メデューサと旅人
銀色の風に靡く薄汚れたマントには、両手に抱えるほどの大きさの黄金の塊を携えている。旅人は煌めく微弱な砂嵐を直進しながら、遠目に控えた巨大な古城を目指していた。
彼の旅人、名をナッシュという。己の財産を全てつぎ込んだその黄金を手土産にして、目指したるは怪物の巣食う恐ろしい大地。ほんの撫でるような風にも、そこに紛れた鈍い銀色の物質は直接皮膚に触れようものならばたちまち穴を開け、肉を腐食させる効果を持つ。おおよそ人の立ち入るべきではないこの枯れた土地に、めげることも怯む事もなく歩みを進めるには訳がある。
古城はかつて繁栄を極めた貴族の見栄によって打ち立てられたものだが、今はその影もない。何十年とは手入れもされていないであろう、巨人も通れそうな大きな扉をこじ開ける。ギシギシと喚きたてる扉はまるで客人の来訪を咎めるように響いた。一面に広がる石畳は旅人の体重に耐えきれず、ばきばきと音を立てて割れていく。旅人に忍び込む気はなく、なぜなら目的は古城そのものではなく、そこに住むとされる怪物にあった。
さっと、何かが移動した気配を感じた。
旅人は懐からランプを取り出し、油の染みた綿を指で押し潰して火を灯す。足元を辛うじて照らすばかりの頼りのない灯だけを導として、扉から直進する目の前にあった階段を昇っていく。ボロボロになった絨毯の下からはムカデが這い出し、明かりに恐れをなして逃げ去っていく。ここの主も、きっと唐突な来訪者を警戒しているに違いないと、旅人はなるべく徐に入り進む。
「この古城に住む主よ」
進めど、あるのは埃被った置物や石像ばかりで旅人は声を上げる。
「この声が聞こえているならば、姿を現せ」
その二言を繰り返しながら、手あたり次第に戸を開け大量の部屋を虱潰しに探す。
「主よ、我が声に答えよ」
ひとしきりに探し終え、例えば怪物の食い散らかした獣の骨でも散らばっていれば手がかりになったであろうが、そういった、生活らしさ、ともいうべき痕跡がまるで見当たらない。旅人は入り口に引き返し、一層の大声で虚空に問いかける。
「気配はある。いるのは分かっている。主よ、主よ。我が声を聴き、我が姿を見よ」
旅人の声に、影が反応した。それは怪しく、恐ろしげな、くぐもった薄ら笑いだった。
「見よとは変な事を言う」声は低かったが、女の柔らかい声だった「ここをメデューサの城と分かっていて入ったのではないのか?」
旅人は抱えていた黄金を床に置いた。
「無論だ。蛇髪の怪物、メデューサよ」
「では、見よとはどういう事か。この瞳の魔を知る者の言い分とは思えぬ」
「おお、その惑わしの瞳にこそ、私が遠路にも挫けなかった理由がある。声ばかりではどうもしっくりこない。姿を現せ」
「無礼な客人よ、勝手気ままに入り込み、あまつさえ姿を見せよとはどういうことか」
「そう思い、これを用意した」
旅人は足元に置いた黄金の上にランプを置き、一歩後ずさって跪いた。
「これは私の全てだ。私がこれまでに稼いだその全てと引き換えにした。これをやる。メデューサよ、これを街に換金すれば、この古城を建て直すことだってできる」
「何を望むか。お前の企みに気付いているぞ、その黄金は私を篭絡する為のまやかし。手中に収めんと出て来たところを、短剣でぐさり、というところか」
「よもや、そのような事をするはずがない。私の用はメデューサ、お前のその瞳にあるのだ」
「短剣でなければ、毒矢か?鉄砲か?いずれにせよ、我が瞳を手に入れんとしたこれまでの狩人は、全てその計画を阻んだ。お前も見ただろう、廊下に並ぶ石像の数々を」
「ああ、見た」
旅人は静かに答える。
「あれを見て、不思議に思うだろうが、私の心は舞い上がった。古きに聞きし伝説はまごうことなき真であったと」
「では、なぜ怯えぬのか。お前はこの瞳の魔を知りつつ、なぜ恐ろしく思わないのか」
「話すとも。だから、私の前に姿を現すといい。包み隠すことのなく、この身に起きた全てを話してみせるとも」
旅人はここで初めて頭を下げた。並みの人としてはとても大きなその体を限りなく縮こませる姿は、悪魔に怯える姿などではなく、むしろ、神に祈るような姿だった。
ふっと風が吹き、ランプの灯が消えた。
「この城は気に入っている。建て直す気はない」
石畳の上を硬い鱗が這う音が聞こえる。旅人は顔を上げないまま、その音に耳を傾けた。
「ほうら、月夜の光を遮るだろう。たとえ昼でも、ここでなら、我が姿を見る者はいない。我が瞳に見られる姿も、ありはしないのだ」
蛇髪のメデューサという伝聞に従って抱いた想像では、頭髪の一本一本が蛇の姿をし、舌をなめずり、鋭い眼で睨みつけるものだった。だが、メデューサの姿は、きっと一見したところではその正体を見透かすことなど到底できないであろう、現を疑うような、美しい女性の姿だった。
「私の目は闇に慣れている。この暗がりにあっても、お前の姿もはっきりと見える」
メデューサは歩みと止め、旅人と、旅人の持ってきた黄金を間に挟んだ距離を保った。
「怯えることはない。武器が心配ならば、この通りだ」
旅人はすっくと立ちあがり、覆っていたマントを脱ぎ去った。ほんの薄手のシャツはよれきって、彼の隆々とした筋骨の張った肉体を抑え込むには心もとなく、今にも千切れそうだった。
「いいや、お前たちはそう言って私をだまそうとする」
「たち?」
「そうだ。私の瞳はもちろん、この髪一本にすら値打ちが着くと聞く。お前の目当てもそれだろう?」
「この黄金を見よ。これを抱え、私はあの病の風を、死の大地を、渡り歩いたのだ。財が欲しいだけで可能なことではない」
「だからだ。だから分からぬのだ。私の瞳はごまかせぬ。その黄金は本物だ。お前にとって、私になんの価値があって、あの砂嵐を超えて来たというのか」
旅人はその問いに対する答えと言わんばかりに、シャツと、下履きを脱いだ。全身の筋肉が異様に発達したその肉体が露となって、メデューサは目を覆った。
「何を……」
「見よ、この体を」
皮膚の下に、何かが蠢いていた。小さな、まるでサソリのような濃い紫色の影が、旅人の体の表面を走っている。入れ墨のようなそれは、肩から腰へ、腰から腿へと、縦横無尽に移動していた。
「ギータブリルの呪いだな」
「毒と言ってもいい」
サソリの文様は、メデューサに見られていることを気に掛けることもなく、呑気が気ままに旅人の体を這う。
「さぞ苦しかろう」
「新月の夜が来る度、この体は世にも恐ろしい激痛に苛まれる。ああ、私は眠るのが怖くなってしまった。夜空の月の満ち欠けが、死神の微笑みに見えるのだ」
「自死は信仰が許さぬか?」
「そうではない」
旅人は下履きを履きなおし、マントを覆った。
「見苦しいものを見せた。さぁ、理由が分かったのなら、お前のその瞳を見せておくれ。俺のこの眼と向き合えば、瞬きも許さぬ間にこの体は石となるのだろう」
「愚かな」
メデューサの首の動きに付随して、その長く艶めかしい前髪が揺れる。隙間から除くのは、顔の上半分を丸ごと覆う牛の皮が縫い付けられていた。
「ギータブリルは私ほど気性が荒くない。お前を見れば、大方無礼を働いたものだと想像がつく。この黄金と共に、新鮮な人間の内臓を一式収めれば、気分がいい時ならば、その呪いを解いてくれるかも知れぬぞ」
「それは叶わぬのだ」旅人は項垂れた「奴は私が殺した」
「ははは!」
メデューサが高笑いをする。
「人間が、どのようにして神話の怪異を討つというのか。お前は嘘をついたな」
「いいや、俺は嘘をつかない。錆びた短剣を心臓に突き立てたのだ。それが、七つ前の新月の夜の事だった」
メデューサは訝しげに旅人を話を聞いた。
「このメデューサに嘘は通じぬ……蛇髪の魔は、お前の心を裸にする」
「身はすでに晒した。好きにするがいい」
そういうと、メデューサの、床まで届くような黒髪のうちの一束が捻じれるように集まり、一匹の蛇へと姿を変えた。白い鱗に、血のような赤い眼をぎょろりと剥いて、旅人の首に噛みつく。
「人の血は、不味いから嫌いだ」
普段は頭髪に擬態した蛇は、塞いだ魔瞳に代わってメデューサに周囲の景色を伝える。蛇の吸血により、旅人の心を取り込む。そうして、メデューサはその新月の夜のことを知る。
「そうか……お前か、人の身でありながら、神話の怪異を次々と打ち倒すという、迷惑極まりない男というのは。噂は聞いているぞ、神狩りのバスターナッシュ」
「その名も今宵限りだ。我が名と共に、この古城の廊下に佇む石像の一つとして、人々から忘れられていくつもりなのだ」
白蛇はゆっくりと変身を解き、またメデューサの頭から垂れ下がる美しい黒髪にと戻った。
「お前のような愚かな男とは会ったことがない。自ら殺めた怪異から受けた呪いに苦しみ、石になりたいとは」
メデューサはつかつかと歩き、天まで届く窓ガラスの元へと行き、立ち止まって夜空を見上げた。
「半月の夜だ。ほどなくして、お前はまた苦しみにのたうち回るハメになるだろう」
「それが私にはもう耐えられないのだ」
「だが、見ての通り私は私で自らの瞳を塞いだ。この皮でできた眼帯を剥ぐというのなら、相応の報酬が欲しい」
「この黄金では足りぬというのか。メデューサ、お前は何を望む」
「私は……私は……」
薄暗い城内、その広く空しいエントランスにあってただ一人月の光を浴び、淡く輝く姿はなんとも情に訴えるような美しさがあって、絵筆の心得があったならば、絵画にして額に収めた事だろう。
「この瞳を消してしまいたい。この……見るだけで全ての生き物を石と変えてしまう恐ろしいこの瞳を、願わくばなかった事にしたいのだ」
細く、水のように透き通った指を顔に這わせ、苦痛に歪めた表情で、彼女は重々しく語る。
「この瞳のせいで、私はどれだけ諦めたことだろう。ああ、私は人間に近づきたいのだ。笑わば笑うといい、私こそ、怪異の身にありながら、その自らを拒み、あろうことか人に憧れを持つ。愚かで、惨めとは思うだろうが、それでもやはり、この瞳さえなければと何度思ったか」
「蛇髪を擬態しているのも、それが故というのか」
「そうとも。頭髪の蛇にまじないをかけ、何年ものあいだ練習を繰り返し、今ではすっかり人の、見た目だけは準えるようになった」
「ではその眼帯も?」
「防魔の効力を持つという、ミノタウロスの腰の皮を借りた。だが、この眼帯をしてもなお、長い時間見続ければやがて石になる呪いがかかる。それに、このような眼帯をしていては、人と交わうことなど夢のまた夢」
「それで、私に何を望むというのか」
「お前の得意な分野だ、神狩りのバスターナッシュ。この世で最も強い解呪の力を持つ神話の怪異を打ち取り、我が瞳の魔を打ち消して欲しい」
「なんと」
旅人は驚きを隠せなかった。この世で最も強い解呪の力とは、まさに神に並ぶ存在にしか許されぬ力だ。祈ったところで、たてまつったところで、人などに分け与えてくれるはずもない。つまりそれは、神への反逆を意味する。
「女神アテナ……奴の持つ盾、アイギスを私に捧げよ」
「許されざることだ、そのような事は、口にするのも憚られる」
「ではまた!」メデューサは窓ガラスをたたき割る「あの月が欠けるころに、死を凌駕する苦しみに喘ぐがいい!」
「や、やめろ……」
「サソリの毒はやがてお前の体を犯しつくし、神経を、皮膚を、肉を!容赦なく蝕むだろう!おお、哀れなバスターナッシュ。本来ならば一度で命の尽きるその呪い、不死の祝福を授けられしお前にはいかな呪いも並ぶことのない苦しみとなるだろう!」
「よせ……!」
旅人は膝をつき、月に怯えた。
「ふん…………弱い男」
メデューサはカーテンで窓を塞いだ。
「この先にカリストンという街がある。三日後、謝肉祭が開かれる。パンアテニアの祝祭から派生した由緒ある祭りだ。人も集まる。アテナの旅路を突き止めるなら、そこがいい」
「うぅ…………」
「もうお前に余地はないのだ。苦しみから解放されたくば、アテナが自身の名を関する都市アテナへと帰り着く前までに、奴を討ち……」
すると、古城が悲鳴を上げた。神の怒りを買った大地は揺れ動き、天井から崩れ去る。
「まさか……」
メデューサは狼狽えている。まさか、こんな人里離れた不毛な大地の会話すら、アテナには届いてしまうのだろうか。
「何してる、崩れるぞ!」
旅人はメデューサの腕を掴み、強引に脱出する。不思議な力で固く閉ざされた扉を力ずくでこじ開け、崩れ去る古城から逃げ出した。やがて大地の震動は収まり、銀色の砂嵐が吹き荒れる中、月明かりの下でただ二人きりとなってしまう。
「城が……」
「黄金も瓦礫に運れた。無一文だ。カリストンまでは三日かかるらしいな」
旅人はマントで全身を覆い砂嵐から身を守りながら、月の光が照らす先へと歩き始める。
「アテナめ……この忌々しい女神が……」
「何してる」
旅人は立ち止まって振り返る。
「何をしてる、だと?神の怒りを買い、住処も崩された。もはやカリストンに行ったところで、望むものは手に入らない。新兵の刺客に怯えるしかできないのだ」
「ではそこで怯えていればいい。約束の品は私だけで手に入れる」
メデューサは己の耳を疑った。
「余地はない、そういったのはお前だ。これより、神を討つのだ。そうと決めたのなら、もはや新兵ごときに竦んでいられないだろう」
砂と銀の混じった砂漠の大地に、メデューサは自分の両手を沈めながら動けないでいた。
「ではどうすればいいのだ」
「共に来い。お前からすれば、人間の街はさぞ楽しみだろう」
「バスターナッシュ……お前……」
「ナッシュでいい。その名はお前の城と共に埋めていこう。我が名はナッシュ……旅人ナッシュだ」
ナッシュの付けた足跡が風に消し去られる前に、やがての時を経て、メデューサは立ち上がった。彼の姿を見失わないように、ゆっくり、ゆっくりと歩いていく。