礼拝堂の零遺衆(レイス) ―影より染み出す二十の刃―
宗一郎と別れてから半刻ほどだろうか。
ようやく目的の場所に辿り着いたリヒトは、地上に続く古びた石階段を一段ずつ踏みしめていた。
リヒト「ようやく……か……」
地上に繋がる重厚な鉄扉を押し開くと、鋭く冷ややかな夜の月明かりがリヒトの顔を照らし出した。
そこは帝都を護る強大な結界の内側ではあるが、華やかな中心部からは遠く離れた郊外。今では人々に忘れ去られ、静かに朽ち果てゆく古びた教会の礼拝堂であった。
リュド「待っていた」
闇と同化するように柱の陰に待機していたリュドが、低く短い声をかける。その気配は相変わらず鋭く、周囲の警戒を片時も怠っていない。
リヒト「ああ。想定外の出迎えを受けてな……」
リュド「そうか……」
リュドはそれ以上追求することなく、リヒトの衣服に付着した乾いた血痕を一瞥しただけで、近くにある適当な椅子に座るよう促した。リヒトは深く息を吐きながら、年季の入った木製の椅子に腰を下ろす。
リヒト「それで……武闘会について、新しい情報はあるか?」
リュド「ああ。お前と別れて二週ほど経っている。剣聖たちの動向や他国からの動きなど、いくつか新しい情報が入ってきている」
リヒト「二週……。思いのほか、そんなに経っていたか」
リュド「ああ……」
淡白なやり取りではあるが、まずは二人とも無事に帝都への侵入を果たせたことに、心の底で安堵していた。
その素振りを互いに出すことはない。過酷な道程を乗り越えてきた互いの実力を誰よりも信頼しているからこそ、無事を喜ぶ言葉すら不要だった。
静まり返った礼拝堂の中で、リュドは淡々と、収集した帝国の「裏」の情報をリヒトへと渡し始めた。
〜〜〜〜〜〜〜〜
時は、中立国を出発するリュドとリヒトの場面まで遡る。
リュド 「そうか。ならば、俺は一足先に帝都の深部へと潜らせてもらう。ギークたちの偽装工作の要否も含め、奴らの喉元で情報を拾っておこう」
その言葉を残すと同時、リュドの輪郭が陽炎のように揺らぎ、周囲の影の中にその肉体を溶け込ませた。
厳密に言えば、肉体が消滅したわけではない。彼自身の精緻な魔力で全身を包み込み、光の屈折と存在感を完全に遮断する高度な偽装魔法【ハイ・シャイド】である。
隠密として生き抜く者には必須の技能ではあるが、リュドほどの練度に達すれば、魔力の残滓さえも周囲の自然なマナに擬態させる。
その場に「無」を現出させるに等しいその技を見破ることは、帝国の精鋭であっても困難を極めるだろう。
リュドは偽装魔法の維持と同時に、もう一つの術式を無詠唱で起動させた。
メーガスが扱う一般的な転移魔法は、複雑な魔法陣を描画し、知覚した任意の地点へと空間を繋ぐ万能の移動手段だ。対して、リュドの転移魔法は極めて特殊な制約を持っていた。
それは、あらかじめ自身が物理的に到達し、刻印を施した「特定の座標」にのみ跳躍できるというもの。
だが、この制約こそが隠密としての最大の武器となる。
魔法陣の展開という予兆を一切見せず、ハイ・シャイドを維持したまま瞬時に空間を跳ねる。転移先に現れた瞬間、すでに彼は「影」そのものとしてそこに存在するのだ。
大陸各地を飛び回り、主要各国に極秘の拠点を築き上げてきたリュドにとって、これほど確実で、これほど気取られない移動手段は他にない。
リュドは意識の糸を帝都郊外、今は使われぬ古びた教会の地下へと繋いだ。
瞬き一つの間に、彼の視界は中立国の街並みから、カビ臭い石造りの地下室へと切り替わる。
音もなく、大気の揺らぎすら最小限に抑えられた転移。
リュドは難なく、帝都サウスガルドの喉元へと潜り込んだ。リヒトが地下迷宮で死闘を繰り広げるよりも以前に、彼はすでに帝国の闇に溶け込み、獲物を待つ蜘蛛のように情報の糸を張り巡らせ始めていたのである。
隠密「リュド様、無事の帰還、何よりです」
転移直後、暗がりから声が響いた。リュドが姿を現したその瞬間を捉え、配下の隠密が音もなく駆け寄り、恭しく言葉を投げかける。
リュド「ご苦労……。俺の帰還に気づくとは、腕を上げたな、ノウス」
リュドの転移は、空間の揺らぎさえ最小限に抑えた完璧なものだった。だが、この配下の隠密――ノウスは、その極微細な魔力の震えと、大気に溶け込んだ一瞬の気配のみで主の帰還を察知したのだ。
それがリュドの長年の教育の賜物か、あるいはノウス自身の血の滲むような修練の結果か。そのいずれかは定かではないが、リュドは率直にその成長を称えた。
ノウス「滅相もありません……。リュド様の教えを忠実に守っているまで。他の隠密も、この程度はできて然るべきかと……」
主からの言葉に、ノウスの内にわずかな自負が宿る。だが、そこは死線を潜り抜けてきた隠密。感情の起伏を一切表に出すことなく、氷のように淡々と応じてのけた。
リュド「さて……配下をすべて集めろ」
ノウス「はっ」
短く命じられたノウスは、即座に術式を展開した。魔力思念伝達。特定の波長を持つ者にのみ直接脳内に語りかける、遮断不能な通信網が帝都の闇を駆け抜ける。
――『リュド様が召集をかけている。直ちに集まれ』
その冷徹な思念が飛んでから、わずか数秒。
静まり返っていた教会の礼拝堂に、奇妙な現象が起きた。天井の梁から、壁の隙間から、そして床に落ちる薄汚れた影の中から、次々と漆黒の装束を纏った「個」が染み出すように現れたのだ。
その数、およそ十五から二十。
リュド直属、ジャッカル隠密部隊、【零遺衆】
彼らは一切の足音を立てず、示し合わせたかのように一斉にリュドの前で跪いた。
教会の床を埋め尽くす「影」の集団。
誰一人として言葉を発さず、ただ主の命を待つその静謐な光景は、帝都の喉元に突き立てられた音なき刃そのものであった。
ノウス「零遺衆、集いました。何なりと命令を」
集団を代表し、ノウスが静かに、しかし力強い意志を込めて言葉を発した。二十人近い隠密が集結しながら、礼拝堂には衣擦れの音一つしない。
リュド「ああ。全員知っているだろうが、ジャッカルの主要メンバーによる帝都襲撃作戦が展開された」
リュドから放たれた短く、重みのある言葉。それが全隠密の鼓膜を震わせた瞬間、場に満ちる空気が一変した。
微動だにしない零遺衆たちの瞳の奥に、底冷えするような、それでいて鋭い「希望の光」が灯る。
ついに、我らが真の主君であるリヒトが、ジャッカルの精鋭を率いてこの帝都に牙を剥く。
それは、彼らが泥を啜る思いで潜入し、命懸けで積み上げてきた情報の全てが、真に意味を成す瞬間の到来を意味していた。
感情を殺し、影として生きる彼らにとって、リヒトの降臨こそが唯一の、そして最大の福音なのだ。
リュド「ついては、彼らが来るまでの間に、可能な限りの情報をさらに集めておきたい」
ノウス「リヒト様方が帝都に到着されるのは……武闘会に合わせて、でしょうか?」
主の意図を汲み取るべく、ノウスが確認の問いを投げる。
リュド「リヒトの動向は流動的だが、他の者たちはそうだ。ギーク、ジャックが帝都内に入るのは武闘会の二、三日前。その他の者らは、当日に帝都を襲撃すべく、近郊の死角にて待機している」
淡々と、しかし一点の曇りもなく作戦の骨子を伝えるリュド。その声を聞きながら、ノウスは次なる自分たちの役割を瞬時に構築し、確信を持って言葉を繋いだ。
ノウス「……承知いたしました。我ら零遺衆の役割は、その潜入の手引き。そしてルシウス様やメーガス様といった他の方々が、帝都の障壁を越えて内部へ雪崩れ込めるよう、内側から工作を仕掛ける……ということで相違ありませんか?」
リュド「その通りだ。武闘会当日、決勝の決着という『帝都の注目が一点に集まる瞬間』を計らい、四方に展開されている魔石塔を機能不全に追い込む。帝都を護る大結界を、内側から食い破るぞ」
そのあまりに大胆、かつ国家転覆に等しい命令を受けてなお、零遺衆の者たちは依然として石像のごとく微動だにしない。
だが、その沈黙は拒絶ではなく、完璧な遂行を誓う「影」たちの熱き沈黙…そして、
零遺衆「御意!」
全員の声が重なり、湿った礼拝堂の空気を震わせる。それは盲目的な服従ではなく、命を賭すに値する主への狂信に近い誓いだった。
リュド「期限を一週間と定める。この間に帝国内、および武闘会に関する情報をさらに詳細に集めろ。他国からの参加者リストの入手も忘れるな。それから……魔石塔への侵入経路、および警備状況の徹底した洗い出しだ。ノウス、これらすべての差配、お前に一任する」
矢継ぎ早に下される峻烈な命令。リュドはその全権を、最も信頼の厚い右腕に託した。
ノウス「はっ……。……え? リュド様は、いかがなされるおつもりで?」
反射的に受命したノウスだったが、直後、困惑の色を隠せずに問い返した。全権を預けるということは、主がこの場から離れることを意味する。
リュド「俺は、王城の方を探る……」
その言葉が鼓膜に届いた瞬間には、リュドの姿はすでに掻き消えていた。風すら動かさぬ神速の隠密行動。後に残されたノウスは、一瞬だけ呆然としたものの、即座に隊長としての顔を取り戻し、並み居る影たちへ鋭い視線を向けた。
零遺衆は、その役割に応じて四つの班に分かれている。
まず、零遺衆筆頭幹部ノウスが率いる【ノウス班】
リュド不在時の全権を預かるノウス以下、精鋭三名。阿吽の呼吸で意思疎通を図り、一騎当千の武力と判断力、情報収集能力を備えた、零遺衆が目指すべき到達点とも言える精鋭集団である。
次に、二頭幹部サイズ率いる【サイズ班】、五名
常に仮面で素顔を隠し、一言も発さぬその不気味さから「死神」の異名を持つサイズ。
彼らは情報の断片を繋ぎ合わせ、真実を炙り出す情報収集のスペシャリストたちだ。
そして、三頭幹部ウェン率いる【ウェン班】、五名
西方の異能を継ぐ彼らは、変装と偽装の達人。一度牙城に潜り込めば、身内ですら彼らを出し抜くことは叶わない。工作活動においては右に出る者はいない。
最後に、四頭幹部イズト率いる【イズト班】、六名
所属して日の浅い若手たちで構成される。コードネームすら持たぬ本名での活動だが、それゆえに一般市民や下級兵士の中に紛れ込み、表舞台の「噂」や「空気感」を拾い上げる足の長い任務を得意とする。
ノウス「私たちが魔石塔の情報を手に入れよう。サイズは武闘会の調査を。ウェンは参加者の素性を。イズト、君たちは帝国内のさらなる動向を追え」
ノウスの号令に、各班の長が短く応える。
「――承知」
音もなく。
一陣の冷たい風が吹き抜けた後のように、礼拝堂から全てのの影は完全に消失した。
こうして、リュド達零遺衆はさらなる情報を求めて帝都の闇に消え去ったのである。
少し短めですが許してください!
この辺から少しずつ帝国のメンツが絡み物語が動き始めていきます!
次回更新もよろしくお願いします!




