛鳥は……飛鳥だけは、この屋敷に残すべきだ!」
事態を見守っていた金光が、痛みに顔を歪めながら叫ぶ。
金光「弍科の剣も満足に振るえねえ、魔力なしのガキなんだ! 外の世界に出れば、三日と持たねえ。死なせたいのか!」
「魔力なし」「死なせたいのか」。その言葉が、飛鳥の中で張り詰めていた何かを叩き切った。
飛鳥「……勝手なことばかり言わないでください!!」
静寂を切り裂く飛鳥の絶叫に、金光も、そして宗光さえもが目を見開いた。
飛鳥「ずっと……ずっとそうやって、私を『無能』だと決めつけて! 私がどれだけ型の稽古をしても、一度だって見てくれなかったではないですか! 私にだけ魔力がないのが、そんなに、そんなに義洞の恥だったのでしょうか!? 私だって、兄上達と同じくらい義洞の姓をもつ娘なのです!」
溢れ出した涙が頬を伝い、地面を赤く濡らす。
飛鳥「死ねと言われれば、ここで死んでみせます! でも、お兄様たちの『お荷物』として扱われるのだけは、もう嫌……!」
宗光は痛ましげに、しかしどこか慈しむような眼差しで妹を見つめた。
宗光「……飛鳥。貴様は、この狭い義洞の庭では咲けぬ花だったのだ」
飛鳥「兄上……?」
宗光「行け、飛鳥。……そして、二度とこの門を潜るな。貴様が、貴様自身の答えを見つけるまで……義洞の名は、私が預かっておく」
宗光は、飛鳥の腰にある玄武の刀を見つめた。
宗光(強すぎる『朱雀』の魔力がお前を焼き尽くさぬよう、その玄武で封じてから十余年……。お前を『無能』と呼び続けたのは、戦場から遠ざけ、平穏な一生を過ごさせるための私の欺瞞だった。だが……)
宗光は、リヒトを見上げた。この男なら、あるいは。
宗光「金光、もうよい。……リヒトよ…。我が愚妹を好きにするがいい」
飛鳥は兄の瞳の奥に宿る「絶望的なまでの不器用な愛」を、初めて肌で感じ取った。自分を「弱い」と呼び続けたのは、決して蔑みではなく、自分を自分の中に眠る「何か」から遠ざけるための、唯一の手段だったのではないか。
飛鳥は涙を拭い、リヒトの差し出した手を強く、壊れそうなほど強く握り返し、弍科の屋敷を後にした。
弍科の屋敷を離れ、夜の街道を歩く二人。
静寂の中、飛鳥は耐えきれず、前を行くリヒトの背中に問いを投げかけた。
飛鳥「……なぜ、私を選んだのですか。兄上たちの方が、よほど戦力になったはずです」
リヒトは足を止めず、淡々と答える。
リヒト「お前が持っているその『玄武』。それはお前の魔力を喰らい、純粋な身体能力へと変換する鎖だ。兄たちは、お前にその鎖を一生外させないつもりだったんだろうな」
飛鳥「……! 私に、魔力がないわけでは……?」
リヒト「逆だ。お前の魔力は、今のままではお前自身を焼き殺すほどに強すぎる。だからその刀で封じられているにすぎん。……俺がお前を選んだのは、その鎖がついた状態でお前を『最強』にするためだ」
リヒトがようやく振り返り、飛鳥を射抜くような目で見据えた。
リヒト「玄武の鎖がついたまま、並の魔導剣士を圧倒できるほどに剣を研げ。そうすれば、将来的に封印が解け、『朱雀』を扱えるようになった時……お前は誰にも届かない場所に立つことになる」
飛鳥は息を呑んだ。兄たちが自分を隠そうとした理由。そして、この男が自分を連れ出した理由。すべてが一本の線で繋がった。
飛鳥「……これから、私は何をさせられるのですか」
リヒト「特に決めてはいない。任務があれば同行させるし、なければ死ぬ気で稽古をしろ」
飛鳥「それだけ……ですか?」
リヒト「それだけだ。……ただ一つ、命令がある。強くなれ。……それ以外、俺は何も求めない」
シンプルで、しかし残酷なまでの要求。飛鳥はその言葉を噛み締め、深く頷いた。
深夜。拠点の地下へと続く階段を下りながら、飛鳥は腰の刀をそっと握りしめた。
ルシウス「お帰り、リヒト。……かわいい子を連れてきたね。……君の名前を聞いてもいいかな?」
酒場の奥。
仲間たちが集まる中、ルシウスが穏やかに問いかけた。
飛鳥は、義洞という家柄も、守られていた過去も、ここに来るまでの道中で捨てる決意を固めていた。
飛鳥「……弍科です。義洞の名はあの屋敷に置いてきました」
ルシウス「弍科?剣術の名前じゃないのかい?」
飛鳥「ええ。確かにそうです。私には義洞のせいがありました。ですがこれからは、弍科飛鳥。それが、私の名前です」
メーガス「……ふぅん。弍科飛鳥、ね」
立ち上がったメーガスが、飛鳥の刀をじっと見つめる。
メーガス「……いい覚悟ね。でも、その刀……。まるで、大きな怪物の口を無理やり塞いでいるような、嫌に不気味な静寂を感じるわ。……ま、楽しみにしておくわよ」
リヒト「飛鳥。明日からは、その刀の重さを本当の意味で知ることになる。……寝坊するなよ」
リヒトは不敵に笑い、奥へと消えていった。
飛鳥――弍科飛鳥は、自分の掌を強く握りしめた。




