影の斥候
焚き火は小さく揺れていた。
火の輪の外側は、森の闇が支配している。
光が届くのはせいぜい数歩先までで、それより向こうは最初から存在しないかのように黒い。
私は無意識に火から目を離せずにいた。
「今夜は火を絶やすな」
エルフの言葉が、耳の奥で何度も反響している。
理由を聞いても答えなかった。
答えられないのか、答える必要がないのか。
どちらにせよ、焚き火はこの場の境界だった。
集落の者たちは静かだった。
誰も慌てず、誰も騒がない。
だが、それがかえって異様だった。
まるで嵐の前に、森そのものが息を潜めている。
私はフレキシブルpadを膝に置き、トレイルスキャナーの画面を暗くしたまま握りしめていた。
役に立たない。
位置情報も因果タグも、ここでは沈黙している。
それでも――。
トレイラーだから分かる。
これはイベントじゃない。
演出でもない。
“次の展開”を待つ安全な物語じゃない。
ここで起きることは、現実だ。
焚き火がぱちりと爆ぜた。
その瞬間、森の奥で何かが動いた。
音ではない。
気配でもない。
もっと直接的な、“視線”の感覚。
私は背中が冷たくなるのを感じた。
レンが立ち上がった。
弓も槍も持たないまま、ただ闇を見つめている。
「……来ている」
低い声だった。
私は喉を鳴らす。
「何が?」
答えはなかった。
代わりに、森が答えた。
枝が折れる音。
……近い。
いや、距離の問題じゃない。
人の気配が、久しぶりすぎる。
一歩。
もう一歩。
焚き火の光が揺らぎ、影が伸びる。
闇の中に、人の形が浮かび上がった。
細い。
高い。
そして静かすぎる。
エルフと似ている。
だが、決定的に違う。
森に溶け込むのではなく、森を切り裂くように立っている。
焚き火の光がその輪郭を照らした。
長い耳。
黒に近い髪。
金属のように冷たい瞳。
私は息を止めた。
――影だ。
エルフたちが口にした、名を出さない存在。
斥候は焚き火の外側に立ったまま、こちらを見ていた。
いや、正確には焚き火を見ていた。
火そのものを。
レンが一歩前に出る。
「ここは森の居留地だ」
斥候は笑った。
その笑みは温度がなかった。
「森?」
影の声は低い。
だが、何処か不自然に整いすぎていた。
言葉は日本語に聞こえた。
だが発音が違う。
音よりも意味が直接流れ込んでくる。
斥候は続けた。
「まだ“森ごっこ”をしているのか」
空気が凍った。
焚き火の火が、一瞬だけ小さくなる。
私は気づいた。
こいつは火を恐れているのではない。
火を憎んでいる。
斥候の視線が、ふと私に向いた。
その瞬間、心臓が跳ねた。
「……新しい落下者か」
荒々しい口調だが、その仕草が妙に静かだった。
レンが答えるより早く、斥候は私を見て言った。
「帰りたいか?」
私は言葉を失った。
なぜ知っている。
なぜ――分かる。
斥候は薄く笑う。
「帰還を願う者は、皆同じ顔をする」
レンが声を低くした。
「近づくな」
斥候は肩をすくめる。
「安心しろ。今夜は取らない」
取らない?
今夜は?
焚き火が爆ぜ、火の粉が舞った。
斥候の影が揺れる。
その揺れの中で、私は確かに見た。
背後に、もう一つ。
そしてさらにもう一つ。
闇の中に、複数の“影”が立っている。
集落の空気が張り詰めた。
レンが呟く。
「……斥候だけではない」
斥候は踵を返した。
闇へ溶ける直前、最後に一言だけ落とす。
「火を守れ。森を守れ」
そして、低く笑った。
「真理が論理を超えるなら――影もまた、森を超える」
闇が閉じた。
焚き火だけが残った。
私は震える息を吐いた。
今夜が境界だ。
明日、門が開くのは帰還か、それとも――。
⸻
(つづく)




