瑠璃色の雨
駅で見かけたその人は、どこか見覚えがあるような気がした。どこにでもいそうなのに、どこかで見たことがあるような。
でも、思わず振り返ったときにはもう、だれかれ構わず無機質な長方形の箱に吸い込まれていくところだった。だから、どこにでもありそうなブレザーのその人を見つけることはできなかった。人混みにまぎれて電車に乗っていく背中が、やけに目についた。そのどこにでもありそうなブレザーと、少しくせのついたこげ茶の髪、高い身長。クラスの男子の誰かではなかった。私の通う高校の制服とは、色が少し違う。でも、他校であるはずのその制服はなぜか、見覚えがあるように感じた。これが、先週の水曜日の話。
今日も、同じ駅のホームでその人を見た。一週間前と同じく、後ろ姿しか見ることはできなかったし、その人が誰なのか思い出すこともまたできなかった。できなくて、思い出しそうで思い出せないじれったさがじわりと私の中に少し、つもった。
それからというもの、私は毎週水曜日に彼を目にするようになった。
なぜか、私は焦っていた。来週にはその背中がないかもしれないと思うと、背中がひゅっとなるような不安を感じる。でもその人はちゃんといる。水曜日、私の学校の最寄り駅から家に帰る時間に、私と反対方向の電車に乗っていく。見かけるのはやっぱり、後ろ姿だけ。
もしかしたら、どこかですれ違ったことがあるだけかもしれない。毎週水曜日に見かけるから、無意識に目が追っているのかもしれない。考えられることはいくらでもあるのに、なのになんでこんなに気になるんだろう。六月の初めの週の火曜日、冷房がついた電車内でまたうつらうつらと考える。明日もまた、彼はいるだろうか。
六月の二週目、梅雨がやってきた。先週、少し早い梅雨入りがニュースで告げられ、六月の訪れとともに雨がやってきた。今日も朝から雨が降っている。朝からなんとなくそわそわしていた。なぜかは分からない。でもなんだか落ち着かなくて、湿っぽいスカートを大きめに揺らして歩いた。なんとなく、雨が苦手。これもなんでかは分からない。雨粒で霞む視界の中で、何かが消えてしまわないかと不安になる。
そんなとき、霞む視界の中に深い青を見つけた。
深い深い、こっくりとした紫がかった、忘れるはずのない……
そんなはずはないと思った。そうであってはいけないとも思った。でも、期待した。
淡い期待を行動に起こして、衝動的に電車に飛び乗った。反対方向の電車に。
そんなはずはないのに。電車の中は、私の大好きな青で満ちていた。
電車内は空いていてどの人も座っているのに、その人だけは車内の真ん中に真っすぐ立っていた。あのありきたりなブレザーを着て。少しくせのついた、焦げ茶色の髪。私に背を向けて、立っている。
「瑠璃色…」
気が付いたら、声に出していた。涙が一緒に出てきてしまわないように気をつけたけれど、目の淵には少し青が滲んだ。
その人は、たった今気づいたかのようにゆっくり振り返った。あの照れくさそうな笑顔がこちらを向いた。控え目に頭をさわりながら恥ずかしそうに、切ない青を纏って。
「見つかっちゃった。」
確かに、そう言った。間違いない、私が大好きだったあの声で。
深く澄んだ瑠璃色を纏う目で、こちらを真っすぐに見つめている。
電車の中には青が満ちている。切ない香りの、瑠璃がいる。
「瑠璃…」
また、自然に声が漏れた。
「久しぶりだね。」
ああ、本当に久しぶりだ。私のせいで。
「瑠璃…ごめんね。本当に、ごめんなさい」
「謝ることじゃないよ」
でも、ずっと言いたかった。言わなくちゃいけなかった。話をしよう。与えられた、限りある時間の中で。
「ずっと、謝りたかった…なのに私…」
「いいんだよ。また会える、そうでしょ」
「でも、私…」
いつの間にか、電車内は私たちだけになっていた。ううん、電車の中じゃなかった。
ここは、どこ?
あたり一面には、瑠璃色のあじさいが咲いていた。足元を埋めつくすたくさんのあじさい、どこなのかも全然わからない場所だけれど怖くはなかった。いつか瑠璃の良く場所なのだとしたら、今すぐにここに行きたいとさえ思った。
けれど、彼がそれを望まないということももう、分かっている。私はどうしたらいいんだろう。
「瑠璃色」
今度は、瑠璃が言った。
「覚えてる?二人で、瑠璃色のものがないか探し回ったこと。青いもの、たくさんあったよね。」
「覚えてる…覚えてる。ちゃんと、覚えてるよ」
いつかの雨の日の記憶を、思い返す。
「骨董品屋さんのガラス、私の傘、花屋さんのカスミソウ…ああ、たくさん、あったね」
「そう。俺の名前のものを探すんだって言ってくれて、嬉しかったよ」
「うん、いっぱいあった…でも、紫陽花の瑠璃色が、いちばん好き」
声に出してしまえば、もう止まらなかった。目から、頬を伝ってとめどなく流れていく。
私の涙も、今ばかりは綺麗な瑠璃色をしているだろうか。
離れ離れになってしまった幼馴染は、変わらず深い青を纏っていた。あの頃、二人で探した色だ。
私に助ける勇気がなかったから、私たちは離れ離れになってしまった。連絡先はある。なのに、連絡する勇気さえなかった。私のせいで、久しぶりだ。
今もどこかで元気にやっているということは知っていた。母が、嬉しそうに瑠璃の近況を私に話してくる。
きっと瑠璃の乗っていた電車は、私の最寄り駅に停まる電車じゃない。
水曜日、きっと、こことどこかで交わっている。
「瑠璃色は、二人の思い出の色だね」
「うん。もう、忘れない」
風が吹いた。涙の乾いた私の頬を、優しくそっとなでる。紫陽花の花が、風に吹かれて景色に溶け始めた。時間なのだと、分かった。
「瑠璃」
瑠璃は優しい表情のまま、私を見つめる。
ああ、この柔らかな表情が大好きだ。
「待っててね」
「うん、楽しみにしてるよ」
いつもそうだ、結局一人で立ち直っちゃう。
そう言って瑠璃は笑った。
「またね」
声が重なる。最後にそっと手に触れた。もう、怖くない。
電車の止まる音がした。いつも通りの、アナウンスが流れる。私はうたた寝から覚めた。でも、さっきのは夢じゃなかったみたいだ。手に、紫陽花の花びらが一枚、そっとたたずんでいた。
私が乗っていた電車は反対方向の電車じゃなかったようで、しっかりと家の最寄り駅についた。
見上げた空は、さっきまでの重苦しいどんよりとした空じゃない。透きとおった白い空から降る雨は、きれいな瑠璃色をしている。
リュックからスマホを取り出して、しばらくぶりの連絡先をタップする。手は、震えていない。電話はすぐにつながった。ああ、瑠璃色の声だ。瑠璃の声が、私の名前を呼んだ。
白い空、瑠璃色の雨の下で、私たちは笑い合った。
瑠璃色の雨は、私たちの再会を喜んでいるかのように、優しく振り続けている。