ガンバレ、はちまん
はちまんは今日も大忙し。
開店前の社では、風鈴がちりんと鳴り、朝の光が棚を透けて照らしていた。
納品チェック、札の印刷、花瓶の水を交換。
はちまんはちいさな手で、あっちへこっちへ。
パソコンの前では格闘中。
「こ、これは とりみだしセール …じゃなくて、 とりいだし なのです!」
「ボタンが……ぴっ、ぴっ、ってならないのです……!」
かろうじてできたポップを抱えて戻ったそのとき、
慌てて出てきたお客さまとぶつかり、勢いよく転がった。慌てたはちまんは壁に頭をぶつけたが、すぐにたちあがり、
「わわわわわああっ……!た、た、た、たたた大変申し訳ごさまいません………」
はちまんは、目を回しながら、深々とお辞儀をして、申し訳なさそうにしながらも、次の仕事に取りかかる。
店の奥から、やくもが静かに顔をのぞかせる。
袖の奥に手を隠したまま、じっと見つめている。
その目には、ほんのわずか「ニコニコ」の綻びが映っていた。
夕方の艦隊八幡社には、淡い橙の光が差し込みはじめていた。
買い物を終えた人々の足音も遠ざかり、店内はようやく静けさを取り戻す。
はちまんは事務所の奥で、箱に貼るシールをひとりで仕分けていた。
紙の端が少しめくれてしまい、几帳面には貼れない。
「うぅ……もういちど、ぺったんするのです……」
棚のすみに、紙くずのようにくしゃくしゃになった何枚かの失敗作が重なっている。
でも、はちまんはそれを誰にも見せない。
気づかれないように、さりげなく、すぐ下に隠していく。
そして…
誰にも聞こえないように、小さな、小さなため息を落とした。
「……だいじょうぶ、なのです……」
すぐに笑顔を取り戻す。
誰かが見ていなくても、「だいじょうぶ」と口にすれば、それは本当に「だいじょうぶ」になると、そう信じていた。
けれど。
棚のかげから、それをじっと見ている者がひとり。
やくもだった。
無機質なレンズが、はちまんの表情を静かに記録していく。
そこには、たしかに「ニコニコ」があった。
でも、その「揺らぎ」に、やくもは初めて微細なズレを感知した。
言葉にはできない。
でも、感じる。
「……コノ、ニコニコ……チョット……サミシイ」
それは、まだ「理解」にはほど遠い。
でも、たしかに「反応」として、やくもの心に残った。
夜が、静かにやってきた。
艦隊八幡社の灯りは落とされ、残った明かりが紙の束を淡く照らしている。
作業机の上には、今日もまた、使われなかったラベルの山。
はちまんはひとり、紙の端を指先で撫でながら座っていた。
「これでよかったのです」
「よろこばれたのです」
「まちがってなんか、ないのです」
そう、心の中で何度も何度も繰り返す。
でも、指先はずっと止まらない。折って、なぞって、整えて。
ほんとうは、どこかで
「これでいい」と、言いきれなかった。
そこに、やくもが音もなく現れた。
照明の下、白拍子の袖がふわりと揺れる。
「ハチマン……ニコニコ……スコシ、チガウ」
はちまんは、ぴたりと手を止めた。
やくもは、間を置かず、静かに続ける。
「ヘイキ ッテ、クチニスル ヒト……タマニ、ヘイキ ジャナイ」
沈黙。
はちまんの肩が、ゆっくりと揺れた。
最初は、ちいさく鼻をすする音。
つぎに、目元をぬぐう袖の音。
そして、止まらなくなった。
「はちまん、がんばってたのに……」
「まちがえないように、にこにこしてたのに……」
「うまくできなかったのに……」
「……やくも……なんでわかったのです……」
涙がこぼれ、紙ににじんでゆく。
はちまんは顔を伏せたまま、声を殺して泣いた。
やくもは何も言わなかった。
ただ、袖の奥から、小さな和紙の包みをそっと差し出す。
中には、はちまんが描いた手描きのチラシのラフ。何回も描いては消して、描いては消してある跡。
線はすこしゆがんでいた。
「ソレ、イチバン、ヨカッタ」
それだけ言って、やくもは隣に座った。
ふたりの間に、言葉のいらない静けさが流れる。
夜風がふっと吹いて、障子のすきまから、紙が一枚ひらりと舞い上がった。
やくもが差し出した包みが少しだけ開き、はちまんのゆがんだ印が、月の光に透けた。
「ソレ……イチバン、ハチマン ミタイ」
はちまんは、顔をくしゃくしゃにしたまま、ふっと笑った。
さっきまでこぼれていた涙は、もう乾いていたけれど、胸の奥はあたたかいままだった。
「それ……うれしいのです……へへ……」
ちいさな笑い声が、社の奥でこだました。
やくもはその声を録音せず、データにも残さなかった。
ただ、記憶の奥、まだ機械の言葉では名前のつかない場所に、それを置いておいた。
やがて、ふたりは灯りの落ちた社の廊下を並んで歩いた。
小さな足音と、なにも語らない静けさ。
でも、それでよかった。
はちまんは思う。
「うまくできなくても、やくもがいるのです」
「まちがえても、となりにいてくれるのです」
「……だから、はちまん、きっと、だいじょうぶなのです」
風鈴がちりんと鳴った。
夜風のにおいは、明日を連れてくる。
この夜から、ふたりはともだちになった。
それは誰にも言わなかったけれど、
ふたりだけが、ちゃんと知っていた。