ここに住みたい
紫は子供の頃、親から冷遇されていた。決して話を聞いてもらえず、いつも否定ばかりされていた。
しかし学校には栞という親友がいた。栞も、彼女の両親も、紫にとても優しかった。遊びに行く度、紫は強く願うようになった。
「ここに住みたい。」
そして転機は訪れた。遂に紫の両親の暴力沙汰が近所に知られ、児童相談所に通報された。そこで栞の両親が里親を名乗り出た。
紫は幸福だったが、実の子ではないという後ろめたさがあったのだろう。高校卒業と同時に一人暮らしを始めたが、その生活はズボラなものだった。
日頃の不摂生が祟ったのか、紫は流行り病に冒された後、それがこじれて肺炎となった。入院生活を余儀なくされた。
産まれて初めての入院生活は、紫にとっては意外と快適だった。今までは一人暮らしだったから、誰も自分の為に尽くしてくれなかった。それが今ではどうだ。病室に行き交う人、見舞いに来てくれた栞やその親や友人、誰もが自分を気にかけてくれる。紫は再び強く願った。
「ここに住みたい。」
そんな紫に、晴天の霹靂が訪れた。癌が発覚したのだ。厳しく管理された食生活が必要となった。紫にそんなことが耐えられるはずがない。
栞達が同居を提案したが、紫は辞退した。栞の親が怪我をして介護が必要になったからだ。
紫は、病院提携のホスピスで暮らすこととなった。またもや夢が叶った。
癌はすっかり消滅した。紫は新しい職場で、ある男性と出会った。単身赴任をしている妻帯者だ。いけないと分かっていながらも、紫はその男性と交際を続けた。
紫は男の単身赴任の家に入り浸っていた。誰も咎める人物はいない。紫は彼に尽くすことに快感を覚えた。尽くせば尽くす程男の生活は快適になり、紫は男にとって不可欠な存在となる。
自分はここまで人に必要とされたことがあるだろうか?今まで味わったことのない感覚に、紫は恍惚としていた。だからこそ願った。
「ここに住みたい。」
その頃から、彼の自分に対する態度が冷たくなったように感じた。あまり構ってもらえなくなり、話も聞いてもらえなくなった。飽きられたのだ。
紫は考えた。どうすれば、彼とずっと一緒にいられるか?
紫は、職場から薬品を盗み出し、食事に少しずつ投与していった。男はみるみる弱った。彼の世話をする為に、紫は長期的に彼の家で過ごした。
そんな日々も長くは続かなかった。薬品の持ち出しと投与が発覚し、紫は逮捕された。
取調室内で長期間の質問攻めを受け、紫は思った。
ここまで自分に興味を持ってくれる人間が、今自分の周りにいるだろうか?
彼は私に飽きた。栞や親だって、介護のことで精一杯だ。私は病気もしていないから、誰も私を見てくれない。
そう‥この警官以外は。
これはいけないことだ。決して許されない。だが紫は、願わずにはいられなかった。
「ここに住みたい。」
気がついたら、紫は取調室で拘束されていて、目の前ではパイプ椅子が散乱していた。紫は全てを悟った。
* * * *
遂に出所の日が訪れた。
背後で扉の閉まる音を聞いた後、久々に外の地を何歩か踏み出したが、紫は不安で仕方がなかった。澄んだ空気であるはずなのに、嫌になるほど自分を突き刺して来るようだった。
自分はこれからどうやって生きていけば良いのか。罪を犯した自分を受け入れてくれる場所なんてあるのか。辛い人生が待っていないだろうか。
嫌だ。怖い怖い怖い。まだここにいたい。
ここに住みたい!
そうだ。
自分は今まで、住みたいと強く願ったらそこに住むことができた。今度だってーー
紫は足元に大きな石を見つけた。丁度近くを、非力そうな人が歩いている。これでーー
「紫」
そのとき背後から声がした。ずっと昔から大好きで、聞くだけで安心する声だ。
振り向くと、紫の一番大切な人が、泣きながら紫をきつく抱擁してきた。すっかり元気になった両親と、アクリル板越しに何回か会ったことのある夫と子供も一緒だった。
なんでも、両親はまだまだ元気だがやはり若い人と一緒に暮らしたいらしく、栞達はまだ子供が小さくてそこまで手が回らない、とのことだ。栞の両親が涙ぐみながら、後を引き取った。
「私達、二世帯住宅を建てたのよ。いつでも戻って来てくれて、一緒に暮らせるように。」
「私達はずっと‥待っていたんだ。」
紫は気付いた。危うく自分は、大変な過ちを繰り返すところだった。
あったではないか。自分が本当に住むべき場所が。紫は自分の願いの力が強いことを確信し、恐らく最後となるであろう願いを心の中で唱えた。
ーー「ここに住みたい。」