優しい動物たちの島
なんて運がないのだろう。
揺れる船の中で私は呻く。
未明の嵐は一層激しさを増し、私にとっては充分大きいと思っていたこの客船は今や木の葉の様に押し寄せる波に翻弄されていた。
本当に大丈夫なのかと、通路のあちこちにぶつかりながら甲板に辿り着けば、船員たちの怒号が飛び交う鬼気迫る有り様に怖じ気づく。
豪雨に曝されたマストがへし折れているとあっては、絶望しかない。
ああ、この船は沈むのかと、嘆く声は嵐に飲み込まれた。
船が一際激しく揺れた。
その衝撃に貧弱な私は踏み留まれず、海原へと投げ出された。
荒れ狂う波に抵抗などできるはずもなく、私の意識は闇に飲み込まれた。
◆◆◆
身体中が痛い。関節も筋肉も痛い。肌はひりひりするし、喉も痛いし鼻も痛い。目も痛い。何なら頭も痛い。
痛くないのはベタベタする髪の先くらいだろう。
私は呻きながら体を起こす。
あちこちがギシギシ言っているような気がするが、どうやら折れてはいないらしい。
目の前にあるのは白い砂だ。
顔を上げる。
あまり広くない砂浜だった。
人影はない。
この辺りに人はいないのだろうか?
それよりも、ここはどこなのだろう。
全く手入れのされていない砂浜の様子に嫌な予感がする。
「…ニンゲンダ…」
少し軋むような声がした。
思わず振り替えれは、そこに居たのは猿だった。
動物図鑑で見たことがある。南の大陸にいる猿だ。
私より一回り小さいが、筋肉質な体つきからして力が強いことは間違いない。
真っ向からやり合えば、私の方が負けるだろう。
「ぐう…」
猿の後ろから豹が現れた。豹は私を警戒して全身の毛を逆立てている。
威嚇の唸り声が恐ろしい。
猿と豹だけでも、人生最大の危機だと言うのに、尚も止めを刺すべく現れたのはライオンだった。
「ニンゲン…何故イル?」
ライオンは深みのある声で、胡乱そうに聞いてきた。
聞いてきた⁉
やはり先刻の声は猿が発したものだったのか。
気のせいたと思っていたのが、違うらしい。もしかして、豹も喋るのだろうか?
そんなことを考えていると、ライオンが吠えた。
「応エロ、ニンゲン!」
目の前でライオンに牙を剥かれると怖い。
私は慌てて口を開いた。
「嵐で、乗っていた船が沈んだんだ」
出来るだけ簡潔な言葉を選んだ。
もしかしたら、あの船は沈んではいないかも知れないが、今の私には判らない。
「嵐…」
「船…ガ沈ンダ…」
「…………」
三匹は暫し考えて、合点がいったと頷いた。
「アノ嵐ハ酷カッタ」
「イロンナ物ガ打チ上ゲラレテイタ」
ここもなにかしらの被害はあったのだろうか。
三匹の私に向けられる目が僅かに柔らかくなった。
「ナラバ仕方ガナイ」
「ニンゲンノコトハ、長ニ聞コウ」
「着イテ来イ」
「わかった」
私はおとなしく従った。
拒絶と言う選択肢はないのだ。
三匹に見張られながら、森の中を進む。
道なき道を行くので、私は何度も木の枝に引っ掛かり、木の根に躓いた。
「ニンゲン…」
何度目かの躓きに、ライオンがため息をついた。
「オ前、ドンクサイナ」
猿と豹が呆れたように私を見た。
「済まない。私は人間の中でもどんくさい方なんだ」
素直に謝れば、三匹は揃ってため息をついた。
が、あっさり己の非を認めたのが良かったのか、何となく三匹の態度が柔らかくなった。
ライオンは歩調を弱めてくれたし、猿は枝を先んじて払ってくれる。豹は躓いた私が転ぶ前に体を支えてくれた。
引っ掛かったり転ぶ回数が格段に減ったところで森の奥の開けた場所に着いた。
目の前に切り立った崖があり洞窟がぽっかりと口を開けている。
「長!」
ライオンが洞窟の中へと声をあげた。
「ニンゲンガイル。コノ間ノ嵐デ島ニ流レ着イタ」
「あら…」
洞窟から返った声はもの柔らかな女のものだった。
「あらあら、それは大変」
洞窟から姿を現したのは熊だった。
私の知る熊より確実に一回り以上は大きな熊が私の目の前にいる。
私は恐ろしさを感じるよりも呆気に取られた。
絶対的な力の差は考えることを容易く放棄させるものなのだ。
「人間なんて何年振りかしら」
熊は私を不思議そうに見下ろしている。
「…乗っていた船が沈んだようで…」
私はしどろもどろで己の状況を説明した。
この熊の不況を買うわけにはいかない。
他愛ない一撫ででさえ、私を引き裂くことができるだろうから。
「災難だったわね。この島で暮らす分には私は何も言わないわ」
「ありがとう、ございます」
あっさり許しが出て、私は拍子抜けしてしまう。もう少し、葛藤があると思ったのだが。
熊は視線をわたしから三匹へと移した。
「あなたたちが、面倒見てね」
「我等ガ?」
猿が素頓狂な声をあげた。熊が頷いた。
「あなたたちが連れてきたのだもの」
「…解ッタ…」
ライオンが不満そうに頷いた。豹も唸っているが、長に逆らうつもりはないらしい。
「よろしく、お願いします」
私は改めて、三匹に頭を下げた。
◇◇◇
私の身柄を三匹に預けた熊は、洞窟へと戻って行った。
姿が見えなくなると、ライオンが、私へと向き直る。
「我ノトコロハ子供ガ生マレタバカリダ。ニンゲンニナド構ッテイラレヌ」
「我ノ住ミカハ木ノ上ゾ。ニンゲンガ登レルワケガナイ」
「ぐう、ぐるる」
「オ前ノトコロハ崖ノ上ダ。ニンゲンガ登レルモノカ」
長に託されたと言うのに、処遇の擦り付け合いが始まった。
ちょっと悲しい。
と、猿が思い付いたと顔を輝かせた。
「ソウダ。アヤツノトコロナラバ良イノデハナイカ?」
「アア、アヤツハ殆ド住ミカカラ出ナイ。ニンゲンヲ置ク場所モアルダロウ」
「ぐう」
彼らにとってニンゲンは物の扱いなのだろうか。
何やら釈然としないまま、処遇が決まる。
「ニンゲンー? いいよぉ」
そうして連れて来られた先、木にぶら下がる獣はやたらと間延びした言葉を返す。
長い弓なりの爪が木の枝に上手い具合に引っ掛かっている。
「ナマケモノだ」
初めて見た。動物図鑑でしかお目にかかったことがないナマケモノがいる。
ナマケモノはのんびりと私を見た。
「好きな所をぉ、選ぶとぉ、いいよぉ」
「後ハ、任セタ」
三匹はこれ幸いと、私をナマケモノの元に置いて去って行った。
ナマケモノがぶら下がる木の側に小さな洞穴がある。とりあえず、私はそこを住みかにすることにした。
斯くして、島の生活が始まった。
島の気候は温暖で凍えることがないのは有り難かった。
虫が出るのは閉口したが、虫除けの草や木の葉などをナマケモノや三匹たちが教えてくれたので、我慢出来る程度にはなった。
食べ物は木の実や野草が中心であったが、時折三匹が肉を分けてくれた。
他にも、浜辺に流れ着くものがあれば、教えて貰えたので、着替えやナイフ、他にも木切れなどを手に入れることができた。木の板は住みかをよりよくするためには必需品だ。
ノコギリがないので、いくら周囲に木があっても、加工できないのだから。
こんな風に動物たちに助けられながら、人間のいない島で、意外と私は快適と言える生活を送っていた。
特にナマケモノとは仲良くなった。
のんびりとした口調なので私も合わせようとしたが、必要ないと言われた。
行動が緩やかでも思考は違うようだ。
ナマケモノは島の外の話を楽しそうに聞いている。
この森どころか、この木より外に出たことがないからだろう。
私の話をいつも面白そうに聞いてくれる。
特に好んだのが、私が唯一所持していた小説だ。とある旅人の短編集だが、己と重なるのか気に入っている。
その短編集をナマケモノは特に好んだ。
そのため、請われるままに何度も朗読した。
いい加減、暗唱できるかも知れない。
おそらく、ナマケモノも同じではないかと思うのだが、それでもナマケモノは朗読を望んだ。
◇◇◇
どうしたら、島を出て帰ることが出来るだろう。
私は時折考える。
島を出るだけならばさほど難しくない。
動物たちの力を借りれば、筏くらいは作ることができる。
しかし、大海を渡ることは出来ないだろう。
不慣れな者が作った筏など、強い波を受ければ簡単に壊れるに違いない。
不器用は私では、満足のいくものなどできそうにもない。
そんな諦めのため息をつきながら、浜辺から引き上げようとした時、海が騒がしく感じた。
水平線へと目を凝らせば、船影らしきものが見える。しかし、客船にも軍艦にも見えないそれに不安を感じた私は近くの崖に移動した。
嫌な予感がするので崖の端に身を伏せながら見ると、船からボートが何艘も島に向かってくる。
ボートに乗るのはとても普通には見えない男たちだ。
荒くれ者と言うのはあのような手合いのことを指すのだろう。
荒くれ者たちは、島に上陸するなり目に付く動物たちに躊躇うことなく剣を向けた。
明らかに戦意のない動物も容赦なく手に掛ける。
中には笑いながら。
私は吐き気を必死で堪えた。
そして思い出す。
「ナマケモノを逃がさないと」
ナマケモノはあの木から殆ど動かない。
荒くれ者たちが襲ってきても逃げられないだろう。
私ならばナマケモノを背負って逃げることができる。
早く戻らないと。
私は荒くれ者たちと出くわさないよう最大限注意と警戒しながらナマケモノ元へ向かった。
しかし遅かった。
私が住みかに到着した時、遠ざかる声と足音を聞いた。
私はあの木へと駆け寄る。
いつもの枝に姿はなく、血塗れでナマケモノは地面に転がっていた。
「ああ、間に合わなかった…」
ナマケモノを見下ろして私はその場に立ち尽くした。
「ニンゲン!」
どれだけそうしていただろうか。
ライオンが駆け込んできた。
ライオンはナマケモノを見て鼻筋に皺を寄せたが、すぐに私の元に来る。
「ニンゲン、長ノトコロニ行クゾ」
袖口を咥えられその場から引き摺り離される。
「我ノ背ニ乗レ。鬣ヲ掴ンデ、決シテ離スナ」
言われるみままに私はライオンの背を跨ぎ、鬣を強く握り締めると、背中にしがみついた。
ライオンは荒くれ者たちを避けながら森を駆け抜け、長の元へとたどり着いた。
しがみつくだけで、体力の殆どを使いきった私はその場にへたり込む。
長の元には生き延びた動物たちがいた。
動物たちは私を見て、一瞬体をすくませたが、どんくさいニンゲンの私と言う存在を思い出して力を抜いた。
「一応聞くけど、あのニンゲンたちと関わりは?」
「海賊なんかと一緒にしないでくれ!」
長の問いに私は思わず声を荒らげる。
冗談ではない。
弱いものを嬉々として殺すような可逆趣味など私にはない。
どのみちそんな力もない。
「解っていたけれど、念のためにね」
「しかし、海賊が何故この島に?」
私の質問に、長はため息をついた。
「この島に、宝があるからでしょうね」
「宝が!」
初めて聞く話だった。
「昔々の話よ。ニンゲンがこの島に宝を隠したわ。私たちはその宝を守るために連れて来られたの」
「人間が…」
だから、話すことのできる動物がいるのだろうか。だとしたら、それはとてつもない技術ではないだろうか。
「でも、島から去ったニンゲンは二度と戻って来なかった。私たちの役目もとっくに忘れ去られたわ」
長はどうでも良さそうな顔で肩を竦めた。
実際、宝などどうでもいいのだろう。
それが金銀財宝であったとしても、この島では何の意味も持たない。
「その噂がどこかに残っていたのね。今はもう、覚えている子も殆どいないのに…」
長は再びため息をついた。
突然、海賊たちが島に上陸した理由がやっとわかった。
しかし、島の動物たちを遊び半分で殺していいことにはならない。
私は言い知れぬ怒りに胃の辺りが重くなった。
「祈りましょう」
長が静かにそう言った。
「祈る?」
一体、なにに?
動物たちは奉じる神がいるのだろうか?
戸惑う私をよそに、長の言葉に従うように動物たちは目を閉じ項垂れた。
そして。
祈る長を始めとして、動物たちの体かぼんやりと淡い光を放ちだした。
光は繋がり、動物たち全体を覆っていく。
その中で私だけが、ただひとり光を放たぬまま、その場に呆然と立ち尽くした。
しばらくすると、遠く悲鳴のような怒号のようなものが微かに聞こえてきた。
私は矢も盾もたまらず、その場から駆け出し怒号の方へと向かった。
怒号は海から聞こえていた。
崖の縁に身を伏せながら海が見える場所までにじり寄る。
そこで私が見たものは、巨大な吸盤の着いた触手に海賊船が襲われている姿だった。
浜辺近くのボートは水底に引き込まれ、逃れられた者はいない。
海賊船も抵抗しているようだが、幾つもの触手に絡み付かれてはどうにもならない。
もしかしてあれはクラーケンと言うものではないだろうか?
実物を見たことがないので一概には言えないが、クラーケンで間違いないように思う。
クラーケンは海賊たちを水底に引き摺り込むと、そのままするりと海へと消えた。
私は今見たものに実感が湧かないままふらふらと長のところに戻った。
もう動物たちはいなかった。
「もう心配はいらないわ」
長は私に向かって静かに言った。
長の言う通り、島にはもう海賊たちの姿はなかった。
森に居ただろう海賊たちもいない。
何が起きたのかは解らないが、恐らく陸上にもクラーケンのようなものがいたのではないだろうか。
それを長に確かめる勇気は私にはなかった。
それから、私たちは殺された動物たちを弔うことになった。
本来、命を失った動物はそのまま自然に還される。
しかし、今回は殺された動物が多すぎた。このまま放置するのは良くないと、長の指示で骸を埋めることになったのだ。
弔いは私も手伝い、森の中を歩く。
ナマケモノを弔う時、私はナマケモノが気に入っていた小説を一緒に埋めた。
ただの自己満足でしかないが、私がナマケモノにしてやれることなど他になかった。
すべての弔いが終わり、島はようやく日常を取り戻した。
「ニンゲン、着イテ来イ」
ナマケモノがいなくなり、物寂しくなった住みかを整えていると、猿が私を呼びにきた。
着いて浜辺まで行くと、打ち上げられたボートの姿があった。
破損していないボートだ。
「海ヲ漂ッテイタノヲ持ッテキタ」
「海賊のものだろうか」
「知ラン」
見る限りさほど劣化はしていない。長い時間漂っていたものではない。
ならは海賊たちが島に上陸する際に使用したものと考えるのが妥当だろう。
「ニンゲン、コレニ乗ッテ島ヲデロ」
猿は静かにそう言った。
そうだ。
頃合いなのだ。
人間の私はいつまでもこの島に居るべきではないのだ。
今までは無理だった。筏では外洋には出られない。
しかし、今目の前にボートがある。
もう、島に留まる理由はない。
「わかった」
私は猿の言葉に頷いた。
それからは早かった。
魚や木の実を干して保存食を作り、割れていない瓶を集めて水を詰める。
動物たちに手伝ってもらい、旅立つ準備はあっという間にできた。
ボートには、いろいろな物が積み込まれている。
これならば、外洋に出ても少しは生き永らえることができるだろう。
出立の日、浜辺には動物たちが集まってくれた。
長も来てくれた。
「元気で」
穏やかな声でそう言って、長は革袋をくれた。
中には硬貨が詰まっており、見たことない金貨も数枚見える。
古いデザインのものだ。私は自分の顔がひきつっているのがわかった。
「こ、の、金貨…」
「ニンゲンはお金と言うものか必要なのでしょう?」
「いや、でもこれは…」
「少しくらい他のが混ざっていても大丈夫よ」
長はおどけたようにそう言った。
長の許しを得たと言うことで、私は有り難く革袋を頂くことにした。
人間の世界に戻るのであれば、やはり先立つものは必要なのだ。
「ありがとう」
私は礼を述べ、革袋を懐深くし舞い込んだ。
そして、ボートに乗る。波打ち際まで動物たちが押してくれた。
ここから外海までは自分で漕ぎ出すしかない。
オールを握り締め覚悟を決める。
しかし私の覚悟など、何の役にも立たなかった。
水面から吸盤のついた触手が延びてくると、ボートの舳先を掴みするするとボートを引いて行くのだ。
私は唖然としたが、慌てて島を振り返る。浜にはまだ動物たちがいた。
私は動物たちに手を振った。
「ありがとう! さようなら!」
私の声が届いたのか、ライオンの咆哮が聞こえた。
泣きたくなるのを堪え、私はボートから落ちないよう縁を掴んだ。
島の姿が全く見えなくなったところで、触手は水の中に引っ込んだ。
黒い影がボートから離れていく。
「ありがとう!」
遠退く影に私は礼を述べる。聞こえているのだと信じて。
何度も何度も礼の言葉を叫んだ。
◇◇◇
大海原を木葉のように漂っていた私は、通り掛かった漁船に拾われた。
積み込んでいた食料も水も尽きて、いよいよお仕舞いかと思った矢先のことだった。
拾われた私は、すぐに漁村の診療所に放り込まれた。
診断によると、栄養失調以外これと言った疾患はないらしい。
驚く医者に、私は無人島で動物たちに助けられたのだとはなしたが、幻覚を見たのだと切り捨てられた。
なるほど、第三者の感想とはそんなものかと思った私は、それ以上何も言わなかった。
そうして、私は今も旅を続けている。
島での出来事は随分と記憶の中でぼやけて来ている。
そんな時は、草臥れた革袋の中を覗く。古い金貨を見れば島での日々と動物たちの姿が脳裏に浮かぶ。
あの優しい動物たちは今もきっと島で静かに暮らしているのだろう。
終わり
変わった話ですが、これは私の見た夢です。
多少整理しましたが、内容はほぼこんな感じでした。