ネガティブ&ポジティブ
さて、夜更けに出歩いて二人の聖女と出遭ってしまった昨日の晩をさらりと振り返る。『ご機嫌よう』とかほざいたが、僕はあの後セルフちゃんと共に帰り道をだらだらした訳だけれども。
なにをトチ狂ったか、身からより、口からこそ出た錆で僕は朝方から苦しんでいる訳だけれども。
宿屋に関して、ふらっとセルフちゃんを送った際に空き部屋へ押し込まれ、見知らぬ天井を進行形で眺めている訳だけれども。
豪華とは呼べず、さりとて十二分に広い部屋だった。目覚めは頗る快調ではないけれど、少なくとも順調ではある。
適当に『明日の午前噴水で』とかほざいたのを思い出さなければ、まあ悪くない朝だった。
窓から射し込む朝の輝きも、温かな紅茶が仄かに揺蕩う室内も、小鳥の囀りも、一つ一つは実に優雅で眩しい朝って奴を演出している。
視界の端、銀色が靡く。ベッドからちょっとばかり離れた机に、紅茶をセットし、朝食のパンを手慣れた動作で用意する侍女。
目が合った、いいや、この場合は遭ったと言い直すべきか。
ベッドでだらだらする僕を咎めるでもなく、アイリスさんは微笑を湛えているではないか。以前なら表情を作らず、感情を出さず、生真面目に澄ましていたのに。
僕から話し掛けない限り、話し掛けようとはしないのが幸いか。
必要以上の干渉をしないのはアイリスさんらしい。紺のスカートが動きに伴って、白いエプロンが朝日と重なって、結った髪を仕舞い込むモブキャップに、胸元や手首に伺える蒼の鉱石が瀟洒にして可憐な侍女を演出している。しかも見ていて面白いのが、物音がない点だろう。
驚いた事に、視界に存在しなかったらアイリスさんが居るとは思えない静寂だ。目の前の侍女が幻っぽくて、でもやはり存在しているし、紫の瞳は円で、冷たくて柔らかい。全ての用意が整ったか、壁際にすっと立つとなにを言うでもなく待機している。目配せをするでもなし、正に侍女の理想像だ。
ベッドの上で転がる僕を起こすでもなし。
多分、起床の身支度等に手を回さないのは、普段、王宮侍女から逃げ回り断り続けているのを知っているからだろうけれど。
『おはようございます旦那様』とか『おはようございます御主人様』とか、呼ばれたい気持ちはあっても、王宮侍女様はそんなけったいで面倒な僕を鑑みて終始言を発するのを控えている。
ベッドで寝転がり構うなって風体の僕が悪いのだけど。アイリスさんはそう言った事情を知っていて過度に関わらず、他の王宮侍女様達のように朝食の用意、着替えの用意、挨拶は慎み壁際で控える、を忠実に実行している。
「ん……?」
香りだ。
懐かしい香り、ああ、そうだ。これは、アイリスさんから仄かに舞って来たものだ。僅かな風に乗って、ベッドに埋もれる僕に手招きするかのように。
ふと、過る。
あれは、きっと嫌になる程冷たい冬の午後だったろうか。
脇に用意された新しい洗礼服の白さが目に焼き付いたから、雪がチラつく大学の裏通り――カフェの窓際、木製のテーブルにコーヒーの湯気が揺れる『あの場所』が視界に被った。
向かいに座るしーちゃん――あの日は、ニットにセーターとマフラーを巻いて、六法全書みたいな本に頬杖を突いてたかな。珍しく『普通』だった。
「しー、さぼってると良くないゆ? テスト近いじゃん? しー的には、どーでもいーかんじ? かなしいなゆ」
喋り方は『イカれてる』けど、概ね正常だ。しーの声は軽やかで、僕を『しー』と呼ぶ笑顔は、まるで。後々にセルフちゃんにも重なるものだった。偶に、似てないのに被るんだよな。
「どーでもいーかんじー、だね」
僕はノートを閉じ、窓の外を見る。雪が積もり始めた歩道、街灯の淡い光が始まったばかり。冬時期の日本、夕暮れと宵闇の中程にある景色。時の移ろう合間にちょっとだけ姿を現す様子は何処か儚くて、強く記憶に刺さっている。爪の間にささくれが入り込むようなしつこさだ。
「雪国とかさ、憧れない? 電車で、トンネル抜けて、白銀の世界見るんだよ。どうだ、しーちゃん、一緒にさ」
しーは目を丸くして、コーヒーカップを握る。白い湯気の上がるカップだ。もう片方の手はミルクと砂糖を探している。暗褐色の水面、拘りの香り、全てオジャンにしてしまうのを僕は知っている。糖分イズ最高らしい。
「急にロマンチックかよー、なんでやねーん。でも、いいかもー。雪見酒とか、絶対映えるー!」
暗褐色の水面にどぽどぽぶち込むのを横目に、僕はカウンターの奥、花瓶に挿された小さな白い花が鼻を擽ったから目を向けた。名前は知らないけど、しーが以前『これ、好きかも』と指差した花だ。甘い香りが、今も記憶に新しい。セルフちゃんやアイリスさんから香る花に近いからか、どうしたって思い起こすのだ。
「しーくんさあー」
「んー?」
「医大やめてさー、冒険者にならないかー? サルベージ依頼あるでごわすー」
甘々で円やかなコーヒーに持参したストローを挿す様子を見やれば、傍らに置いていたノートパソコンを弄っている。蒼の瞳が文字列を追っていて、反射した文字はなんとなく独語っぽい。それこそ、そんなんだからあっちに浪漫ある海なんざあったかな、とか僕は考えていたのだ。
「サルベージね、潜水艦とか? マニア受けはあるっぽいけどな」
「おーいぇ、あいあむっ」
「マジか、Uボートねえ……」
「のんのん、伊号四百なり」
「なにそれ、なんでそっちで沈んでんの? そも製造番号は? 製造あんましされてないだろ?」
「伊号四百の幻の零番さー! 水カメでかくにーした感じ? 浸水箇所なさそーだし? 外観はまともーだし?」
「轟沈したんじゃなくて?」
「おーいぇ、海底七十八メートル、天然の洞窟に停留してんのよー」
「へえ、ロマンあるね。でも、それ酸欠になるんじゃない? 終戦から何年だよ? 密閉空間、換気なし、金属の酸化は相当だろうし?」
「そりゃスーツよ」
「七十八メートルも潜るの? いやぁ……冒険者だね」
しーの冗談みたいで大真面目にガチな話に、僕は肩を竦める。
「あぁ。だから冒険者と、成る程ね。なら、しーは魔女? 呪文は金さえ積めばなんとかなる、でオーケ? 因みに僕は金では動かないぜ」
「失礼! ごちそーしないぞっ! 金欠大学生っ! しーくんこそ、冒険者だったりしたら即全滅コースじゃん! あ、内輪揉めでっ!」
「リアリティあるなそれ。いや、ごちそーはして欲しい。普通に財布忘れてるからさ、頼むよ」
やっぱり金に靡く奴だったから前言撤回。
「ごちそーされるの、あたりまうぇいってかんじー?」
笑い声がカフェに響く。雪が降る外の世界と、温かい店内の狭間で、僕等はまるで時間が止まったみたいに話した。彼女の笑顔、雪の白さ、花の香り――あの瞬間、僕は確かに『しーくん』だった。誰かの期待や汚名じゃない、単なる僕だった。
でも。
今、アイリスさんの瞳と花の香りに、僕はあの冬のカフェを思い出す。セルフちゃんの『勇者様』という言葉が、アイリスさんの『勇者様』なんて囁きが、しーちゃんの笑顔と重なる。でも、記憶はささくれ、蓋をする。
『しーくん』は、もう誰も呼ばない名前だ。此処には、呼ぶべき人もいなければ、呼んでくれる人もいない。
僕はベッドから身を起こし、背筋を伸ばす。次いで、アイリスさんを伺う。小首を傾げ、少し微笑んだ。
「おはようございます、アイリスさん」
「おはようございます、勇者様」
「セルフちゃんは?」
「聖女様は自室にて支度をしております」
「手伝わなくて良かったんですか、僕なんかより。そう思うんですけど」
「聖女様からの指示でございます」
「そう……」
他に思い付く話題がない。ばっとは出て来ないから、僕は傍らの衣服に手を伸ばす。誰かに着替えを見られるのは慣れないけれど、誰かに着替えさせられるよりは幾分か気楽ではある。そそくさと着替え終え、手首のカフスを弄りつつ、数歩離れた机に向かう。引かれた椅子に腰掛け、パンと紅茶に手を伸ばした。
「……昨日、セルフちゃんを一人にしたのは何故です?」
天気の話題でもしようかなと思って、窓に目を向けてから思い付いた。アイリスさんにしては珍しく、セルフちゃんを独りぼっちにしていたのが不思議だったのだ。外を見ても瓦礫ばかり、飽きた景色より美人でも見ようとアイリスさんに向ける。
「聖女様より申し付けられておりませんでしたが、控えてはおりましたよ」
銀の髪は結っていて、項につい目が釣られる。朝日が射し込む窓に目線を流し、瀟洒なアイリスさんはゆっくりと瞬きを繰り返す。思慮、なにかを考えているらしい。僕は続く言葉を期待して、パンを粗雑に咀嚼し、嚥下する。
「私は空にて控えておりましたので、勇者様方に悟られておりませんでしたが」
「飛べるんですね……?」
「飛べますが、厳密には立っていましたね」
空立てるんだアイリスさん。凄いな。
内心、原理が気になったけれどパンを齧る。やや硬い。この硬さで思い出したけれど、シルトの復興は快調ではあるが万全ではない。特に飲食、山間から開通させていた水路が断絶したままであり、仮組みとしての復旧工事完了すら推定するに半年程は必要だ。古来人種が優秀で勤勉とは言え、だ。
では、シルトの物資難はどう補っているのか。昨日食べた肉が一体なんの肉であったかを考えると自ずと答えは絞られる。
そう、オートロ《馬車》や赤竜だ。
特筆し後者は腐らない、毒もない、大量にある、希少価値があり値打ち物、と様々な方向性で便利な赤竜である。
唯一問題があるとすれば、肉に含有する霊力密度が高いので一般人は大量に食べられない点だ。
幸い、肉との物々交換にて食料問題は当面安泰ではある。赤竜の恩恵を授かる約束で巨大な行商組合と手を組んだので、飲食の補填は問題がない。
肉如きに大盤振る舞いだなとか思ってはいたけれど、肉片ですら利用の幅は広いらしい。研究でも、素材としても、食べ物としても、赤竜は破格なのだそうだ。
僕からすれば鳥なのか牛なのかも分からない肉なだけでも、セルフちゃんからすると霊力回復にもなるし、珍しい高級食材でもあるのだそうで。
先代勇者が討ち滅ぼした竜も、そうしてアガレスの民の胃に消えたのだと。
故に、シルトは飢餓に苛まれるような事態にはなってはいない。
「セルフちゃんの予定は?」
「引き続き、奇跡の代行と聞いております」
「そりゃまた大変だな……」
「……」
沈黙が怖い仲でもなし、無理に会話をするべきでもなし。暫く無言で朝食に専念する。
僕が脱いだ洗礼服を折り畳み、片腕に掛けたままベッドメイキングするメイド様の様子を伺う。とても静かだ、朝特有の、これから一日が始まるって空気である。
宝石のような瞳は、その横顔は幻想的だ。優れた絵画を見たような充足感に何時までも浸る僕でもなし、丁度良い話し相手、情報の精査を行える聞き手って点に着目する。
近頃、色々あったから。
「えっと、話は変わるんですけど。最近、シルトで流行ってる噂とか知ってます?」
「噂、ですか。はて、存じ上げませんが……」
アイリスさんは片腕に洗礼服を掛けたまま、紫の瞳をぱちくりさせている。可愛い、超、メイドだ。
「行方不明になるそうですよ、夜にひっそりと」
「噂ではなく、実際に被害があるのですか?」
「どうも本人に『自覚』はなくて、『なにか』に導かれるように子供ばっかりが神隠しに遭うらしいですよ。あくまでも現状、噂の段階ではありますが」
「不安が積もったが為に、そうした暗い話題が生まれるのでしょう。と、普段ならば判断しますが。勇者様は、そうではないとお考えですか?」
「噂の出処はともかく、実際消えてるみたいです。なにより、忽然と消えてしまうのはどうにも御伽噺って感じだと思いません? ある日……突然ですよ? 隣の誰かが、前触れなく居なくなってしまうのは、納得する理由が必要ではありますよね」
まるで、ハーメルンの笛吹きのようだ。
笛の音色に該当するのは一体全体、なんなのかは知らないけれど。
鼠自体はいないが、鼠みたいになにかがシルトに潜り込んでいるのかも知れない。
僕はまた、こんな世界で探偵をやっている。誰かに頼まれたから動いているのではないし、仕方なく周囲がそうさせた訳でもないけれど。
それだって良心が痛むでもなく、ある種自己満足に近い。でもこれは決してそうしたいからじゃあない、単に目に止まっただけ。
書類整理をしていて、供給と消費が釣り合わない、とか。違和感とか、気になっただけ。
掘ればどうやら、ハーメルンみたいな話を耳にした。
『しー』はこう言った碌でもない、下らない、或いは好奇心を擽る話題が好きだったから。そんなのに付き合って損な役回りばかりに巡り合って、僕は生きていたから。
癖とか、習慣って奴だ。
「勇者様、移住した可能性はないのですか? シルトの復興は一朝一夕では終わりはしませんし、他の都へ職を求む方もいらっしゃいますから」
紅茶を飲んでいるとアイリスさんは不思議そうで、更に首を傾げた。
「その可能性はありますね。実際、商人の馬車に相乗りする形でシルトの住人のいくらかは別の街へ旅しているみたいですから。でも、それにしたって子供です」
「古来人種……でもなく?」
「僕も初めはそう勘繰りましたけど、ヤームさんはカフェンを、モルちゃんはタウタさんが率いていた者達を纏めているじゃないですか。つまり、彼等である筈がないんですよね。逸れ、にしたって十人以上って噂ですからね。ちょっと多過ぎるかな」
古来人種は基本、コミュニティから逸脱しない。タウタが率いていたコミュニティはなんやかんやあって、元アシャカムの最年長、ヤームさんが実質率いているようなものだったりする。
一応、モルちゃんがタウタのコミュニティ後継者にはなるけれども。ヤームさんはあくまでカフェンクランの族長代理だ。
族長が不在だし、未熟だから、カフェンクランの細々とした雑事を纏めて請負っているのが現状である。
故に、二つのコミュニティは本来であれば交わらないし犬猿であったが、シルトで矢鱈に古来人種達を見掛けるのはそうした背景あっての事だ。
要するに、ヤームさんが取り仕切っているから逸れの古来人種が存在しないのだ。
老兵なり歴戦の猛者なりのアシャカムがロスウェルとの戦で喪失した今、ヤームさんより経験と実力のある者が存在しないので、まあ、反骨精神溢れる逸れってのは発生していない。
子供の正体は古来人種ではない。ちゃんと子供だ、だからこそ可笑しい。子供だからこそ不可解なのだ。
「――となると、悪意ある第三者を疑うべきですね。直近、怪しいと言えば終末人種の手の者、でしょうか?」
「うーん……犯人像はこの際後回しですね、着目すべきは子供が忽然と行方不明になる、そこ自体であり、こうも言い換えられます。子供は何処に行ったのか?」
「……そう、おっしゃいますと?」
上手く伝わらないようだ。アイリスさんは地頭が良い人だけれど、時折、こう、天然っぽい。剣を首で受け止めたりもそうだが、アイリスさんからすると何故斬れないのに振るうのか『心底から分からず避けなかった』のだそうだ。
「子供って思ったより体力ないんですよね、早々遠くには行けやしないんです」
「そうですか? 子供とは言え街を跨ぐのは可能では。森ならば理解出来ますが、整備された道がありますので」
「シルト近辺は被害が甚大なんですよ。ロスウェルが解き放った魔物も、現存してます。普段のように、中継になる近隣の村もなし……。態々足を運ぶ商人は大御所だけ、細々とした商人達はめっきり減ってもいます」
「商人達が減った場合、子供達の移住が困難になると?」
「ええ、徒歩にしろ、同席にしろ、難儀します。その上で、考えるべき方向性は二つです」
「二つ、ですか?」
「シルトにいるか、いないか、です。いないなら、そうだな……商人とかが怪しいけど……シルトから出ていない場合、犯人像が浮かび辛いかなと。強いて言えば聖職者だって犯人の可能性がある訳ですしね」
「シルトの外に存在する場合、勇者様ならどうなされますか」
「ううん……商人を調べます。検問もあんまり機能してないので、抜けはあるでしょうから」
「ですが、勇者様は調べに向かっていませんね……?」
「逆説的に、みたいな。僕への過分な信頼をありがとう、胃が軋む思いで一杯だ。って、話は横に置くとして。僕は内側だと思ってるよ」
「何故ですか?」
「子供は数十人は行方不明、子供には過酷な道でもあるし、往来する商人達は殆どが契約を結んだ人達だ。竜の素材は国営事業だからね、ああみえて検査ってのに厳しい。つまりさ。ぽっと出、流浪が商売するには不評なんだよね、ここ」
紅茶の揺れに目を落とし、一啜り。朝方から、優雅に会話をする。昔の僕にはなかった体験だ。それにこんなにも綺麗な侍女付きだ。聞き手として徹し、時折会話の方向に手を添えるアイリスさんだから、気楽に口を開いていた。
「不評、要するに、シルトの商いは独占状態だからね。これは意図したものだから……セルブさんにしろウェンユェにしろ、国力低下を喜ぶ奴等が嫌いなんだろうね。損得なら間違いはないかな」
他国の工作員対策でもあるのだろうけれど、直近の竜擬き騒ぎがより強固な姿勢をさせたのだろう。そんな訳でシルトは飛び入り参加に厳しく、信頼や信用がない商人は立ち入らない。暗黙の流儀により、人攫いなんざ不可能に近いのだ。
そりゃあ完璧な統制ではないから抜けはあるだろうけど、全体からすると微々たるものだ。
「内側の犯行と?」
「犯行であるかも疑わしいけどね」
パンを噛み切り、嚥下する。アイリスさんのその透き通るヴァイオレットは、僕の無機質な顔を映していた。
「誰かの仕業でもないとお考えですか?」
「確定してないし、まあ、そう言った意見もあるだろうなと僕は思います」
念の為保身に走る、僕の悪癖だ。一応、とか、そんな見方もあるよね、とか、濁すのが僕の長年積み上がっちまった処世術だ。世間一般では中途半端とか、いてもいなくとも変わらない、こう評価されるだろう。僕だってそう思うのだからよっぽどだけど。
『丨』進むも退くも半端者、正に、相応しい名付けだよ。『神来社 字』は悪意に満ちた才覚があった、僕にこうして棘を刺し続けているのだから、あれは確かに致命傷だったのだろう。致命の一撃のままに宙ぶらりんだ。
天才だった、そう、天才だった。
今は名残り、余韻とも呼ぶべきだけど、天才たる所以を失ったからと言って天才であった事実は揺らがずに、でも丸々の天才の丸々を丸々失った彼女は、果たして天才と呼べるのか。
甚だ疑問だけれども、丸々の天才でなくなとも未だ天才であったのが『神来社 字』だ。
平凡、でもなく。
凡庸、でもない。
極めて歪な、天才らしい天才だ。
彼女は文武両道才色兼備が標準装備の天才で、並み居る努力、秀才を轢き潰したのだから。
天才の程度が違う。
努力は裏切らない、と誰かは言ってたな。勝るとは一言も発しはしていなかったがな。
「アイリスさんは才能ってあると思います?」
そうして、僕が口にしたのは朝食を済ませた時だった。
ベッドメイキングも、脱いだ洗礼服も、朝食の片付けも、全て終えたアイリスさんに言った。
彼女は身嗜みを整え、朝日に蒼のカフスを光らせていた。蒼、ラピスラズリに近い鉱石だ。最初はラピスラズリだとばかり考えていたけれど、此処は地球ではないのだ。
詳しく観察していると、スカーフの留め金、カフスに用いられた碧の宝石は群青の中に黄鉄鉱が混じり、見れば見る程に鮮やかで深く、夜空のようだった。
ラピスラズリ、日本語ならば瑠璃石。けど、じんわりと発光もしているようだ。一種の霊力結晶なのかは知らないが、僕の知らない輝きを湛えて彼女は微笑んだ。
「私は才能を否定する事は御座いません」
「ふうん……」
「意外ですか?」
「それなりに、ちょっと思っていた反応ではないかな? てっきり努力、研鑽する事が好きそうだったから」
「私の中では、才能は積み上がっていたものです。真に、才と呼ぶべきは積み上げようとも越えれぬ壁と愚考致します」
「僕はもっとシンプルに捉えてますね。自他相違、人は他人、明確にして残酷なまでに違う、それこそが才の根底だと考えてます。優劣とか、甲乙とか、双方を見分ける区別、分別、差別、そんな見方もあるかなって思うようになりました」
「勇者様は才ある方です、比類なく高い壁は、誰かが越えるには天に過ぎたものです」
彼女の言い分は、翻訳奇跡頼りだと細部に違和感を覚える。だから、僕は鼓膜を揺らした原文を脳内で組み直した。要約すれば、彼女の言い分は――。
天才は存在する。
天才とは積み上げられた力である。
積み上げられた力である以上、手が届き得るものである。
然し、天才には決して届かない。
天才は天により授かった才ではない。
天才は天にまで突き抜けた才である。
アイリスさんからすれば才は授かるものではないのだ。
いや、厳密には授かったとしても神秘に包まれたものではなく、年月を重ねれば誰でも使用可能になる力と捉えている。
その上で、上回るには年月が足りないと確信するものを『天才』とした。
不思議な考え方をする人だなと思った。
僕は天才をどう考えているのだろう。
否定する、人間だった気がする。才能の存在を、前向きに否定する人間だったような気がする。だって人間讃歌に近くて、前向きに否定していたからだ。
否定は必ずしも後ろ向きじゃあない筈だ。少なくとも僕には明るく思えた。少なからず僕は前を向いていたように思う、少々気掛かりはあったにせよ、肯定に否定する事だって、あるにはあった。
まあ、数少ない事例だけれどね。
おっと、僕の悪癖だ。
脳内言語を日本語にしてからと言うもの、脳味噌が遊び心を思い出してしまう。脳内言語だけ少年と言うかなんと言えば良いのか分からないが、日本語じゃなかった時は遊び心は少なかったように思う。
『Veni,Vidi,Vici《ウェーニー、ウィーディー、ウィーキー》』来た見た勝った、とか言葉遊びだろとか、色々あるけれど。脳内言語を日本語に据えてから顕著になったのは間違いない。
「……」
「勇者様……?」
「ああ、ごめん。宇宙猫だった。なんだっけ、えっと、そう。天才だ。僕はさ、カライト様を天才だと考えてるんですよ」
「優れた、とても秀でた方と存じます」
「知り合いなのもあって、彼女の天才性はなくなったのを知っているんだけれど、それでも神来社字、彼女は天才だよねって話なんですけど」
「私には勇者様の方が天才だと愚考致しますが?」
「……。彼女は、辞書と小一時間もあれば新言語を完全に覚えるよ」
じー、と、ヴァイオレット。
「勇者様も……似たことをしてらっしゃいましたよね」
「……。彼女は、あんなお淑やかな見た目に反し、百メートル八秒を叩き出せるのさ」
じいっと、ヴァイオレット。
「……あの、もっと速いですよね?」
勇者様、と。
「……。音を使って周囲を確認出来るのは、彼女の演算能力が比類なく、……いいや、この場合敢えて間違えた使い方をして強調するけれど。彼女の演算能力は『著しく極めて高い』から実行可能なのさ」
じとー、と、ヴァイオレット。
「透明人間を見破った方法ではなかったのですか」
「……。あれは透明人間だけどちょっと違うかな」
「透明だった、のですよね?」
「見えなかった、認識出来なかった、がより正しいです。視覚自体に作用する認識齟齬、ですね」
「判別可能なのですね?」
じとり、と、ヴァイオレット。
「……。よーし、降参、終わり終わり。僕の負けです。話題を変えましょうか。それでー、おすすめの観光地ってあります?」
「……噴水は商いの入り口として有名です、或いは、正門の巨大な鐘はシルトの名物かと存じます」
「どっちも壊れてる点さえ直視しなければ、ありだよね。昨日、噴水にいたのも目を瞑るとして……」
「そうでしたね。しかし、他となると……竜でしょうか」
澄ました顔だ。
「それは盲点だった。良いね、そうしよう」
アイリスさんの提案に乗っかり、僕は立ち上がった。なにはともあれ、褻にも晴れにも青天井だ。知り合いを訪ねるのも悪くはないだろうし。
そうして僕は、戦略的撤退を選択する。
逃げるようにって例えがあるけれど、僕は威風堂々と会釈するアイリスさんに手を振りながら宿屋から出発したのだ。
戦略的撤退でしかない、逃げたんじゃあない。前向きな選択だ。前進であり後退ではないのだ。
間違いないな。日本語、超、便利。ポジティブでネガティブ。ネガティブにしてポジティブ。
どうでも良いか、なんとかなるさデートなら。
お久しぶりです。皆さんは好きなキャラいます?
私はやはり、年上のお姉さんがですねげは(蹴




