食料品の消費税0%で、倫理が2000万人に戻るか…?
ピケティの動画(https://www.youtube.com/watch?v=Ybxlm9o-n3w)を観た。
しかし、その内容は今の日本とはかけ離れている――氷河期世代は放置され、消費税が当然のように課され続け、記憶に残っているのはリーマンショック程度。
「もう正解がないなら、とれるところから税金を取るしかない」と考える政治家たち。
でも、それでいいのだろうか?
正直に言えば、
生活保護の申請が、すべての人に平等に、差別なく、そして滞りなく行き届く社会であるなら――
自分は、消費税が何%であっても、自民党に投票していたかもしれない。
けれど、現実には違う。
申請に来た人の「顔色」や「挙動」ひとつで、支援がはじかれる。
家族がいようが、住まいがあろうが、制度の網から漏れた人々は、申請が通らず、餓死する危険と隣り合わせだ。
それは「明日は我が身」という重さをもって、私たちの前に存在している。
2007年、北九州市で起きた事件。
生活保護の申請を断られた男性が、自宅アパートで餓死した。
遺体のそばには、「助けてください」と書かれたメモが残されていた。
制度の冷たさ、行政の「裁量」が、人の命を奪った象徴的な出来事だった。
それでも、「消費税が0%になると社会が破綻する」と断言する石破総理の言葉を、どうして信じられるだろうか?
日本という国は、もはや「余裕」を失ってしまった。
もし、“余裕があるところにこそ倫理が生まれる”のだとしたら――
私たちはすでにそれを失い、静かに「内戦」のような社会へと突入しているのではないか?
これから、氷河期世代が60代を迎える。
もし、誰も手を差し伸べなければ――
貧困、闇バイト、日常的な殺人、暴力の連鎖が「日常」になる。
それを、誰が止められる?
その未来を、石破総理は「自分は墓の下だから関係ない」と言い切れるのだろうか?
https://www.youtube.com/watch?v=RLara4gvddI
この動画を見て、私はようやく、自分の人生を守るために「ナッジ(やさしい誘導)」という選択肢を自分自身に向ける決断をした。
どうか、許してください。
あとがき
最近、自分の内側の声に向き合うため、小説を書いています。書くうちにあらためて感じたのは、倫理は“余裕”のある状況でしか成立しないのではないか、ということです。
もちろん、誰か偉い人が「そんなことはない」と反論するかもしれません。けれど、そう言える人たちの多くは、安定した経歴や成功体験を積んできた「優秀な側」にいる人たちだと、私は感じています。
氷河期世代にとっては、正社員になれず派遣や非正規で埋め尽くされた履歴書を持つ人が多くいます。何かをあきらめながら、それでも黙って生きてきた人たちです。
どうか、その存在を記憶の隅にでも残しておいてください。
ほんの冗談や軽い一言が、そうした人を深く傷つけてしまったとき――もしかすると、次はあなた自身が「犠牲になるのが当たり前」とされる側に立たされるかもしれないからです。
1980年代、8割以上の人が「自分は中流」と感じていた。
だからこそ、倫理が守られていた。
けれど、今や生活必需品にすら消費税が課され、氷河期世代にとっては“2000万人が倫理を失う”ような状況が訪れようとしている。
それでも、政治家は自分の保身ばかり。
そんな今の日本を、無条件に「正しい」と信じるのは、あまりに不自然だ。