【短編ホラー小説】「プールの底から、私を見ていた」
学校のプールを舞台にした短編ホラーです。
怖い話が苦手な方はご注意ください。
六月の放課後。
梅雨の晴れ間で、湿った風が校庭を撫でていた。
「神代さん、今日はプール掃除ね」
生活委員の教師にそう告げられたのは昼休み。
正直、あまり気が進まなかった。体育の授業で使っていないはずなのに、妙に水が溜まっているし、去年も掃除中に足を怪我した生徒がいたらしい。
プールのフェンスを開けると、蒼白なタイルが眩しく反射していた。
水面は薄く濁っている。底まで見えない――けれど、視線を凝らした瞬間、私は思わず息を呑んだ。
……いる。
水底、真ん中あたり。
人の影のような、黒い塊がゆらりと揺れていた。髪の毛のようなものが、水流に沿って漂っている。
瞬きしても消えない。
それどころか、ゆっくりとこちらに顔を向けた気がした。
「……っ!」
私は慌てて視線を外し、モップを握り直す。心臓がやけに早く脈打っていた。
その日の夜は眠れなかった。
天井の染みが、人の目のように見えてくる。何度も寝返りを打っても、脳裏に浮かぶのは、あの水底の影だった。
翌日。
下駄箱で靴を履き替えていると、不意に声をかけられた。
「……それ、見えちゃったんだ」
振り返ると、三年生らしい長身の男子が立っていた。
少し癖のある黒髪と、冷たい色の瞳。見覚えはない。
「な、何のことですか」
「プールの底。……あれ、普通の人には見えないから」
背筋がぞくりとする。
この人、どうして知っている?
「俺は天城っていう。みんなは“祓い屋”って呼ぶけど」
彼はポケットから、小さな鈴のついたお守りを取り出して私に差し出した。
「しばらく持ってな。少しはマシになる」
鈴は不思議なほど冷たく、掌にじわりと馴染んだ。
それから数日、天城先輩と話すことが増えた。
放課後の校舎裏、昇降口、購買前――彼はなぜかいつも私の近くにいた。
「神代って、そういうの見える体質?」
「……たぶん。昔から、時々変なものが見えたりします」
「気をつけたほうがいい。あいつらは、一度見られると、ずっと後をつけてくるから」
冗談じゃない、と思ったけれど、天城先輩の目は真剣だった。
金曜の午後、再びプール掃除の当番が回ってきた。
先輩は「一緒に行く」と言った。
フェンスをくぐった瞬間、全身の血が冷える。
水底に、また“それ”がいた。前よりも近い。
天城先輩はポケットから紙札のようなものを取り出し、静かに何かを呟いた。
鈴が、しゃらん、と澄んだ音を立てる。
……次の瞬間、黒い影が激しく揺れ、ぶくぶくと泡を立てながら消えていった。
「もう大丈夫」
そう言って、先輩は私の頭を軽く撫でた。
ほんの一瞬、心が温かくなった。
――翌朝。
目を覚ますと、枕元に鈴が置かれていた。
昨日、返したはずなのに。
その鈴は、冷たく湿っていた。
……水の匂いがした。
登校中、背後から水滴の落ちる音がついてくる。
振り向いても、誰もいない。
校門の手前でふと影を見ると――
私の後ろに、濡れた髪の女が立っていた。
笑っている。
けれど、その隣に――天城先輩もいた。
全身びしょ濡れで、同じように、笑っていた。
その日から、鈴は鳴らなくなった。
(了)
最後までお読みいただきありがとうございます。
実はこの話、作者が中学生の頃に体験した出来事を少しアレンジしています。
少しでもゾッとしていただけたら、感想や評価をいただけると嬉しいです。
また、別の学校怪談も執筆予定ですので、お楽しみに。