外交官:コフィレスト・バーゼル
外交官コフィレスト・バーゼルは優雅に足を組み直す。
この職に勤めて二十年余り、数々の国を渡り歩いた男であった。国交の為に奔走し鍛えた足も、対面の者を絶えず問うていた理知宿る眼差しも、油断なく構えていた三つ揃えも、今では肥えた腹が日に日に膨れるばかり。昔のような姿は見る影もなく、そうした小さな振る舞いにこそ根源的な評価を下せよう。
コフィレスト・バーゼルは机に置かれたアガレスの茶を啜り、今日も今日とて眉を傾ける。目線の先には壁際に立つ侍女の姿と、そして何故か対面に座せず立ったままの窶れた男が一人いる。
「――ほお、セグナンスが我が国に……。貴国は、管理してないのかね?」
「ええ、彼等の自由を我が王は誓っております」
机上に並ぶ焼き菓子はアガレス王国の銘菓であるが、彼の錆び付いた瞳ではその菓子の特徴や真意を伺えはしなかった。若かりし頃であれば意味合いを調べ、目線も送って、賛辞すらも心から述べていただろうに。
ルシアの果実を用いた焼き菓子を贈る行為は、貴国の栄華に続く友である宣言に等しいのだ。
「勇者達……か。それは実に、面白そうな展開だが……」
彼は自国の利害を概算するばかりで、対面への関心は微塵もなかった。礼を隅々まで行き渡らせた近侍が視界に入って、コフィレスト・バーゼルは興味深そうに顎を撫でる。その白髪混じりの風体は嫌に印象強いもので、紅茶を口にすれば敢えて不味そうに、近侍の不手際とばかりに灰の目で睨め付ける。
「然しだね君達、座らないのかね? 私のような、外交官の一人にそうまで畏まらずとも良いのだがな」
言葉は意味を流転させて、見映えだけは飾る。迂遠な嫌味だけは抜かりがない男である。
「ご配慮痛み入ります、その言葉だけで身共には十全な賛辞です」
近侍はそれでも尚、恭しく手をエプロンに重ね会釈する。
「ふむ、殊勝な心掛けではある、か」
彼女はつい最近までとある偏屈な勇者の一人に侍っていた。高度に訓練された王宮侍女の一人であった。
首元で揺れる青いスカーフに、一層強く映える白銀の留め具――勇者を表す徽章の趣きを醸す至高の一品――それは彼女が勇者へと積み上げた信頼や信用を物語っているのだが、コフィレスト・バーゼルの瞳に映りはしなかった。
それに加え、彼は皮椅子に深く腰を埋めて濁った瞳をアガレスの外交官に流した。
眼前で厳粛に立つ外交官は、アガレス特有の窶れた人間だ。頬が痩けつつも瞳には闘志が揺れ、血走った眼球は労働の過酷さを示している。コフィレストの脳内ではアガレスの外交官は見窄らしく、自信のなさは貧相な肉体に直結するのだと感心すらしていた。
『辺境境の小国』でしかないのだ。
「君、例の……あの黒い娘はどうしているのかね? あの変わった娘子だ。ああ、客人ではなく、使節であったか?」
外交官にではなく、彼は見目麗しい侍女に問い掛けた。外交官として有り得ざる事だ。
「レイ・グッドゲーム様は帝都の誇る叡智、その育成機関へと参られました」
「然しだね君、若い娘子だとしてもこの大使館からは些か……遠いと思われるがな。まあ……? 彼女は若人であるし、要らぬ心配と言うものかな?」
悪辣極まる笑顔だ。アガレス王国を見下す風潮は先々代の帝が始めた失策である、このバーゼルと言う恰幅と態度が比例した男からすれば長年培った恒例で、特に感情からとも言えない。単に『そうする空気』や『何時もの景色』に準じているのだ、疑問はないし異論も浮かばない。
使節に甘い顔をする必要はない。通学の不便さなぞ、己の地位を理解させる為の初歩的な教育だ。上層部が末端のこのような機微を逐一把握する筈がないのだ――バーゼルは確信する。机に広がっていた焼き菓子を無造作に手にして啜り、机に零れた欠片にも目を向けない。
況してや、彼はこう考えた。
飽き飽きする程に食べさせられたルシアの菓子はやはり粗末であり、アガレス王国の特産品だからとこうも過剰に推されては敵わんな、とだ。
辟易した面持ちはアガレスの外交官にも当然伝わる。
バーゼルの不遜な態度を見てもアガレスの外交官は笑顔を絶やさず、彼の言葉を持つように丁寧に碧眼を送っていた。
――ノック音。それは硬質で、軍靴の重なりを連想させる。
「……、……?」
ノック音は大使館の事務的な響きではなかった、もっと規律のあるものだ。バーゼルは愚かではあるが、目敏い。微かに眉を動かして些細な異物感を咀嚼する。このような最果ての大使館に好き好んで足を運ぶ『誰か』とは。
身内の外交官、であれば規則正しい音階を刻むのも納得は可能だ。然し同じくして、身内であれば足を伸ばす理由がない事実とも直面する。ノックの癖からすれば、帝国の武官のようでもあった。規律を重んじる頭でっかち共である。
「……、ふむ」
違和感とは、長年の経験が裏打ちした勘である。『きっと、阿呆な武官が連絡錯誤で訪れたのだろう』や、或いは『勇者絡みの些細な問い合わせあろう』等と楽観せず、甘んじはしない。伊達や酔狂ではないのだ、外交官は機微を確実に察知する。その上、経験からして本能が警鐘を鳴らしてもいた。
コフィレスト・バーゼルは戸惑う自己を認識した。落ち着かせるように、再び茶に口を付けるか逡巡した。
若い彼なれば、立ち上がり三つ揃えを几帳面に整えていただろう。
対面のアガレス外交官の碧眼が、僅かに光を放ったのをバーゼルは見逃さなかった。
「何用で参られた?」
アガレスの外交官が誰何の声を上げれば、しっとりとバーゼルの背に悪寒が走った。それは錯覚であったかは定かではないが、殊更に重要でもない。一等に着目すべきは感情の行方でもなくば、アガレス人の狼狽えた様子でもない。
「……」
そうではない。バーゼルは予感する。
論理的に考えるなれば、アガレスの大使館に踏み込める資格を持つ者の来訪。アガレスの外交官から許可を得た者だけ、となる。要するに、間違えて訪れた人間は『大使館へ入れない』のだ。日夜理論を捏ね、螺子曲がろうが理屈は理屈だと多弁を極めた者としての必然性のある予感。
コフィレスト・バーゼルは鉛の沈む思考をなんとか回す。即座に思い至る最悪の想定、それは――思考は強制的に断ち切られた。
「っ……!」
――移ろう蝶舞う瞳に、見事に肥えた風船がずんぐりと反射していたからだ。
扉を割って入ったのは見慣れた文官でもなければ、役柄の違いで席を違える武官でもない。
リリー・ド・ヴィクトリア公女殿下。
彼女の『瞳』は陽光を浴びた水滴の如く、溶かした絵の具が水の中に淡くようだ。色彩を曖昧にしていてもバーゼルには如実に分かる事があった、幼い頃に見た泣いてばかりの娘子ではない。
振る舞いは並み居る疲弊した官僚達とは、訳が違う。流行りの髪を手の甲で払う――そのような動作一つを抜き出しても一線を引いていた。自他の間に走った溝は、身丈の低い頃にすら感じはしていた。
「これは、これは……」
バーゼルはその激怒するでもなく、零下に吊るされてもおらず、余裕のある鼓動がゆったり脈打つような瞳に吸い込まれていた。
「外交官コフィレスト・バーゼル――あなたは、その経歴に於いて偽りはなく、帝都を二十八年間も支えました。素晴らしい、働きでしたわ」
「滅相もございませんな」
バーゼルは気が付けば立ち上がっていた。立ち上がれ、と言われる前に、脊髄反射としてだ。身を正して、頭を下げる姿に瑕疵はない。
「私のような木っ端役人の名なぞ、帝都の資産を増やすでもないでしょう。どうぞ、忘れてくだされば幸いですな」
乾いた笑い声を湛え、なんとも鋭い反撃を口にしていた。それを憂うように、右に迷って左に逃げて、最後は『今』のバーゼルをリリーは見やる。恰幅の良い、貫禄を醸した男だ。不敵な笑みを絶やさず世の中は簡単な算数だと語る灰の瞳は、今だから褪せはしない。
「卑下なさるのかしら、私は知っておりますのに。例えばバーゼル、あなたは、集国の内乱を事前に防ぎ帝都を豊かにしましたわよね」
腕を組み、顎に触れ、手振りを加えリリーは功績を称えた。
「何年も前でしょう、私は口添えした木っ端ですからな。当然の事と、お見受けします。それに? どうやら、公女殿下はとんだ勘違いをなされているようだ。分かるかね、君?」
くつくつ。笑い声も計算の内、バーゼルとはそう言った男である。小さな身丈の侍女、キャロルを見下ろして問いを突き付けた癖に、当人は肩を竦めて誰かが口を開く前を制する。
「外交官とは、梯子ではなく楔たれ、と私は考えておりますな」
「楔とは、変わった視座をお持ちですわね?」
こてんと首を傾げるのは、出会ったばかりの学友を真似た所作。その顔には微笑みを、その声には感情はない。
バーゼルはちらりとアガレスの外交官を気付かれない程度に観察する。そして意図して抑揚を変え、声色を落とした。培った技術を無駄にせず、バーゼルはリリー公女に語る。
「シルトに蔓延る海賊はどう獲物を捕らえるのか、知っておられますかな?」
これに真っ先に頷いたのは――当たり前だが――アガレスの外交官だ。だが、彼に発言権は与えられなかった。此処は講義室で行われる討論の際にあった『挙手』はないのだ、そうした暗黙の公平はないのである。
「高下を利用する獲物を馬鹿正直に追逐するざまは、目もあてられはしまい奇劇ではありますがね……? しかして、彼等は数で獲物を囲うのですな。賢い、そうは思わないかね君」
彼の目は壁側の背の高い王宮侍女に向いていた。あってはならない事だ、外交官をこうも虚仮にした振る舞いは。
「囲われ逃げ場をなくした獲物へ、海賊はゆっくり酒樽を開けながらに楔を撃ち込むのですよ。なにゆえに……? 無論、幸せの為にでしょうな?」
質の良い三つ揃えは深い茶色、落ち葉のようである。このような不遜な彼にあっても、幼き頃より公女殿下から賜った言葉を忘れよう筈がなかった。バーゼルはそれからと言うもの、毎日を同じ様式たる三つ揃えにし、妻の呆れを振って袖を通したものだが。
アガレスの外交官と、リリー公女殿下、控える小さな侍女と大きな侍女。コフィレスト・バーゼルは視線を集め、歩み出しそうな雰囲気で。
「詰まる所、外交官は賊。公女殿下に覚えて頂くまでもありますまいっ」
腹を叩けば軽快な音、打楽器のような音。記憶の引き金であった。
『バーゼルは、塔みたいなのより、風船みたいな方がっ、もっともーとっ! いいに決まってるわっ! そうでしょ? ねえ? バーゼルっ』
過ぎる。なんと答えたかまでは思い出せそうにはない、バーゼルはそれでも脳を探っていた。指先の震えを仮面の裏に押し込んで、外交官らしく不敵に笑う。ほんの少し髪の毛が入る程度、彼は素に戻りそうになっていた。
外交官にあるまじき失態である。
「して、どうなされたのですかな? 公女殿下ともあろう尊き方には、少々狭苦しくはないかと愚考致しますがね。可及の用たればこそ、書簡が必要でありましょうに。ああ、勿論? 公務であれば、と言う冗句、でありますがね」
両手を広げ、アガレスの外交官に態とらしく鼻を鳴らす。客間である此処は落ち着いた空気を第一に据え、綺羅びやかな装飾は極力廃されている。彼の革靴が踏む絨毯は職人が徹夜して編んだ一品だ。
部屋中を大仰に闊歩して、コフィレスト・バーゼルは灰の目玉で公女を穿った。数歩先、手を伸ばせば届く距離だ。背に控えていたキャロルの眼力を一瞥し、彼はまた鼻を鳴らす。
「もう結構よ……出ていきなさい」
声が、静かに、だが大使館の全ての論理を否定する力を携えて降り積もる。
「……本気ですかな?」
「もう一度、申し上げます。退出しなさい、そして、あなたはもう我が国の政に踏み入らないと、私へ誓いなさいな」
声に色はなかった。でも若さ故に荒い、バーゼルは察する。
「……、私を懲戒解雇に? 本当に、首を斬るつもりか?」
その顔は妙に真剣だ。とてもじゃないが追い詰められた人間のする表情ではなかった。リリーはぐっと、顎に添えた指に力を込める。少しだけ顎を持ち上げ、見下ろすように眼差しを固定する。
覚悟は出来ていた、誰かの人生を傾けた全てを背負う覚悟である。公女たる者が掲げねばならない公文には『民を幸せにせよ』ともあった。これはそれを裏切るのか、答えをリリーは持たない。
「ええ……今日までご苦労様。あなたは本日をもって、懲戒解雇よ」
足元に敷かれた真っ赤な絨毯に気付いて、バーゼルは恭しく頭を下げた。反論はない、浮かぶ声は残響であろう。
「仰せのままに、我が君《イエス ユア ハイネス》」
コフィレスト・バーゼルの下げた頭は今とあっては白髪ばかり、老いた男であった。口元へ常に浮かべるのは無愛想なへの字か、悪質な弓形ばかりのしがない外交官。
今日は、仄かに緊張が緩んで笑窪に青を差している。
バーゼルが深々と頭を下げて、少しすると。
彼は皮椅子や机を避けるように部屋の扉へと向かった。その足音は規律正しいノック音とは明らかに相反している。老人特有の床に足裏を擦る、引き摺るような重さがあったのだ。
扉が静かに閉じれば、大使館の応接室に完全な静寂が訪れる。リリーの華やかさも、しんとした室内では羽を畳むものだ。
「……、……」
部屋から去った後ろ姿を、バーゼルの小さな背を無意識に追っていた。扉で絶たれようとも向こうには、公務ではなく私的に費やしてしまうのは、目頭の奥に微かな熱を感じていたからだろうか。
その高まる熱を冷ますように、彼女は髪を手の甲で払う。腕を組んで、指を顎に、そうして公務の時間だと身体に教えるのだ。
思考を公務に戻して。
外交官の是正は、外交文書に誤字脱字を見付けるより骨が折れる地道な作業である。
だが、それは必要な作業である。バーゼルは、体制という病巣そのものだったのは間違いがない。心の中で改めて確認する。今の現状を速やかに改善しなければならないからだ。
レイ・グッドゲームへの不当な扱いは、この腐敗を切り開く為に最も便利な鍵だったのをリリーは否定しない。試算して、概算してはいたのだ。腐敗自体は知っていた、踏ん切りが付かなかった、と言えば言い訳にしかならないものの。
コフィレスト・バーゼルは全ての腐敗を背負うように、何時からかああして他所様の大使館に――アガレス王国――入り浸っていた。王国と帝国の軋轢は払拭されてはいない、その機会を逃してばかりであったからか。真意は汲み取りようがない、口にするのは世迷い言か挑発だけの男であるから。
そう、リリーは一番知っている。
「リリー公女様……? 顔色が優れませんが」
半歩後ろのキャロルの声に、彼女は一度強く瞼を閉じる。目尻に押しやられた水滴が乾くまで。
「気にしないで、少しあなたの運転に酔っているだけ……」
暫くして、目の前の事態に困惑する外交官を視界に入れ直した。窶れたアガレス外交官は、若かりし頃のバーゼルにそっくりである。
「この期をもって、新たな国交の始まりとさせてくださいな?」
華やかにころころと笑った公女を前にして、口にすべき言葉の輪郭を見失った外交官は安堵と驚愕の入り混じった顔で頭を下げた。その拭えぬ畏まった様子に思案を一つ、ふと思い付いたリリー公女は早速行動した。
なにをするかと言えば単純で、机に広がる焼き菓子の内、ルシアを用いた銘菓をひょいっと摘んだのだ。ぱくりっ、と口にすれば舌に広がった甘酸っぱさに彼女の『瞳』は淡い青に染まった。
瞳は嘘を吐かない。
「それと、相談なのですけど……このお菓子を一つ下さらないかしら?」
夜に散らばる星を浮かべた『碧眼』は、年相応だ。アガレスの外交官は困ったように頬を掻き、力強く頷く。
「ええ、ええっ! 我が国が誇るルシアの品々を是非とも味わって下さいっ!」
と、忙しなく侍女へ指示を出すに至る。
――。
――――。
扉が静かに閉じ、コフィレスト・バーゼルは客間を出た。重厚な扉の向こう側はまるで別の世界で、大理石の冷たさがどうにも足先へ伝わる様相をしている。老いた男は突き付けられた『懲戒解雇』の二文字に立ち尽くすでもなく、大使館の廊下を一歩、また一歩。廊下に積もった静寂を確認するように、堅実に実直に足を繰り出していた。
その歩みに揺れはない。
ポケットへ手を突っ込んでいるのは、肌寒さを覚えたからであろうか。彼の視線は決して後から悔いて下向きに落ちてもいない。油断なく前を見据え、灰の目は高潔な意思も汲み取れよう様子だ。足音は、客間に響かせた重く引き摺るような音ではなく、規律正しく、そうあっても静かなものだった。
廊下の角を曲がると、不意に立ち止まった。白髪混じりの頭を擡げれば、窓の外に。客間で浮かべた不敵な笑みも、疲弊した濁りもない。あるのは、遠い昔を覗き込むような淡い記憶だけだった。
「セグナンス……か」
バーゼルは、誰に語るでもなく、呟いた。奏でた言葉は誰に届く訳でもなく、淡々と長い廊下に吸い込まれて行く。
「そうは言ったものの……厄介な客であろうよ。殊更気に掛かるのは、あの黒い娘子だな? あれは、どうにも意図が読めんが……」
彼は懐から、使い古された小さな革の手帳を取り出した。頁を開けば、びっしりと几帳面な筆跡で日付と、簡潔な記録が並んでいる。最も新しい白紙に、彼はさらさらと万年筆を走らせて、書き加えた。
『隠居計画は概ね予定通りだが、要注意事項あり』
「梯子から滑り落ちたと考えるべきか? それとも、刺さった針が抜けたと見るべきか……?」
自嘲気味に口元が動くが、直ぐに彼は表情を引き締めた。
「然しね、公女殿下の『瞳』は、あの頃のように……綺麗なものであったな」
彼が胸元に手をやると、上質な深い茶色の三つ揃えの中にあって奇妙にも硬い物体と指先が触れた。それは、公女から幼い頃よりも前、彼が毎日を同じ様式で過ごすようになっても肌身は出さなかった、誇りだ。小さな飾りは――外交官の徽章――今日、彼は懲戒解雇という形で、その役目を終える。
この胸元で輝く徽章との長い連れ添いも、此処まで。
バーゼルは手帳を丁寧に仕舞って、再び歩き出す。今度の足取りも、廊下の絨毯に吸い込まれるように静かだ。
彼は知っている。外交官とは『賊』であり、時として国益という名の獲物を囲う為、地位や評判で築いだ牙城を『楔』として穿たねばならない事を。
アガレス王国を侮蔑する風潮は、帝国の腐敗の象徴であり、彼自身もその一部となっていた。然し、その『楔』の役目こそが、複雑な立場であるリリー公女殿下に体制の病巣を切る大義名分と機会を与えたのだ。
彼は、自分の行動が公女に利用される事を予期し、そして受け入れていた。
何故か。
長年の経験が、この腐敗した体制の終焉を求めていたからだ。
バーゼルは大使館の通用口に差し掛かった。扉を開ける直前、彼は最後にもう一度、公女の言葉を心の中で反芻した。
『あなたは本日をもって、懲戒解雇よ』
白髪の老外交官は、静かに、そして誇り高く頷いた。誰にも聞かれない声で、自分自身に弔辞を述べ、そして大使館を後にしようと――。
――間際、気付いた。
通用口の傍ら、黒いルシアがぽつんと、咲いていた。
「……」
普通の若者ならば、不便さに泣き付くか苦言を呈するものだ、或いは高慢になる――だが、黒いルシアは多彩の渦中にあって染まらない。
手にした学徒鞄と、黒衣。質の良い仕立て屋の仕事か、帝都を賑わす最新の革靴は目を引く。頭をすっぽり収めたボンネットに、誰かを送るように伏せた瞳。
それは、人目のない所。賑わう帝都と、異国を区切る鉄製の門。関係各位用の小さな戸、の、傍ら。青い、若葉を揺らした木影に身を滑らせて息を休めている。
風に押された木のざわめき、視界を過ぎる未だに青い筈の、木の葉。
彼女は手を首に当て、関節を鳴らした。
傾けた頭に伴って、流行りの髪形は揺れる。僅かに鼻腔を擽るのは、ルシアの香り。はんなりと漂うその奥、息を殺す香りだ。気付けば、意識を縫う香り。語り口は儚く、あはれ、いと淡い声のようだ。
掛かった前髪の隙間、覗く目玉は、石や木に宿る温度より低い。新鋭の魔導車とて、少なくともその車体はさして冷たくはないだろう。コフィレスト・バーゼルの意識の裏面にぼんやり浮かぶのは月だった。
夜となれば浮かぶ三つの天体。月明かりは決して冷たくはない、そして、また、平らな温度域にも存在しない。依って、低い目は、凍えはせず息遣いはないと言える。
「っ……」
息を呑む。
コフィレスト・バーゼルへ虚空を眺めていた瞳がつつつ、と、寄った。豪奢なフリル溢れる袖内から、白い手をにゅっと生やして。なにかを言うでもなく、ぽんぼんと肩に乗った落ち葉を払う。
すると、頬に影を増やした。
微笑みは意図が読めない。会釈したのかも定かではない、彼女の存在は異質だ。
「……、…………」
頭を下げたのか、本当に、バーゼルは判断出来なかった。
今や、彼女の足音は遠い。呆けた彼の横をとうに抜け、ゆっくりと大使館の奥部へと向かっている。
消えそうな程の足音に、コフィレスト・バーゼルは目を閉じる。
人生とは『楔』を為し得る。あのレイ・グッドゲームという存在は、彼の対峙したどのような狡猾なる獲物にも当て嵌まらない。
「帝都公女よ? あれは、病巣を切り取る都合が良い道具ではなく、もっと――そうあろうが、ね? のっけから、違えていたのやも知れん。あれがどうも、帝都を灰燼にする業火でないと、私は祈る」
『恐れ給えよ、有り得ざるルシアを』
独り、コフィレスト・バーゼルは喉奥で笑う。その姿に負いはない。
それは、コフィレスト・バーゼルの警句である。その姿に老いはない。
恐れ給えよ。
文章密度高くてすまなぁあい。読んでくださり、感謝歓迎。




