嗜虐の剣聖 ー真紅のヴェルロザリアー
地下深く、その圧倒的な存在感で存在する塔を見上げ、リヒトは足を止めた。
見上げる先が地上のどこまで続いているのか、その巨大な質量は、地下にいるという事実さえ忘れさせるほどの威圧感を放っている。
塔へと至る大扉の前は、石畳が整然と敷き詰められた広大な空間になっていた。
遮るものは何もない。もし見張りがいれば、こちらが広場に足を踏み入れた瞬間に見つかるだろう。しかし、そこには人の気配どころか、風の音さえなかった。
リヒト(罠……あるいは……)
脳裏に、先行したノウスや零遺衆の面々の顔が浮かぶ。彼らがすでに見張りを片付けた後なのか。その可能性はあったが、あまりにも静かすぎた。死臭も、争った痕跡すらも見当たらない。
リヒトは低く身を構え、影に溶け込むように慎重な足取りで広場を横切る。
たどり着いた大扉に、そっと掌を這わせた。
冷たく硬質な感触を通して、リヒトは己の魔力を流し込み、内部の構造を「視る」
リヒト(思いの外、単純な構造か……)
伝わってきたのは、拍子抜けするほどがらんとした空間だった。
今いる地下の広いスペース、そして地上へと繋がるであろう吹き抜け。そこから上へと続く螺旋階段が、まるで塔の背骨のように一本伸びているだけだ。
だが、その遥か上方。
意識を集中させたリヒトの感覚に、心臓を直接掴まれるような衝撃が走る。
結界を維持するための核。そこから発せられる魔力は、もはや一つの生命体のように不気味なほど強く、濃密に脈動していた。
リヒト(中に入らないことには何もわからない……か……)
これ以上の探査は無意味だと判断し、リヒトは扉の把手に両手をかけた。
ぐっと足を踏ん張り、渾身の力を込める。
ズズ……、と。
巨大な扉がその重さに相応しい、腹の底に響くような音を立てて動き出した。
長い間、誰も踏み入ることがなかったのか。扉が動くたびに、古びた石の粉が舞い、暗い室内の空気がゆっくりと押し出されていく。
重い扉が開ききった先で、リヒトの視界に飛び込んできたのは、言葉を失うような光景だった。
リヒト「……っ!?」
足元から広間の奥まで、足の踏み場もないほどに「それら」は転がっていた。
戦場を渡り歩いてきたリヒトにとって、死体は見慣れたものだ。だが、目の前の光景はそのどれとも異質だった。
リヒトは慎重に歩みを進め、手近な骸の傍らに膝をつく。
外傷はない。首を撥ねられた跡も、刃で貫かれた痕跡もなかった。それどころか、死に顔には苦悶の色さえ浮かんでおらず、まるですべてを奪われた後の虚脱感だけが張り付いている。
さらに異常なのは、横たわる者たちが軍人ではないということだ。身なりからして、近隣の村人や町人――戦いとは無縁の一般人ばかりだった。
リヒト(魔力を……完全に抜き取られているのか?)
死体はどれも、極度の魔力欠乏に陥った際の共通点を示していた。肌は枯れ木のように乾燥し、生命の根源たる輝きが微塵も残っていない。
リヒト「……結界維持に……これだけの『生贄』が必要だったのか……?」
あまりの非道に、抑えきれない呟きが唇からこぼれ落ちる。
だが、その独り言に、返ってくるはずのない「声」が重なった。
???「あら。こんなところまで……だれ……?」
冷ややかな、大人びた色気を含んだ女性の声。
それと同時に、広間の空気が一変した。肌を焼くような濃密な殺意と、物理的な重圧を伴うプレッシャーが、螺旋階段の陰からリヒトへと急速に迫りくる。
リヒト「……っ」
即座にフードを深く被り直し、鼻先まで装束で覆う。
リヒトは心音さえも殺す勢いで、自身の気配を周囲の影へと完全に溶け込ませた。
だが。
スパーーーーン!!!!
空気を裂く鋭い破砕音が響き、リヒトが直前までいた床に深い斬痕が刻まれる。
反射的に横へ跳躍して回避したものの、着地のわずかな揺らぎを、声の主の瞳が逃さず捉えていた。
???「……見つけた」
影の中から現れたその女の瞳には、慈悲などひとかけらも宿っていなかった。
そこにいたのは、騎士の正装を崩して纏い、独特の気怠さを漂わせた女だった。
ドルネ・アシュリー
帝国が誇る「剣聖」の三位に列せられるその女が、なぜこの死臭漂う地下の塔にいるのか。
ドルネ「最近、この塔へネズミが多く入り込んでいるというから、私が直接見にきたらこれ。嫌になるわね」
心底退屈そうにため息をつき、ドルネは首を左右に鳴らしながらリヒトへ向き直る。
その仕草一つ一つに、強者特有の余裕が滲んでいた。
対するリヒトは、一言も発しない。
瞳の奥で周囲の地形、敵の歩幅、そしてこの異常な殺気の本質を冷徹に分析し、情報収集に徹していた。
ドルネ「ねぇ、あなた。悪いようにはしないからこちらにきなさい」
湿り気を帯びた、独特の色気を孕んだ声が広間に響く。それは柔らかな誘惑のようでありながら、逆らえば即座に死を招くという宣告でもあった。
だが、リヒトの意思は微塵も揺るがない。
リヒト「……それを聞いて『はい、わかりました』とはならないな。この死体たちを見れば尚更だ」
ドルネ「つれないわね……。残念」
短く吐き捨てた瞬間、ドルネの姿が掻き消えた。
驚異的な身体能力。爆発的な踏み込みとともにリヒトとの距離をゼロにし、その手にはいつの間にか、美しくも禍々しい細剣【ヴェルロザリア】が握られていた。
鋭い刺突が空気を引き裂く。
リヒトは紙一重でその一撃をかわし、距離を取るべく後方へ跳躍を繰り返す。しかし、ドルネは影のように地面を滑り、どこまでも執拗に間合いを詰めてくる。
ドルネ「私、追いかけるのはあまり好きじゃないの」
逃がさない。そう告げるかのように、ドルネのしなやかな指先が、跳躍しようとしたリヒトの装衣の裾を強引に掴み取った。
信じがたい膂力。
女性のものとは思えない剛腕が、空中にいたリヒトの体を力任せに引き寄せる。
リヒト「!?」
無理やり至近距離まで引きずり戻されたリヒト。
鼻先が触れんばかりの距離で、ドルネはリヒトの顔をまじまじと見つめ、艶然と微笑んだ。
ドルネ「ふぅん……いい男ね……」
だが、その称賛は死の予兆でしかなかった。
刹那、リヒトの視界が激しく反転する。
ドルネはリヒトの襟首を掴んだまま、まるで羽毛でも扱うかのように、彼を塔の堅牢な石壁に向かって思い切り叩きつけた。
ドンッ!!!という凄まじい衝撃音が、死体たちの沈黙を破って響き渡る。
背中に走る激痛を堪え、リヒトは壁を蹴って体勢を立て直す。
リヒト(ちっ……よりによって剣聖か……)
つい先日も剣聖と矛を交えたばかりだ。本来なら、誰にも気づかれずに潜入し、仲間を救出して即座に撤退する手はずだった。
それが、よりによって真っ先に剣聖という最悪の障害に突き当たるとは。
出し抜こうにも、剣聖の五感は常人の域を遥かに超えている。一瞬の隙さえ見せてもらえない。
ドルネ「私を前にして、考え事……? ずいぶん余裕を見せてくれるじゃない」
いまいち乗り切ってこないリヒトの態度が気に食わないのか、ドルネは挑発的な笑みを浮かべ、細剣【ヴェルロザリア】の切っ先を弄ぶ。
リヒト「……争う気はないからな」
ドルネ「なら……なんでこんなところに……いるのかしらね!」
問答無用。ドルネの言葉と同時に、細剣が閃光となってリヒトを襲う。
スパァン!!と乾いた衝撃音が響くたび、リヒトが避けた後の石床や壁には深い斬痕が刻まれ、蜘蛛の巣状の亀裂が走る。
細剣という軽量な武器に魔力を纏わせているとはいえ、これほどの破壊力を叩き出すのは尋常ではない。
リヒト「……化け物だな」
ドルネ「失礼ね……淑女と呼んでほしいものね」
踊るような優雅な所作。しかし、その中身は苛烈な暴力そのものだ。
ドルネは刺突の合間に、予備動作のない鋭い蹴りや掌打を織り交ぜてくる。その変幻自在な連撃に、リヒトの反応はわずかずつ、だが確実に遅れ始めていた。
リヒト(……地下で体力を使いすぎたか……? 身体の感覚が、変だ……)
手足が鉛のように重い。思考の霧が濃くなり、空間の遠近感が狂うような感覚。単なる疲労ではない。この塔を満たす「魔力を吸い取る空気」が、じわじわとリヒトの根源を侵食しているのか。
ドルネ「ふふふ。どうしたのかしら?」
ドルネは余裕の表情を崩さない。
獲物を追い詰める悦びに瞳を細め、間断なく攻撃を叩き込みながら、着実にリヒトの急所へと迫っていく。
ドルネ「その程度の足取りじゃ、すぐに動けなくなっちゃうわよ?」
リヒト「ちっ……!」
リヒトは苦し紛れに鋭い回し蹴りを放ち、ドルネがわずかに怯んだ隙を見逃さず、一気に後方へと跳躍して距離を取った。
荒くなる呼吸を整えながら、リヒトの脳内では高速で思考が組み上げられていく。
この塔には、侵入者の生命力とも言える魔力を、呼吸の一息ごとに削り取っていく微弱な「剥離機構」が働いている。だが、それならば目の前の剣聖も条件は同じはずだ。
これほど激しく魔力を纏った剣技を繰り出していれば、常人ならとっくに膝をついているはず。しかし、ドルネに衰えの色は見えず、むしろ戦うほどにその肌は艶を増しているようにさえ見えた。
自分は削られ、相手は変わらない。
いや、変わらないのではない。彼女は「満たされて」いるのだ。
リヒト「……お前、魔力供給を受けているのか……?」
魔力供給
本来、それは術者が対象に直接触れ、精緻なコントロールの下で行われる高度な医療魔術の一種だ。物質や、ましてやこの淀んだ空気から供給を受けるなど、既存の魔導学ではあり得ないはずだった。
ドルネ「ふふっ……。勘がいいのね」
ドルネは不敵に唇を吊り上げた。その肯定とも否定とも取れる微笑が、リヒトの仮説が核心を突いていることを物語っている。
彼女はこの塔そのもの、あるいはあの無数の死体から吸い上げられた魔力を、自らの力へと変換して取り込んでいるのではないか…
ドルネ「でも、残念。答えは…教えてあげない!」
ドルネは細剣【ヴェルロザリア】を正眼に構え直すと、先ほどを凌ぐ速度でリヒトの懐へと肉薄する。
ドルネの振るう剣速は、もはや常人の動体視力で追える領域を遥かに凌駕していた。
リヒトは魔力による極限の身体強化と、染み付いた生存本能による全自動回避を駆使し、紙一重のところで致命傷を免れ続けている。
本来ならば、自らの切り札である『魔成剣』を引き抜き、その圧倒的な出力でねじ伏せることも可能だろう。
だが、この塔内ではそれが命取りになる。膨大な魔力を放出すれば、この空間の機構に根こそぎ喰らわれ、自らを急速に弱体化させる結末しか見えない。
リヒト(厄介だ……。何か、状況を変える一手があれば……)
回避の合間に、リヒトは高速で思考を回す。
直径40メートルほどの広大な地下広場。足元に広がる、物言わぬ夥しい数の骸。天へと続く螺旋階段。そして、背後に残された巨大な扉。
どれほど計算を重ねても、この場での勝利という解は導き出せない。
ノウスを救い出す。その目的を果たすためには、ここで自分が果てるわけにはいかないのだ。
リヒト(一度退くしかないか。この魔力吸収への対策を立て直さなければ……)
だが、目の前にいるのは帝国最強の一角、剣聖。
力技で強引に突破し、この包囲網を抜けるにはあまりにも分が悪い。
その時だった。
乱舞する細剣の切っ先を掠めるように避けたリヒトの視界の端に、奇妙な違和感が走る。
床に転がる無数の骸――その一部が一瞬、淡く、だが確かな意志を持つかのように「光った」のだ。
それはほんの一瞬の出来事だった。
リヒトの角度からしか見えず、攻勢を強めるドルネには死角となっている位置。
リヒト(……今のは? ……まさか…)
その光は、絶望的な戦況に投げ込まれた唯一の「不確定要素」だった。
罠か、あるいは死者たちが遺した最期の抗いか。
いずれにせよ、現状を打破する鍵はあの光の中にしかないと、リヒトの直感が告げていた。
リヒト「仕方ない……」
ポツリと、諦念とも決意とも取れる言葉がリヒトの唇からこぼれ落ちた。
その瞬間、広間の空気が鳴動する。
圧倒的なまでの魔力がリヒトの体内から溢れ出し、彼を包み込む。それは物理的な重圧となって周囲の瓦礫を弾き飛ばし、リヒトの身体強化を強制的に一段階引き上げた。
ドルネ「あら。そんなことして大丈夫?」
ドルネの声には、まだ余裕の色が混じっている。
現に、過剰なまでの魔力を纏ったリヒトの周囲からは、微弱ではあるが、常に塔の機構によって魔力が吸い取られ続けている。
それはまるで、自らの命を削りながら戦っているに等しかった。
リヒト「問題ない。この程度の魔力なら、くれてやればいい」
覚悟を決めたリヒトの瞳に、迷いはなかった。
さらに己の右手に魔力を集中させ、光とともに『魔成剣』を錬成してみせる。以前、宗一郎との戦いで使った中剣ではなく、彼が平時より使い慣れている、取り回しの良い短めの剣だ。
ドルネ「ふぅん……。死んでも知らないわよ?」
ドルネの纏う雰囲気が、微かに、だが決定的に変質した。
今までは自身の方が圧倒的に優位であると確信していたため、どこか舐めきった態度をとっていた。だが、彼女は剣聖だ。目前の男が放つ魔力の質、オーラ、そして微動だにしない構え。その全てが、これまでとは異質の「脅威」に育ったことを、本能が感じ取っていた。
リヒトは、静かに呼吸を整える。
リヒト(まずは……先ほどの光源に誘導してみるか)
先ほどの応酬の中で一瞬見えた、あの奇妙な光。それが何であれ、今の絶望的な状況を好転させる唯一の契機となる。そう踏んだリヒトは、その地点への誘導を開始する。
距離にして、わずか7〜8メートル。しかし、剣聖との死闘の中で、相手に悟られず意図した場所へ動かすには、神業に近い技術が必要となる。一か八かの賭けだった。
――仕掛けたのは、リヒトからだ。
その踏み込みは、一陣の風のように凄まじい。剣聖でなければ反応することなど不可能な、神速の域。
ガキィン!!!
魔成剣とヴェルロザリアが正面から激突し、火花と轟音を周囲に撒き散らす。
リヒトはそのまま主導権を渡さぬよう、続け様に連撃を叩き込もうとする。だが、ドルネは即座に応戦した。彼女は見事な開脚で低く身を沈め、リヒトの攻撃想定範囲から逸れると同時に、彼の視界から一瞬にして姿を消す。
リヒト(……っ、消えた!?)
一瞬の隙
ドルネは自身の腕を軸として、独楽のように驚くべき動きでリヒトの死角へ回り込む。そのまま強烈な脚術による反撃を加え、距離を開けようとした。
だが、リヒトも退かない。
身体強化によって研ぎ澄まされた感覚でドルネの体術を捌ききると、逃がすまいと肉薄する。
そして、その場に――。
ありったけの魔力を込めた渾身の一撃と共に、魔成剣を豪快に振り下ろした。
カアァァァン!!!
鼓膜を震わせる高い金属音が広間に響き渡る。
リヒトが渾身の力で振り下ろした魔成剣を、ドルネはヴェルロザリアの腹で滑らせるようにして、いとも容易く受け流した。
続く二撃、三撃。リヒトが魔力を注ぎ込んだ連撃も、彼女は最小限の動きで捌ききってみせる。
ドルネ「魔力を解放した割に、手応えないわね?」
余裕たっぷりの挑発。
塔から絶え間なく供給される魔力により、ドルネの身体能力は今この瞬間も底上げされ続けている。極論を言えば、彼女は守りに徹してリヒトが自壊するのを待つだけで勝てるのだ。
だが、彼女は「剣聖」。圧倒的な力でねじ伏せてこそという、戦士としての傲慢なまでのプライドがそれを許さない。
ドルネ「次は、私からいくわよ?」
刹那、ドルネの姿がぶれ、細剣の切っ先が無数の光の刺青となってリヒトを包囲した。
変幻自在、縦横無尽。
しなやかな体躯から放たれるその一撃一撃は、美しくも残酷な「毒蜂」そのものだ。狙いは常に喉笛、心臓、眼球といった急所。わずかでも反応が遅れれば、即座に命を刈り取られる死の舞踏が続く。
時間経過と共に、ドルネの速度と威力はさらに加速し、リヒトの防戦を凌駕し始めた。
リヒト(もう少し……)
視線の先、目的の場所までは残り3メートル。
あと数歩踏み込めれば策を実行に移せる。
だが、その数歩が果てしなく遠い。
無理に踏み込めばドルネの細剣に貫かれ、躊躇えば塔の機構に魔力を根こそぎ吸い尽くされる。
リヒトの額を汗が伝い、視界がわずかに熱を帯びる。
リヒト(時間との勝負か……。だが、焦れば終わる)
慎重かつ大胆に。リヒトはあえてドルネの猛攻を呼び込み、その衝撃を利用してわずかずつ、じりじりと「光源」へと自身の立ち位置をスライドさせていく。
万が一この策が失敗したとしても、次の一手――「二の矢」は用意してある。だが、生存率を考えるなら、この一手でこの場を切り抜けるのが最善。
死の香りが漂う広場で、リヒトは残り3メートルの空白を埋めるべく、全神経を研ぎ澄ませた。
ガキキキキキキン!!!!
リヒト(ちっ……また速くなっている……!)
リヒトの焦りは、確かな形となってその身を削っていた。
数分前まで辛うじて捉えていたドルネの軌道が、今や残像すら残さない。魔力による身体強化を限界まで引き上げているにも関わらず、一瞬、完全に視界から彼女が消失する。
そのたびに装束が裂け、熱い衝撃が肌を掠めていく。
じり、じりと後退し、目的の光源まで残り二メートル。
――その時だった。
???(あと、一メートルでいいです)
鼓膜を介さず、脳の深部に直接響き渡る透き通った声。
リヒト(誰だ……!?)
驚愕が思考を白く染めかけるが、リヒトはそれを表に出さない。ドルネの鋭い刺突を魔成剣の腹で受け流し、火花を散らしながら耐える。
???(今はとにかく、あと一メートルを!)
声の主が誰かはわからない。だが、この絶望的な状況で距離を指し示すその言葉に、賭ける価値はあると直感が叫んだ。
ドルネ「……何? また考え事? そんな余裕……ないでしょ!」
二度までも目前で意識を逸らされた。その事実が、誇り高き「剣聖三席」のプライドを無慈悲に踏みにじる。
ドルネの瞳から愉悦の色が消え、剣筋にどす黒い怒りの軌道が乗り始めた。
リヒト「悪いな……お前よりいい女は何人もいるからな」
リヒトはあえて、最悪のタイミングで最大の煽り文句を叩きつけた。
その効果は、覿面だった。
ドルネ「……今、なんて言った……?」
ピキリ、と空気が凍りつく。
ドルネのこめかみに青筋が浮かび、先ほどまでの淑女然とした余裕は微塵も残っていない。
向けられる殺意はもはや物理的な質量を持ち、広間の石床をミシミシと軋ませる。言葉遣いすら豹変していることに、本人は気づいてさえいない。
それほどまでに、彼女の逆鱗は深く抉られていた。
リヒト「……さあな」
これ以上の挑発は、自身の生存率をゼロにする。
そう判断したリヒトは口を閉じ、低く、鋭く魔成剣を構え直した。
リヒト(次の踏み込みが来たら、跳躍する……!)
心の中で、先ほどの声に思念を飛ばす。
届いているかは不明だ。だが、目の前にはブチギレた剣聖。
彼女が「最後の一線」を越えて踏み込んでくる、その爆発的な初速を、リヒトは全神経を研ぎ澄ませて待ち構えた。
ドルネ「さっきの言葉……あの世で悔いなさい」
ドルネの声から、一切の温度が消えた。
彼女の細い体躯を核として、供給された膨大な魔力と、彼女自身の根源たる魔力が混ざり合い、凄まじい圧力となって解き放たれる。
大気が悲鳴を上げるように震え、広間の重力が狂ったかのような錯覚さえ覚える。
対峙するリヒトの頬を、冷ややかな一筋の汗が伝い落ちた。
見れば、彼女の持つ【ヴェルロザリア】が、まるで鮮血を吸った真紅の薔薇のごとく、不気味で美しい赤光を放ち始めている。




