珍しい青の靴。
☆
シルトの教会は限りなく無傷に近い状態で現存する。これは他の建造物とは全く違う原理で建てられたからだ。曰く、先代勇者よりも前にこの教会はなかったのだと。途方もない昔からあるらしいけれど、アガレス王国のみならずこの大陸『アースウェル』に点在する教会はレイちゃんが造っている。
少なくとも新たな教会を建設する流れもなく、現存する教会は例外なく同じ造形だ。椅子なりなんなりは別にしても、大まかな形は変わらない。その理由は先代勇者が願った『平和の実現』であったそうだ。
先代勇者が召喚された時代は不毛の地であったらしい。長い戦争がそうさせたのだ。大地と気候を歪に曲げて、人は絶滅に追いやられたのだ。至る所から溢れる黒波に押し潰されて、人同士で馬鹿みたいに共食いして。それは相当に凄惨であったろう。
先代勇者の願った平和は叶ったと思う、少なくとも絶滅していないのだから。
「……どうして、ゆうしゃさま……?」
「……、……」
袖を掴まれて、僕は立ち止まっていた。いや、立ち竦んでいた。
あゝ違う、直面しちまったのだ。
先代勇者を引き合いに出してまで現実から逃げていた。
先代勇者は勇者だ。なら、こんなにも立ち眩んだ僕は勇者であろうか。
解は決まっている。
「ゆうしゃさま、なんで、こたえてくれないの……?」
怪我こそ、ない。年端も行かぬ少女は、その碧眼と小麦の髪はアガレスの民だと分かる。赤い頬に、簡素なワンピース。青い靴は親から貰ったのだろう、新品なのか宝石みたいだ。
ちょっと此処らでは覚えのない珍しい意匠だ、まるで――そうだな。
「ゆうしゃさま?」
「……、……なに?」
「ゆうしゃさま……なんで……? どうして、きてくれなかったの……?」
「……、……そうだね。僕は、他の勇者とは違うんだ」
その場に屈んで、僕は女の子と目線を合わせた。そんな行動を、そんな姿を、こんな事を普段通りの僕はしない。きっと、目線を合わせるなんてしない。受け止められないから、流して、流れて、見透かすだけ。
女の子は泣いてはいない。泣きそうな顔でもない。真っ白な僕を『勇者』だと信じているだけだ。
「どうして……? ゆうしゃさま……?」
「……例えばそう、君は僕がどうして居なかったか分からないんだろうね。それは、遠かったからだよ」
「でも、おうじさまはきてくれたよ?」
「……、そうだったね。うん、そうだ。僕は……」
なんで僕は言い訳を考えている?
方法なら幾らでもあった。選択したくなくて、流されて、甘んじていたのは僕だ。曖昧にして、どっか馬鹿にしてたんだ。異世界ってのを、馬鹿にしてるんだ。目の前を現実だと信じずに、夢みたいに馬鹿にしてるからだろうに。
世界を救う、とか。誰かを助ける、とか。後ろに括弧を付けて、笑いを含めて、馬鹿にしている人間だからだ。どれも、これも。僕が招いた現実だ。
なら、そんな僕がどんな言い訳して、どんな嘘を吐いて、どんな面をすれば良いってんだろう。表情なんて作らない、表情なんざ作らない。誰かとの関わり方を見失った僕に、軽々しく関われる程に誇れない。生き恥を晒して、世間にずっと指差されて、集まる目に目眩がして。
そんな世間に酷くつまんない顔で、少し顎を上げて、見下ろすように僕は視線を向ける。
「ゆうしゃさま……わかってるの。ほんとは、きてくれたって」
「……、うん」
目線を合わせたから。ヤンキーみたいに屈んだから。前に下げた手を小さな手が握った。女の子の体温を鮮明に感じる、指先に鼓動が伝わっている。
「ゆうしゃさまは、まいにちすごく、たいへいそうなの」
「まあ、そう言う意見もあるよね」
「だって、みんなのごはんとか、おうちとか……」
手を握ったまま、きょろきょろ見渡していた。此処は教会の近く、帰る場所を失った人々が暮らす臨時住居が犇めいていた。僕が用意したものだ、書類に承認して、足りないなら会議して、色々に交渉して、掻き集めた物だ。
僕が手を回さなくても、何処かの誰かがやっただろうけれど。
教会前の大通りは臨時住居ばかりで、隙間を縫うように小さな子供達が駆けている。遠巻きに僕を伺うのは、それなりに齢を重ねた人達だ。単に気が引けるのか、女の子のように近付いては来ていない。
あゝそうじゃないな。
「ゆうしゃさま、ありがとう……」
「……、どうも」
「でもね……、でも……」
手は冷たい、僕の手は感情の隆起はない。心肺も女の子より小さくて、緩慢で。
「どうして……」
ぐっと。地面に顔を伏せた。女の子の肩が次第に揺れて、ゆっくり僕に戻る。目尻に涙。流れる間際だ。
「おかあさんかえってこないの……?」
「……君、名前は?」
「わたし……るーし」
ルーシ。
僕は膨大な数の書類を呼び起こす。女の子の身形を注視する。アガレス王国で多い小麦の髪、透き通る碧眼、手首に巻いている飾りはミサンガのようだった。あの飾りは、確か。
そうだ。知っている、僕は知っている。シルトの民間伝承だ。海に繰り出す者が多い海運都市シルトにある、お呪いだ。はは、呪いとは笑える。本当に。
「ルーシ、君の名前はルシアから来てるんだろうね。きっと君の親御さんは……」
あゝ違うな、これは違う。
そうじゃないな。
僕はなにをほざいている?
気付いたから、女の子の不思議そうな顔を確りと見据え直す。現実を直視する。鮮やかで、艶やかで、目玉が痛くなる目の前をちゃんと見る。
ルーシ、有り触れた名前だ。ルシアに因んだ名は珍しくはない。
だが、手首の飾りは漁師や海運都市ならではの、海商関係者が身に着けている場合が多い装飾だ。
親と子で左右別で、揃って初めて価値が生まれる。揃わずやっと、意味が生まれる。
右手に通されたミサンガ。
つまり、親は左手にミサンガをしている。海商関係者、或いは漁師関係者。でも、女の子が探しているのは母親だ。となれば、力仕事ばかりの漁師の線は薄い。
「……、君の親御さんだけど、念の為に確認しても良いかな」
海商関係者。女性。女の子は見た目、舌っ足らず、身形からして十代ですらないだろう。推定八から九として。
アガレスの結婚、出産に至るまでの年齢平均は日本より低い。統計からすれば親は二十代前半だ。
二十代前半。
金髪碧眼の女性。
左手にミサンガ。
海商関係者。
娘はルーシ。
「……」
特定には十二分だ。十全だ。
海商関係者は身元書類を確りと管理し、提出している。行方不明者の数だけじゃない、名前も分かっている。個人を特定出来るだけの、身元判別が可能なまでの情報がある。人相書類を、僕はさも当然の如く覚えている。
忘れてない。
「君はルーシ・ソレスアちゃんだね」
「うん、そうだよ……?」
女の子は僕が家名を口にしても、理解しなかった。一度足りとも君は口に出さなかった癖に、未熟で幼くて気付きやしない。
僕が口走った言葉に、遠巻きで伺っていた老夫婦がはっとした顔をした。次に口を開こうとする僕を見て、思わずと言った素振りで手を伸ばしている。
でも、僕は躊躇いなく口に出せる。幼い女の子に嘘は吐かない。そっと肩に感触。見るまでもない、ずっと傍らに控えていた聖女様しか有り得ない。
「お母さんはフィーアだね?」
右肩、がしっと掴まれた。
金属の感触、鋭い感触だ。強く握っているのだろうか、だから、なんだってんだ。洗礼服はこんなもんじゃ破れやしない。傷付きはしねえ、こんなもんじゃあ『先代勇者の服』は壊れない。
カライト聖女。
お前は僕に刹那的で、最も屈辱的な台詞を吐かせるつもりなのかも知れないけれど。
図に乗るなよ聖女。
「君のお母さんはね、死んでた。見付かってるよ」
「……っ!」
右側から息が詰まる音がする。より、一層右肩に圧力が増した。女の子、ルーシは言葉尻だけを捉えたのか一瞬花が咲くような顔をして、顔をして。
そうならないように、態々そうした僕に。言葉を簡単にして、順番は間違えずに言った僕に。
「死んだんだ。お仕事をしてたんだね、海にお母さんはいたよ」
「……おかあさんは、いいものあつめてたの」
「うん、知ってるよ。君のお母さんは海商だ。そんな君のお母さんは……昨日だ」
手を取るルーシに、僕は笑わない。笑顔も作れない僕は、温かい声すら作れない僕は、平坦に淡々と指摘出来る。
「ルーシ、君はお母さんを見てるよ」
「……ちがう」
「違わない、見た筈だ」
「ちがうッ!」
「いや、会った筈だ」
「ちがう……ちがうッ! ちがうッ! ちがうッ!」
僕を平手で、ばたばたしている。叩いているのは僕の腕。洗礼服を貫通しやしない打撃だ。
「そうかい、そうだな……まあ、そうかもね。良いんじゃない? それでも。僕は咎めないし、間違いだとは思わねえさ。でもね、ルーシ。変わらないんだよ、そうやっても現実ってのは」
「ちがああぁうッッッッ!」
耳鳴りがする程に高い声だ。声変わりしてないからだ。
「うん、思い出して来た――フィーア・ソレスアの死亡報告書類に目を通した感じ、死因の推定は頚椎の骨折だ。頚椎って七つあって、五から四番目を折ってたみたいだな。だから、肺の中にあれだけ水が入ってたんだろうけど……」
ロスウェルが墜落した衝撃で、塵のように吹き飛ばされたに違いない。
背中側から衝撃を受けた、或いは首に飛来した物体が激突したに違いない。そのまま陸から押し出されて、海で溺れている。
最悪なのが、脊椎骨折の原因だろう外傷、打撲傷しかなかった事だ。
要するに、フィーア・ソレスアは藻掻けずに苦しみ死んでいる。
人間の身体は、可動するには電気信号が不可欠だ。その電気信号は脊椎の骨折と共に自律神経系を切断され断絶され、絶縁されてしまったのだ。
碌な死に方じゃあないな。
呼吸系は生きていたのだろう。手足の怪我もない、爪も剥がれちゃいないし、素足だったのに怪我はなかった。
「……待ちなさい、それは……それ以上口にしては」
「黙ってろ、神来社 字。今、俺が話してる」
日本語でぶん殴れば、びくっとした手が離れた。震える彼女を他所に、僕はルーシ・ソレスアを改めて見透かす。
「君は此処で、天に葬送される姿を見ている。加え、君のお母さんは間違いなく死んでいる」
「ち、ちがう」
「君のお母さんの死因は溺死だ」
泳げず、息は出来たまま。海に放り出されて、海底に。
その時に、フィーア・ソレスアはどんな景色を見ただろうか。
キラキラした水面は、遠かったろう。
「君のお母さんに罪もなければ、罰も受けちゃいない。でも、苦しんで死んだ」
「……、……うぅ」
「僕の所為だな。僕がロスウェルを墜落させたから、だから、ルーシ――君のお母さんは、僕が殺した」
「……、さない……」
凄く小さい声だ。殆ど息遣いと変わらない。声が音を成していない。だから、聞き取れない。汲み取れない。
「ゆるさないぃッッッ!」
叫びは最早、衝撃だった。
僕は、すかさず立ち上がった。顔を引っ掻かれたくはないし。
遥か真下に、右足に抱き付く小娘を見る。
「あああぁあああッッッッ!」
僕は、小娘を酷く億劫に見る。足に絡むルーシ・ソレスアを澄ました顔で俯瞰する。
勇者ならば、そうはならないのだろう。
僕は君の勇者様ではないから。
思いっ切り足に力を入れて。
抱き付く子供を、ほぼ蹴るように。
ぶん投げるように。
容赦なく、躊躇なく。
「邪魔」
放り捨てる。
矮躯が空中で回っている。
当たり前だ。
僕の膂力だ、本気で蹴り投げたのだ。絡んで、抱いて、足を離さないのだから。足を本気で振って、解いて、当然急な動きに小さな手が掴まり続けられる道理はない。
地面を跳ねて、ゴロゴロして。遠巻きに見ていた老夫婦に突っ込んだ。ちょっとした騒ぎだ。
僕は、息を切る。ポッケに手を突っ込み歩き出す。もう、目を向けない。構わない。
「貴方はなんてことをッ!?」
咎める声。神来社字だ。慌てた様子で駆け寄っている。
周囲の目を、集まる声を、僕は聞き逃さないし見過ごさない。
そんなに器用じゃない。
「勇者じゃない」
「勇者様どうして」
「わざとだろ」
「人の心がねえのか」
「蹴るこたぁねえだろ」
「大丈夫かい」
「あんたぁ、ようやっとるよ」
「勇者」
「勇者さま」
「勇者さん」
「勇者」
「ゆーしゃ」
「勇者様」
僕は勇者様じゃない。
だから、もう知りゃしない。
関係ない、関心がない、興味がない、どうだって良い。
ぁあ、どうでも良い。
心底から、どうだって良い。
下らない、碌でもない。
「損なもんだ」
現実ってのはな。
「ん……あぁ、そうか」
だから、あの青い靴に気付いていたのか僕は。
――何時から?
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――――――最初から。
作者より
あの、小麦って表現で。小麦粉って出たんすよ。予測変換で。
もしかして、いや、今まで使った『小麦』は知らぬ間に『小麦粉』になって……いや、まさかな……?
どうだって良いけど。