夜の道、帰り道
仕事は大変だ。
書類整理だけなら単純だ。
でも、単純作業こそ億劫だ。
掻い摘めばそりゃそうか。
まあ、僕は得意な部類なので他の人に比べれば疲れてはいないけれどさ。
垂れ布を手で押し、僕は臨時復興拠点からの脱出をしたばかりである。
前までは他の文官達のように缶詰をしていたし、手短に机の上で仮眠したり、椅子に項垂れたりしていたのだ。今は帰宅を許された、勇者だからって贔屓ではなく、ある程度余裕が作れたからローテーションして軽減しましょうね(健康且つ文化的保障に真っ向から引っ掛かるし不本意だが)的な話だ。
救われねえし助からねえな。
僕は人員ローテの後半組であったので、大真面目に贔屓はないし容赦がない。これが勇者と呼ぶ奴等の行い、実態だ。不満は、本音であれば然程ない、暇よりはマシである。暇だと頭が活発化して厄介だから。
夜道の暗さは中々で、三つもある月明かりが足元の暗がりを照らす。唯一の光源らしい光源だが、頼りない。
竜災を経て、シルトの街灯は軒並み破損している。臨時拠点の周囲は明るくとも、中心区画から一歩出れば宵闇が深く被さっていた。月明かりも頼るには夜が勝るし、街並みの灯火を探せど殆どが倒壊し瓦礫でもある。臨時の簡易住居こそ目に入るけれど、物資の供給は間に合ってはいないのが現状で、静かに夜を越さんと皆が寝息を立てている。
何時ぞや歴史会館で見た風景だ。あれはモノクロの写真だったけど、今日見ている景色は白と黒だけじゃあない。だからか、夜なのに鮮やかに映るのだ。少ない色素を鮮やかに感じて、網膜がささくれ程度の痛みを訴える。だけど全てが元の姿にはなれっこない。目の前に転がるこの現実に温度はあるだろう。
それは、冷たいのか、温かいのか。はてさて、どちらだろうと変わりはしないけれど。
「……うーん」
夜の道帰り道、思い起こせばシルトの少ない宿屋は満室ばかり。月が昇った今、空き部屋の確保は至難だろう。最悪、臨時拠点に帰れば良いけれども、気分転換はすべきだ。セルフちゃんにでも聞いていれば、勇者の為に用意した拠点とか教えてくれたかも知れないが、生憎、当たり前に僕は知らないのだ。
記憶を探るが、王宮侍女に揉みくちゃにされた事しか思い出せない。そう言えばあれから風呂に入れてない。臭うかどうか、袖や襟を嗅ぐ。存外、汗が出てないからか臭わない。二日位だからこんなものではあるだろうし、なんなら仄かな花の香りがする。これは、飯処で出会ったセルフちゃんがあんまりにちっさく見えて、本当に実在するのか猜疑心に突き動かされ抱き締めた際に移った匂いだ。
当然、頬に経典が刺さったが、記憶からすっと都合が良いから抹消し、剰え当たり前の顔で話を進めたのだけど。この花の名前も姿形も知らないけれど、懐かしさも感じる。日本で嗅いだのか、それとも『丨』と揶揄された時期だったか、或いは『親友』って呼ばれていたあの時だったか。記憶は曖昧だ、明確にしない方が心は健全になる。
無理に記憶を探ると芋蔓式に溢れ、蓋なんざ油圧の掛かったかの如く圧し折れ、吹き飛ばされるものだ。不幸せにしろ、幸福にせよ、記憶を頼りに縋った生き方にどうも辟易する。辟易、とどの詰まり『尻込み』してるし『うんざり』している。こうでもないああでもない、繰り返すのだから、馬鹿馬鹿しいじゃあないか、と。
下らない事ばかりが、碌でもない言ばかりが、僕の空っぽな内側を強く反響する。ポケットに手を突っ込み歩く夜の道、昼間と違って肌寒さを与える微風につい目を向けて。風の姿を捉える事は叶わぬもの故、僕は肌寒さに身を縮めるのみに留まるのだ。白い服が視界の端にあれば、どうにも雪原だって連想する位に思考が散漫で。
雪国に憧れた事がある、列車の車窓から、トンネルを抜けて広がる白銀の世界に。僅かに、いやでも、僕は憧れたのだろうな。憧れだったろうか、感動したあの気持ちを誰かに伝えたかった可能性もありそうだ。この白い服に、記憶は軋む。
勇者だからと下賜された洗礼服、儀礼剣は邪魔だから初見以来装備はしていない。他にも右肩から伸びる垂れ布とか、教会のシンボルである女神様等、数えればそこそこある装飾を僕は嫌って外して貰っている。王宮侍女達に任せたから、無理矢理に引き千切って不格好にして無様、でもなく、洗礼服の与える恩寵と格式は損なってはいない。
曰く、首元の飾り鎖は引き千切るのが宜しくない。勇者の位を表す胸元の装飾だってそうだ。僕が興味なくとも困るのは僕だし、王宮侍女様方、勇者の側付き様方に御任せしたのだ。侍女ならアイリスさんがいるじゃないか、とも思うけれど、彼女は聖女に掛かりっ切りである。
なので王宮侍女様方に御任せしたのだ。侍女様方は沢山いるけれど、勇者の世話をする人員は限られている。信頼と信用が出来て、他国の工作員でもなく、忠義に厚い人達が選出された。元高級奴隷であったあの人も、工作員の疑いはないらしい。
そんなプロフェッショナル達に任せた洗礼服は何時だって完璧な仕上がりだ。
完璧だから、白い服は夜道だと浮き彫りになって、歩を繰り出す度に気怠さが靴底に引っ付く。
「勇者、うーん、勇者ね……」
多種多様な呼ばれ方をされたけれど、勇者呼ばわりは初めてだ。記憶にある呼ばれ方には、汚名もあれば大切な呼び名だってある。『丨』は汚名にはなるだろうし『天才殺し』は蔑称になるだろうし『しーくん』だけはアイツしか呼ばないし。
他にはそうだな、『先輩』や『若人』も『助手』に『教授』に『先生』辺りは呼ばれていても不快ではなかったかな。変な呼び方には『我が神』とか『独神』とか。信じる者こそ怖いものだけれど、ともあれ、呼び名は無数にある。社会に関わるとどうしても増えるものだし、どんな呼び方も識別表記の役割を果たせていれば問題はないだろう。些細な事柄、要するに些事だ些事。
呼ばれたいものだと『御主人様』と『旦那様』とか、ちょっと期待はある。メイド喫茶とかだとあるんだけれど、今、身近に本物が存在するから本物にこそ呼ばれたい気持ちは当然のようにある。『背の君』とか、妙に重たいし『番』呼ばわりも気に食わないけども。
「勇者だけはな……」
嫌な呼び方がまた増えた。首を鳴らす。宛もなく、目的もなく、単に時間を費やす。適当に記憶や思想を浮かべては独りごちり、足を繰り出しては月や街並みを観察して。人通りもない道は、瓦礫が残っていて歩き難い。
崩壊したシルトの復興、救難活動は同時進行だ。瓦礫の下を弄れば、助けを待つ人だって居るかも知れないし、物言わぬ死体だってあるだろう。今進む区画は、古来人種達の頑張りもあって生存者と死者の運び出しは完了しているけど。もっとシルトの端側、壁側の区画は手が回っていない。
もう、竜災から随分経過したので、生存者には期待しようがないけれど。少なくとも僕は、諦めではなく受け入れる心構えだけは出来ていた。異世界なのだ、屈強な人だっている。アイリスさんとか、力を制限していた時ですら鋼の刃が皮膚を引き裂かない頑強な肉体を保持していたのだから。
探せば、生存者は見付かる可能性は十二分にある。
「…………ん」
これまた随分と珍しい事もある。淡い光源に引き延ばされた人影が足元に、ランタンを手にして歩いていた誰かを観察する為だけに目線を上げる。背丈はそこそこ、平均より低いか。となると、子供でもないし古来人種でもない。装いは、純白だ。
白い服、破損しておらず使用可能なランタン、夜中に態々出歩く人物。流石に不審ではあるけれど、女神教特有のシンボルを揺らして歩く姿には見覚えがある。聖女服の特徴だ、相当に格式の高いもの。聖女にも格式の差はあって、アガレス王国で背に重たいシンボルを幾つも吊るす聖女なんて一人しかいない。
揺れるシンボルを目で追って、黒髪だろうなと更に目線を上げる。
「…………?」
黒髪、ではなかった。白金の艷やかな髪だ、丁寧に念入りに手入れされた髪だ。僕は納得し、やはり疑問に染まる。何故、夜中にセルフちゃんが歩いているのだろう。散歩にしろ、アイリスさんの姿もないのは不自然である。僕は疑問に突き動かされ、ポケットに手を入れたままに足早く接近する。
近付けば近付く程に、背丈は小さく映る。僕の背が高いから、平均より小さいってだけで幼く対比されているだけだけれど。暗がりを照らす光源の揺らめきと、鼻腔を擽る花の香りに生中に確信しつつあった。どう見てもセルフちゃんだ。ランタンを片手に歩いている、寝付けなくて散歩しているのだろうか。
時間としては夜更け、明日に備え床に就くべき時間帯。辺りを見渡すが、隠れられそうな場所もなし、セルフちゃんは独りぼっちで、てくてくしている。
「……」
どうしたものか。振り向かないのは気付いていないのか、気付いた上で悪戯されているのか。ならば僕も悪戯として、両脇に手を差し込み持ち上げてみるべきか。ちょっと構えるが、昼間の言葉が脳裏に浮かぶ。挨拶は礼儀であり、隣人との付き合い方の第一歩である、と。
まあ、驚かせても良い事もないし。
「今晩は、お嬢さん」
「…………」
ランタンが揺れ、足は進む。背中を追っ掛けて。人影を並べ、僕は声を整える。
「どちらに赴かれるのですか、聖女さま」
「…………」
又もや無視である。無視されるような事を僕はしたらしい、思い起こせど、思い当たる節しかない。さて、どうしたものか。セルフちゃんの歩みに合わせ上下するシンボルを見詰め、ぞわりと背筋が凍る。嫌な感じだ。頭が吠えている、嫌な感覚だ。嫌な考えだ。
振り払うように僕は。
「セルフちゃん!」
セルフちゃんの両肩に手を伸ばしていた。
「ひゃ、ひいぃゃぁああああ!?」
手がふっ飛ばされて。跳び上がった聖女が、ランタンと経典を振り回し。僕の、人体急所に抉り込。
「……!」
クリティカル。ファンブル。フェイタル。僕は脊髄反射がない、だから蹲りもしないし、身悶えもしなかった。が。視界に火花が散った。頭を振るう、鈍痛を糧に、狼狽えて経典を振り回す小さい聖女の頭を鷲掴む。
「お、落ち着こうかセルフちゃん?」
「あ、勇者様……」
経典の角が当たる前に、なんとか聖女に認識された。暫くして。呼吸を整えた聖女と並び、夜の道を進む。ランタンの煌めきと、シンボルの神々しさと、むすっとした表情が組み合わさった姿はやや子供っぽい。
「セルフちゃん、どうしたの?」
「……知りませーん、いきなり肩を掴む破廉恥極まるひとなんて、知りませーん」
「悪かったよ」
声掛けして、驚かせようなんざ魂胆もなかった。本当に、本音だ。昼間に、本当に目の前の存在は生き物で実在するのか疑わしくなって抱き締めた、よりは破廉恥ではない筈だ。つい、親友の儚さに眩んで不安になるように抱き締めて確認したのは反省している。大真面目に、今回のは理由が違う。
不安、焦燥はあったけれど。細い部分は違うのだ、疚しい気持ちもなければ顔向けだってちゃんとやれる自信がある。だから、拗ねている聖女様の背を僕は追っている。足早な聖女に、僕はゆったり歩を合わせて。
「アイリスさんはどうしたの?」
「ふふ、初めて、ご自身から話題にしましたね?」
振り向かず、然し咎める言い方でもなく。くすっとした笑みに僕は言葉を続けられず。変わらない荒廃した街並みを見るのすら、逃げ場にならず。仕方なしに、詮方ないけれど、セルフちゃんの聖女服に着目する。故に、気付いていた。物事の形に聡くて、見出す価値や意味に疎い僕だから。
「セルフちゃんはさ、どうして一人でいるの? 一人で出歩くなんて異常だしあからさまなのはさ。なんで僕を揶揄するのか、なんだけど?」
「……、……」
セルフちゃんは困ったように口を結んだ。なにか反論しようとして、でも『流石ですね』とか『申し訳なさそうな顔』とか『気付いた事への嬉しさ』とか綯交ぜになった顔だ。何回か口を開こうとはして、笑って誤魔化すのも無理があって、僕を静かに見上げていた。
透き通った瞳はランタンの淡い灯火で色を移らせ、僕の顔が反射している。
「まあいいさ、話したくなった時でも。それで? これからどうするの? 暇だから付き合うよ」
「……、そうですね、どうしましょうか? 勇者様は……うーん……」
歩みを進めていると、道端に供えられた花束。死者への手向けとして、古来人種が行う文化的痕跡だ。摘んだ花を月に模し編んで、死者が安らぎを得られるようにする為の。編まれた花束は満ちた満月、球体だ。
ヤームさんの率いる彼等の、せめてもの手向けなのだろう。セルフちゃんは傍らにランタンを置いて、躊躇う事なく膝を突いた。両手を絡めて、静かに祈る。文言はなく、然し、背は語る。続く静寂を切って、伏せていた瞼を擡げた。
「シルトの出した死者は、都市の被害に反して少ないんだけどね」
「勇者様は、ご存知ですか?」
「……、まあ、知ってはいるよ。でも、数じゃあないんだろう?」
この区画では、赤い靴の持ち主が見付かっている。有り触れた話ではあるけれど、セルフちゃんの顔を伺って肩を竦めた。数に目を向けるのは合理的で、同時に、数は『亡くなった誰か』を表せる概念ではなかった。唯それだけの話。
「勇者様、間違ったと考えていませんか?」
「……最善、ではないだろうね。最良ともならない」
「それは違います。救えなかった人ではなく、救った人を覚えてください。勇者様、どうか、誇ってください」
「そうかな」
何時だって他の誰かであったなら、脳裏に過る。恥知らずにも全て僕が悪いとは思わないし、同時に僕が選んだのも起因すると思う。であれば、赤竜、ロスウェルだけが悪だったろうか。いいや、そう単純でもない。
ロスウェルは魔王の影響を受けていた、上で、抵抗し自決したのだとクルスさんは述べていた。なら、魔王が悪いのだろうか。直接被害を出したのはロスウェルであっても、追求すべき罪状は他にもある。なんなら、赤い靴を履いた少女はロスウェルではなく、応戦したウェンユェにより瓦礫で圧殺された可能だってあるだろう。
その場合、ウェンユェは悪かったのだろうか。これもあれも、最良でも、最善でもなかった。最悪ではないだけ、どうにもならない事だけは理解出来る。なんざ考えても終わりはない、セルフちゃんの澄んだ瞳に月を見付けて、僕はなにをどうこうするでもなく肩を落とす。
「僕は勇者じゃあないけどね」
「また、そうやって……。まあ、良いですけど」
聖女の小さな背は、シンボルの重さも相俟って儚く映る。そして僕は声を掛けはしない、僕は己を振り返る。こんな時、僕は僕を鋭く批評し、非難する性格をしている。人生の大半を後悔と否定で塗り固めたのが僕である。
セルフちゃんが目的もなく夜道を歩いているのも知っている、目標もないから真っ直ぐも進まない。右に進んでは左折して、左折したり、また右に向かったり。蛇行する夜道を月と共に過ごして、ふと壊れた噴水が目に入った。確か、そう、正門から入ってちょっとにある噴水だ。
元々は荘厳な女神像のある噴水で、市民の憩いの場、商いの入り口として賑わっていた場所だ。今では噴水も破砕され、満たしていた水は石造りの道路に流れている。側溝も一部が破損しているからか、少しだけ冠水もしている。セルフちゃんの足取りは朧気で、道路に散らばる女神像の破片に目線を落としていたように思う。
「勇者様……わたし達は、まだ立ち上がれます。きっと、女神様は、みていてくださりますから」
「そうだと良いね」
どんな気持ちで口にしたのか、数秒考える。脊髄反射で口にした同調は、肯定だったのか保留だったのか分からない。結論を出さんと脳味噌を捏ねても、どうも徒労に終わる。僕は答えを求めてはいなかったのだろう、気付いてから、セルフちゃんの声に反応する僕がどれだけ惨めで哀れで救えないかが浮き彫りになる。
突き付けられた形に僕は続く言葉を切って、唯、セルフちゃんの小麦の髪を見やるだけしか出来なかった。
「勇者様は……」
ふわりと鼻先を掠めたのは、僕の記憶を抉る。嫌な匂いだ。世間では良い香りと評されるだろうけれど、僕には未だに記憶に絡み付く悪臭でしかない。顔を顰めて、筆舌に尽くし難く、及び表記する語彙を僕は保持しておらず、鼻に手を翳して一種の嘲笑を練り込んだ目玉を向ける。
「……、ややや? この形に音は……、丨くんですか?」
暗がり、壊れた噴水の瓦礫から身を出したのは、セルフちゃんより数段背の高い女性だった。大人びた、とも言えず、少女とも呼べぬ姿は淑女と言う言葉こそが適切だ。厳かな風体にしては軽い気配と、気色悪い曲線率の高い口元が不規則に印象を悪化させていた。
じゃらじゃら。なにかを掴む事すら出来ぬ手、なにかに触れる事すら叶わぬ指先。貴金属で拘束されているような、見えていない黒曜石の瞳が僕を見てやがる。目線は合ってないのに遭っちまうのが本当に気色が悪い、胃の裏側を猫舌で舐め回される不快感に近い。
セルフちゃんなんて眼中にないんだろう聖女に、無意識ではなく、核心から意識して悍ましい感情が迫り上がる。ついつい左足を僅かに引いて、昔のような頭で、あの時の延長のように、焦がれるかの如く一つの感情を積み上げていた。
何時だって――ように。
どうなっても――ように。
この場で――ように。
女の子らしい細い首は白く、月光で青い影を浮かべている。黒い上向きな睫毛も、桜を思い出す唇も、聖女らしい装いからでも分かる丸みや柔らかそうな感触も、煮えて泡を吹く感情に押し潰されて。
僕は当然、冷静にして、冷徹にして、冷酷にして、冷灰にして、冷暗だ。
「どうしました……? あの、勇者様……?」
くいっと、袖。小さな手。セルフちゃんが僕を覗き込んでいる。目を回す。
「いや、ちょっとね。それで、カライト様。僕は昼に会った勇者ですけど」
「やや。そうでしたか、知り合いにとても似ていらしたので……」
「間違えるほどに、ですか?」
白い服を揺らし、彼女は砕けた噴水周りを歩む。両手を広げれば、月光を反射していて眩しくすらあった。手に纏う貴金属がそうさせるのか、セルフちゃんと対比して黄金を帯びているからか、不思議に思ったままぼうっと透かす。
摩った硝子を目先に吊るした視界で僕は現実を映す。白が過半だろうに黄金が浮いた聖女はにんまりと唇を曲げ、見えてねえ目玉を景色に流す。
「ええ、私の世界では同じでした。私の世界に、色はないのです。私が信じる道に、色は必要ではなかったのです」
がしゃ、と。手を絡めて祈る聖女は月達を見上げていた。黒髪も、黒い目も、青が滲む姿と黄金が折り重なって複雑だ。複雑とは即ち、否定と肯定と変化と曖昧さから選んだ妥協的言葉だ。正確に正当に誠実に並べ立てるのが癪に触るから、妥協し及第点として保留しているだけ。
其処に感情は伴わない。後ろも前もない、あるのは単純に効率の有無だ。言葉に置き換える労力を割くより、祈る姿にそんな複雑って奴を僕が感じた事実に着目すべきなのだ。もっと、単純って奴を感じていたのに、今の僕はそう短絡的でもなく多角的で非常に馬鹿馬鹿しい奴らしい。
人。みたく、簡単じゃあないらしい。人。だからか。なんにせよ。
「……やはり、見えてないんですね?」
「勇者様、同情など不要です。重ねて断りますが、自ら瞳を抉り、私は私の光を見ております」
月がブレて浮かぶ瞳に色の深みはない。言葉に反し柔らかい発音。
より強い印象は、見ているのに見てないと分かる瞳。瞳孔の伸縮だとかではなく、それこそ色と言えるだろう。彼女の瞳に色はない、語弊に配慮しないなら一番しっくり嵌る言葉だと思う。色がないから、目も綾に色も亡き聖母を僕は観察しているのだ。
透明って訳でもない。そう、じゃあない。透明であるのと、色の放棄は混同してはならない。少女と女性の合間に住む半端で不安定な生き物に、僕は興味を向けてはいる。関心はあるけれど、それだって前提に、思考を切る。考えても結論はないからだ。
「夜更けに一人、目も見えないのに徘徊ですか?」
「えー、勇者様はエコーロケーション……んっと……ええと……どう言葉にしたものでしょう……音は波であるのを知っておられますか……?」
人差し指を立て、こめかみに添える様は悩んでいますって風体だ。目が見えないから、動作を重視しているのだろう。大袈裟な動作はあざとく、効果的だ。
「世界を満たす物質の、揺らぎ? でしたよね?」
答えたのはセルフちゃん。聖女なのに博識だ。家庭教師や集会があっても、この世界、アガレス王国に現代日本のような義務教育の概念はない。そんなに世界は余裕ではなく、弱者に手を差し出すにも限界がある、それでも彼女が世界の輪郭を捉えているのは、単なる教養ではない。
セルフちゃんが散々文官等に、政治に関わった成果でもある。セルフちゃんは、あんな見た目で新王宮資料塔に通う勤勉さもある。王宮資料塔にはあらゆる学問、あらゆる分野の資料が随時保管され管理を徹底されている。異端だからと封書にする文化はなく、あらゆる知識は知識であるが為に無条件に尊ばれる国だ。
これは旧資料塔に住まうシ・テアン・レイがアガレス王国の根幹にあるからだ。彼女の影響は絶大で、どんな粗末な資料でも保管する文化を生み出すに至った。一種の献上、供物の側面もあるのだろう。アガレス王国の魔法結界は勇者と彼女の盟約により成り立つ、所謂、機嫌を損ねる行いを歴代のアガレス王は決して行わず、誠実に積み上げを怠らなかった。
故に、文官のレベルが高い。中世ファンタジーで真っ先に浮かぶイメージとか言う偏見を裏切って、この国の知識保有量は三国列強に迫る。潜在的先進国だ、知識、技術はあるが昔から続く習わしを大切にした結果、文明的発展が緩やかなだけ。細かく見ると、用いられる技術や知識は見事なものだ。
アガレス王国に住まうシ・テンスの影響は最早異常であり必然だ、宗教上、神なのだし。女神教ではそうじゃないらしいけれど、神でないにしろ崇め畏怖し畏敬を込め接する存在なのは間違いない。良き隣人、と、神を七対三で合わせた感じ。
国民全てが知りながら、知らない存在、それがレイちゃんだ。
「揺らぎか、悪くない解釈だね。音は、うーん。この場合、空気や水、石とかもだけど。それら物質に伝播する力を指すね。僕の世界じゃあ波に例えてたよ。この現象を目視確認するなら……手短なのは水とかに声を向けたり、鉄筋とかを振動させて突っ込んだ時に作られる波形で分かるかな?」
身振り手振り、教え導くように。なるべく簡潔に伝える。物質の振動による現象、音の理解は波でありあくまでも物質の動きの一環だと認識して貰いたかったのだ。深い意味はないから、これは単純に昔の癖だった。
「まるで王宮魔導師みたい……」
おや、流石に鋭い。
「これでも僕、教授なんだよね」
名誉はあったと願いたいが。
「え、勇者様は叡智者だったんですかっ!?」
ばっと振り返ったセルフちゃんに詰め寄られた。思ったより食い付きがエグいな。
「ルシアス……ルシアと……ス? 知らない名称だな……? じゃなくて、まあ、近いのかな……? 博識だし、権威ではあるだろうから……?」
「勇者様はルシアスでもある、と」
おっと、不味いな。気が緩んだ。カライト様が復唱したので思考を回す。
「前の世界では、一応。何人か生徒を受け持ってたんです、どいつもこいつも問題しかなかったのもあって苦い記憶ですがね」
「若いのに経験豊富なのですね?」
「まあ、経験値って視覚化し難いですけど、僕の人生は密度が高い方かなと……?」
記憶は希薄だけど。なんとなく。そう感じる。淡白に生きていたかったし、鶏のササミっぽく在りたいけれども。どうもカルビな毎日だった気もする。胃もたれしそうだったな。
「詳しくは蛇足なんで流しますけど。つまり、セルフちゃん。カライト様は音を感じて空間、世界を見ているんだよね。そこに色はないんだろうけどさ」
「んー、どうやって音で世界を見るんですか? また謎掛けですか?」
「音が波って言ったけど、波はなにかに当たると形が変わるよね、それを肌、或いは耳で感じて、頭の中で形を逆算する技術、或いは機能だね」
「人間にそのような御業が可能なのですか……?」
「音の方向くらいは分かるよね? その能力の延長、ではあるんだけど……人間に専用の発達部位はないかな? なにか生物だといたかな……」
記憶を漁る。この世界に存在する生物で例えられるだろうか。ああ、そうだ。
「オートロとか身近だね」
「オートロがです?」
最近知ったのだけど、無数のヒダが垂れたやや爬虫類っぽい馬代わりの生物は目が悪いらしい。
馬車のアイツだ。亀みたいな骨格構造と、爬虫類っぽい皮膚に水分を蓄えたり体温調整するから、妙な発達をしてヒダだらけなのだけど。困った事にアイツは成長するに連れ正常な視界を失う宿命にある。彼等オートロは、足裏の感覚が鋭敏であり、同時に聴覚に優れるし、なにより視界を成長により失う彼等の進化は面白い。
嘴のような口による噛み合わせ、筋肉繊維の可動等で発生させた生体電気を用い、出力や間隔を置いて射出する生体機能を持っている。鯨のクリック音に近い。全身の脂肪、ヒダも微細な電磁波を受信しているようで、視界が悪くとも世界の形を認識しているらしい。
「セルフちゃんはオートロの目を見たことある?」
「あ……り、ませんね……?」
「それは彼等が成長につれ、視界を失う生態をしているからさ。なら、どうして彼等は険しい山道を進めるのか? 森を踏破可能なのか? 考えたことはない?」
「霊視……ではないんです?」
「……否定はしないけど、オートロは電磁波を感じてるのさ。波を認識しているから、彼等はセルフちゃんが苦手なんだよ」
実はこの聖女、オートロに嫌われている。何故か、そりゃあんな静電気が貯まる服を着ているから。
「……?」
セルフちゃんは不可解そうな顔だ。
「聖女の正装でさ、たまーにドアノブ触って、指がパチってした事ない?」
「あ、たまに、ならあるかもです? 帝都に巡礼していた際は、毎日、精霊に悪戯されましたね……?」
むむっと眉間に小さなシワを作ったか、ほんわかと嫌そうに答えた。
「あ、うん、それがオートロも嫌いなんだよ」
まさかの民間伝承。唐突に庶民になったな。ああいや、いいや、間違いではないし。うん。
「なるほどっ。え? どう繋がるんです?」
「精霊の悪戯の正体は電気なんだよ。摩擦でも発生する力なんだけどさ、それをオートロ達は人より細かく感じてるのさ」
「痛いですよね……あれ。あ……もしかして、その、だからもっと……彼らは痛かったのですかね?」
恐る恐る問われ、僕は肯定する。
「そうだよ」
オートロを調べ知る切っ掛けは聖女様ともあろうセルフちゃんが、可愛い小動物にすら避けられる意味不明な姿を見たから、なんだけど。オートロに限らず、小鳥にすらセルフちゃんは嫌われている。
「……そうだったのですね、わたしは、なんと罪ぶかいことを……」
犬みたいに尻尾があればきっと垂れているだろう。声量が落ち、ちょっとだけ罪悪感と葛藤している様子だ。
「勇者様、専攻は生物学ですか? それとも、もっと特化した学術を?」
カライト様からの探り。
「あー、そうです、近いかなと、多分。この世界は未知ばかりで困ってますけど」
近いなんざ真っ赤な嘘だ。僕は医大生だけれど、医療とは無関係だ。確かに教授ではある、だが医大で、とはならない。其処に繋がりはしない、別の話だ。生物に詳しいのは知り合いの趣味に付き合った結果だ。でもそれを明かす必要も義務もないので適当に流した。特筆し、この聖女に前向きに語る過去は一つもないのだ。
「では……勇者様が優れた叡智者であるのを見込み、私の幾つかの疑問に答えては頂けませんか……?」
微笑む聖女に僕は僅かに悩み、仕方がなく向き直す。
「どうぞ、お力になれるかは存じませんが」
「有り難うございます。んー……そうですね。女神教にとって魔物は悪ではない、と知り得ておられますか?」
「はい、知り得ております。外なる神でしたかね?」
「いいえ。正確には、旧支配者と呼称すべきです。この世界に元来属さない外なる者達の支配から救い、庇護の手向けたのが我らが女神様なのですよ」
溢れ出すTRPGの気配。が、事実はどうあれ史実として語られている以上、創作物っぽくて似たなにかを知り得ても口は挟まない。実際問題、シ・テンスはそれぞれ系譜が違う外なる神の使者なのだから。
レイちゃんはレイズダラッド。
『黒き銀の星』の使徒である。現在、外なる神たる一柱とは繋がりはないらしく、司令もないとの事。巫女なのかなと思ったけど、ちょっと違うらしい。一柱そのものではないが、本体から分離した個体であるとか。
ガランシャッタちゃんはブュセルツッツィー。
『冥き宵に浸す闇』の使徒である。この一柱も音信不通で、特筆した活動はしていない。ガランシャッタちゃんは知らんヨと口にするばかりで情報が少ないが、昔他の神々との戦争で星系外にまで吹き飛ばされたままとかなんとか。要するに知らん。
トィンガルジゥ。
『終末を宣告する口』であり、恐らくその使者であり使徒たる誰かは僕達とは相容れない存在だ。小さな事件から、竜災に至るまで奴の残り香を感じられている。実害もあって、因縁もある相手だけれど、じゃあ敵なのかと言うとこれまた難儀なのだ。
最後に、ホロヌウテル。これが問題だ。
『外なる神』である。いや、他に言い表す言葉がないのだ。兎に角、使徒とかもなしに、一柱のままこの世界に座している。今尚、神なのだが、旧支配者とは派閥が違うらしい。なので人類も廃絶に動く訳でもなく、受け入れたようだった。選択の余地は含まないとして。
で、もう一人存在している。近頃飛来した現人神様だ。名前はユーフェ・フォン・デル・アベレイフォス・シュテルンリッター・ミーファ・クロイツェフ・アンジェゲルド・メシュフセラヴィーヒ・カレイド・ド・ドロップちゃんと言って、今は多分、優雅に寝息を立てているだろうか。徘徊してないと良いけど。
あの子は勇者でありつつ、厳密には外なる神である。更に言えば旧支配者とも違い古の神だ。なんでも、星の所有権を持っているだとか。詳しくは知らない、胸ばかりガン見していて記憶にない。我ながら適当な生き方をしていると反省はする。
そんな神様達を、女神教の過激な派閥では超克四種族を神と称するのも、善なる者とするのも受け入れ難いらしいので、はてさて、この聖女様はどうなのだろうか。
「それを踏まえ、初めて会ったあの時の質問に再び回答を願えますか?」
あー、確か『もし、この世界を構成する要素に、この世界由来でないものが見付かったら、貴方はどうなされますか』だったか?
「別に、変わりませんね。少なくとも平和であるなら、それは偽物であっても、本物でなくとも、必ずしも誤りではないと思ってます。今も、これからもです」
「貴方の考える世界は、女神様の恩寵だけでは満ち足りませんか……?」
「……、足りる足りないの話じゃないんだけど?」
カチンと来る言い回しに粗暴な返しをする。僕は器が小さいのだ。
「……勇者様はアウター・ゴッデス、特筆して旧支配者の所業をご存知で?」
歪な、曲がり過ぎた唇からは感情が汲み取れない。
「ままある憂鬱にして有り触れた話では? 貴女はそれとも、芋虫にでも齧られたルシアを見付けたならば、樹木こそを切り倒すおつもりか?」
作り笑いを向けても意味はないが、声に笑顔は乗せられる。カライト聖女は桜唇を平らに、唇に指先を当てた。貴金属の爪に接吻すると、またにんまり形が歪む。
「異なるものは、在るべきではないと私は信じております」
「色さえも、貴女には不要だと? 自ら放棄する行いは、必ずしも正当ではないと申しませんが、些か理解に苦しみますね」
「ふふ。貴方こそ、放棄してはいませんか?」
「……、……」
え、ムカつく。うぜえ。あーダリィ。良し、気分転換。一、二、三秒。四通り思い付いちゃったな。えっと、倫理で崩して、良し。
「カライト様、話は変わるんですけど……女神教は異性との交際に寛容らしいですね?」
「え? あ、そうですね?」
「カライト様、なら、僕とデートでもしませんか? 明朝と共に、街を練り歩くのも一興かと存じますが」
僕は躊躇わない。洗礼中とか、修行とか、そんなの知らないし分からない。装飾に覆われた手を握れば、びくっと肩が跳ねて、ぎょっと手を引こうとする。優しく両手で包めば、冷えた手も段々熱を帯びるものだ。
「え、え、まあ、あらあら……積極的なお誘いですね……? 良いのですか? 貴方の隣にはルシアの花が咲いていますけど?」
セルフちゃんはにべたい目をしている。ランタンの光が怪しさを倍増させてもいるが、肩を竦めて嘆息を宵闇に放る姿からは、不満とか不安とかはありそうで。でも口を結ぶって事は、どうやら文句はないらしい。
「カライト様に手伝って頂きたい事がありましてね」
「おや……なるほど。良いですよ、それと……そのですね」
「はい、なんでしょうか」
「そろそろ……ですね……? 手を、離しては? 私は……構わないのです。誰かに見られでもすれば、審問沙汰ですからね。私は構わないのですよ? ええ」
僕は、そっと手を離す。冷たかった肌も火照って、夜風には丁度良い温もりだったので名残惜しかったけれども。ともあれ、流すとして。カライト様がもじもじ手を重ねている姿を一度伺い、僕は頭を捏ねる。
さて、明日はどうしたものかな。予定を組み直す、計算を走らせる、計画を組み立てる。目処はある、道順を理解し、そして。
「では聖女様方、ご機嫌よう」
と、大袈裟に礼をした。
新用語
『外なる神』アウター・ゴッデス
神。
『旧支配者』グレート・オールド・ワン
昔の支配者。
『古の神』エルダー・ゴッデス
昔の神。
『叡智者』ルシアス
賢者、学術者、等の中でも卓越した権威を指す。