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僕は勇者なんかじゃない≠


 僕は、アイリスさんを直視する。


 だから。

 分かるから。

 知っているから。

 選択とは行うものであるべきか。

 選択とは必ずしも誇れるものではない。

 善し悪しはあるだろうか。

 正悪で隔てられるだろうか。

 僕が手に取ったそれは、救い難い程に。

 縦令(たとえ)、この先どんな事があっても。

 僕は決して、自惚れたくはなかった。


「――逃げようよ」


 縋るかの如く、突いて澄ますように口にした。アイリスさんはそっと、頷いた。


 貴方ならそう仰るでしょう、とでも言いそうな。諦めとも、呆れとも言えない表情で。なんなら、初めて見る顔だ。柔らかい、無垢な笑顔だった。彼女に戦うのを強いて、僕の為に彼女を巻き込んで、正しさからでもなくて、効率や能率から導いた答えでもない選択を、僕は選べない。


 選ばない。


 期待されたくはない、期待もしない。

 関わりたくはない、関わりがない。

 僕は誇らない、誇れない。


 但し、その間には記号が入る。


 然し、その間には記号が入る。


 アイリスさんは、僕を責めはしないだろう。責める理由はない、押し付けられても、流されても、此処から先には踏み込めない。どうにも、その線引が、境界線が越えられない。越えちゃあ駄目なんだ、思うから。


「……っ!」


 轟音。突風に身を屈め、腕で庇う。傍らのセルフちゃんはアイリスさんが庇っていた。唯一、手を差し伸べられなかったキャロルちゃんが後方に転がったのを見て。


 眼前、聳える金属が座していた。目を回せば、轟々と燃える魔導機達。彼等は、搭乗員は無事であろうか。否、今は。


「……、仮称Xくん、あー、えっと……元気?」


「勇者、勇者! おま、まま、ま。にる、ろろろろろれッ!」


「……、成る程?」


 機械に通された砂嵐混じりの雑音が鼓膜を揺さぶって、吹き出す青白い光が煌々と()を帯びて行く。猛烈な風と、皮膚を痺れさせる得体の知れぬ圧力。僕は、徐ろに一息逃がす。冷静に状況を分析する事を第一に据えて、支離滅裂な言動を無視する。


 翼のような機関を掲げ、空間を感電させる軋みとも絶叫とも呼べる咆哮を上げた。それは中身が言語体系を崩壊させたから、でもあるし、仮称Xが振り上げた腕の駆動音でもある。人丈なぞ悠々と超えた腕部は、当たれば死ぬだろう想像と、巨大さ故にか緩慢に映る奇妙さが混在している。


 横に飛び退く事は簡単だ。だが、セルフちゃんを見捨てる事に。


「下がってッ!」


 アイリスさんの声。同時に、銀色に輝く剣が視界に飛び込む。振り下ろされた腕と、銀の剣が交差した。爆風だ。身体が浮かび、なんとか、セルフちゃんを抱き寄せて。


 地面が割れた。四方に走った亀裂、瞬く。瞬けば、大地が迫り上がっている。中心は、アイリスさん。剣で受け止めていた。細い足が、大地を粉砕する質量を支えている。表情が見えない。少しの浮遊感と共に、セルフちゃんを庇って背を打つ。急いで体勢を直せば。


「あるふぁのののがごああああッッッ!」


 獣のような声。鼓膜の不快感を掃き捨てる、また、目の前に。巨大な腕。鋭い指は猛禽類のようで、その切っ先が頬を掠めた。右頬に走る熱と、体内から上がる血。鼻腔を擽る鉄錆の臭いに、首筋に走る一滴の熱。


 傷は深くはないのだろうと。


「どうかッ! 聖女様と逃げてくださいッ!」


 爪が刺さらずにいたのは、アイリスさんが受け止めていたからだ。僕は、返事もなく、セルフちゃんを引いて反転する。が、数歩走ったら後方に引っ張られた。振り向けば、セルフちゃんが簀巻きの男に躓いていた。


「ッ……!」


 セルフちゃんは、悩んだのだろう。此処で放置する意味を、放置して逃げる僕達の意味を。僕は思考を最適化する。目を回す、情報を集める。精査は後だ、数だ。天気は晴れ、明るい、近場に業火。


 宿屋が燃えている。熱波が伝わる。人は少ない、皆逃げている。古来人種(ラルヴァスダラーダ)の姿、小さな身体が大きな中年を抱え走っている。アイリスさんは。


 アイリスさんは、仮称Xに剣を叩き付けていた。舞うようにだ。距離は、近い。腕は届かない。簀巻きの男は、僕を、見ていた。


「野郎……狂っちまいやがって」


 ぼそりとした呟きに、耳が良いから聞き逃さない。


「それは免罪符にはならないよ」


 吐き捨てる。どうやら、彼は、仮称Xの中身に対して悲しみとも怒りとも、憐れみとも呼べない感情を持っているらしい。でも、でも、僕に出来る事は限られる。転がした経典に手を伸ばすセルフちゃんを引っ張って。


「勇者、あんたぁ気に入られちまったんだなぁ……?」


「知らない人から向けられる好意も大概気色悪いけど、悪意だって不快なものだよ」


 簀巻きの男。僕は、多分真顔だ。焦った表情もしていない、焦っていない訳ではない。顔に出ないだけ、出していないだけ。誰かに共感されたいとか、誰かに伝わって欲しいとか、誰かに気付いて貰いたいとか、欠片も思わないから。身体を十全に動かせるが故に、表情は作らなかった。


「……そうかい。勇者……ねえ……?」


「……」


 明らかな嘲笑、僕か、彼自身か考える労力は割かなかった。セルフちゃんを立たせて、無視して、走るように促し。


「ゆ、ゆ、ゆ、ゆう、勇者、勇者、ゆゆゆゆッ!」


 簀巻き、男。縄が千切れた。咄嗟に、セルフちゃんを背に立ち塞がった。首に、指が絡む。


「……ぐ!」


 人間の握力とは思えない膂力。簀巻きにしていた縄を容易く引き千切り、()の目玉を輝かせた男が唸る。獣。獣のように。犬歯を剥いて、涎を垂らして、湯気さえ上がる吐息を漏らして。異様に浮き出た血管の迷路、異常に発熱する身体。一回り膨張したように思う身丈。


「ゆゆ、ゆ。ゆうじゃあッッ! ゆぅじゃぁあッ!」


 片腕で締め上げられて、そのままぐんぐんと運ばれる。泡を吹いて、声帯を枯れさせ、男が叫ぶ。紅に染まった瞳は、見た事がある。未だに解決してもいない話で、元凶に会えず流した話だ。ツェールちゃんを誑かし貶め、ハバラちゃんをどうやってか思考誘導して勇者に嗾けた(けしか)要因、原因、根本。


 セルフちゃん、怯えた様子。凄い勢いで、ずんずん歩んで。


「がハッ!」


「ゆうじゃぁあああッ!」


 背を打った。背後、熱。宿屋か。髪の毛が燃えている。焦げている。背は、洗礼服が守っているからか熱さは感じない。首を絞め上げる右手を諸手で掴み抵抗するが、それは徒労のようだった。僕は、確かにこの世界では非力に属する。


 アイリスさんみたいに軽やかではないし、ヘルさんのように勇猛でもない。クレヴィアさんのような誠実さもないし、ハバラちゃんのように強かでもない。肉体は脆弱で、愚かにして憐れな人間だ。


 単なる人間に出来る抵抗なぞ少ない。ごつごつした手は剣士のような研鑽は見受けられない、人差し指や親指に奇妙なタコはあっても。腕は、鎧を軋ませる程に膨張している。股間を蹴り上げようにも鎧がある。身体の隙間に片足を入れ、胴体を蹴り退かしつつ思考を回転させる。


 セルフちゃん、先ずはセルフちゃんだ。


「に、げろッ!」


「……ッ! でもッ……!」


「い、けッ!」


 絞り出した声にセルフちゃんは唇を噛み締め、踵を返した。鮮やかな白金の髪が靡く、見るのを止める。息の荒い男。幸い、血管は絞め上げられてはいないのか、頭は動く。意識は冴えている。問題は呼吸だ。息継ぎのタイミングが悪かった、息を捨てたタイミングで首を絞められている。僕なら持って二分。完全な無呼吸で活動するならそれが限度。背の火も問題だ。


 今は髪先が燃えているだけでも、ずっとこのままでは後頭部が禿げ上がるのも時間としてはそんなに猶予がない。現に、後頭部がヒリヒリと痛みを訴えている。


「ゆう、しゃぁ! ゆうじゃぁッ! 勇者ッ! みぃっいッ!」


 声帯なぞ知らぬ物言いだ。理性なぞない、紅が侵した目玉だ。虹彩が犯されて、白目も充血している。伺える首筋も血管が切れたのか鬱血しているようにも思う。人間の身体を、人間ではないなにかが突き動かしている。ツェールの時とは違う、あれは肉体の自壊はなかった。ぱっと見て壊れて崩れて行く様子はなかった。


 セルフは逃げたか。距離は離せたか。男の背後、奥ではアイリスの雄姿がある。僕には気付いている、手が離せないのだ。ふっと、小さい影が飛来した。


「ぐゅあぃゆゆゆゆゆゆッ!?」


 首筋に穿たれた金属は、ナイフ。握り締めて、突き立て、背に襲い掛かったのは。キャロル、そうだ。キャロル、軍人だ。血潮が吹く様子に、僕は、倫理観を捨て去る。かなぐり捨てる。慈悲も容赦も倫理も、道徳なんて僕は習わなかった。右手、拳を作る。指を固めて、固めて、中指をやや迫り出すように握り固める。


「死に晒せG´IS(ドブ鼠)ッ!」


 キャロルが肉の間に刺し込んだナイフを前後左右に動かして、ぶちぶちと悍ましい音を奏でた。吹き上がる鮮血を僕は顔に浴びながら、握り固め切った右拳を寸の間も置かずに叩き込む。目玉にだ。


 ぐちゃりと、潰す感触。左目を潰す。正確に、躊躇なぞしない。騎士道はない、損なもんはクレヴィアにやる。道徳なぞ知らん、セルフにでもやらせろ。


 クソ。頭。血が足りてない。息は保つ。意識はなんとか耐えられる。獣の唸りが耳に這いずる。涎、血、混ぜた体液を零して獣が唸る。背にする刺客も眼中にない、首に埋まって筋肉繊維と骨を削るナイフにも怯まない。潰れた目玉から溢れる血量も尋常ではないのに、尚、手を離さない。


「ぐッ! く、ガはッ!」


 今にでも喉が、潰れそうだった。


「ごぼぉッ! ゆ、ゆうじゃ、じゃぁ、ゆう、ゆゆ、ぐぶぅオッ!」


 首を穿たれ、言葉に血が逆流している。否、喉と首が繋がったのだろう。口から溢れる血を撒いて、いるのに。首を絞める力が緩まない。もう一回、固めた右拳で顔を、残りの目玉を潰す。拳の痛み。指が折れた。だが、骨折と引き換えて肉は潰した。


 だが、それでも離さない。キャロルも、首にナイフを穿っている。体重を乗せ、ぐじゃぐじゃと肉を抉っている。狂っている、生物として狂っている。これが、終末人種(トィンガルジゥ)の血族。


「ぐ、くッ!」


 メキメキと脊椎が痛みを訴えて、首に食い込む指が皮膚を突き破りつつある。意識が保たれているのなら、逆に動脈は無事なのだろう。肩に広がる血液の生温さは不快で、嫌に安易だ。息よりも、血流よりも、首をへし折られる。


 キャロルの頑張りが僅かに作用してはいるのだろう、僕の細い首なんてもっと簡単に折れているべきだ。ナイフで筋肉繊維や関節を引き裂いた所為で本来の出力が行使されず、僕は生中に宙ぶらりんなのだ。左足でもう片手を繰り出そうとするのを阻止するのも、限界だ。


「ゆ、勇者、ゆゆゆ、あがっ! ぐぅるああ嗚呼アアッ!」


 邪魔だ。本当に邪魔な位置だ。


「がハッ?! なんでッ!?」


 故あって、僕はキャロルを蹴り飛ばす。肩上に跨っていた女の子の顔面を、仕方なく容赦なく躊躇せずに蹴り飛ばした。鼻から吹く血、散った涙。困惑。関係ない、これは最適解だ。次に、ナイフの柄に流れるように踵を叩き込む。同時だ、神経を確かに断った感触。


 分かる。この感触は、神経だ。張り詰めた糸を切るような、ゴムが切れる感覚とも違う、生の肉を、柔らかい肉を切る感触だ。洗っても拭えない、あの感触だ。


 首を絞めていた手が緩んだ。否、正確には手は緩んではいない。腕を水平に出来ずに足が地面に着いたのだ。ならば、絶えず発された電気信号で硬化する手は、込められた握力は僕を捕らえ続けるのは困難となる。角度が違う、高さが違う、僕にだって足場がある。


 膂力では劣るだろう、体重は大きな差はないだろう。背丈は僕が僅かに勝っている。肉体能力だけが勝敗を全て決定付けるならば勝機なぞないけれど、世の中は代入したくなくともされる変数が無数にある。僕は、背にする壁を蹴る。天地が逆転する。体重差がないなら、重心移動で優勢を取れば良い。


 首に食い込む指が血で滑り、離れた。見過ごさない、見極める。腕を掴み返して、捻り上げて、左足を大地に突き刺す。


「おォッ! らぁっッ!」


 右足は相手の腹に据える。頭を振り被って、全力で投げ付ける。内側からの熱で白煙を上げる壁にだ、火により脆弱になった壁にだ。柔術の近しい技術で巴投げがあるけれど、それに躍動感を加えた一連の動作は凄まじい速さと正確さで実行した。


 燃え盛る海に身をぶち込んでやったのだ。


 木造の壁を顔面から突き破って、過去形簀巻き男(ファンブルの民)は業火に没した。壁の穴から忽ち熱波が押し寄せ、堪らず僕は腕を盾に後退る。姿形は見えないけれど、生きていればそれはそれ、その時に考える。


「ッ……はぁ……ごほッ……」


 肩を揺らし、咳込む。幸い血反吐は出ない。深く息を吸う、肺に送り込む。毛細血管が酸素を掴み、脳髄に運搬して、僕のシナプスに浸透し馴染む感覚にやや浸る。二秒、三秒。十数えて、短く、息を切る。


 下ろしていた瞼を擡げ、傍ら、鼻血を拭うキャロルちゃんに手を伸ばした。最初こそ肩をびくっと跳ね上げてはいたけれど、恐る恐るな感じで手を握ってくれた。


「ごめんね、声が出せなくてさ」


「い、いえ、当方としては無事なら、はい……」


「おっと……」


 鼻を袖で拭う姿は申し訳なさもあったが、壁穴から吹き出る火に目を細め距離を置く。先に逃げるよう促したセルフちゃんの安否も気になるが。見渡す必要はなかった。


 それは、アイリスさんと仮称Xの戦闘だ。粉砕した魔導機を踏み潰し、鳥模型の人間型、或いは、白骨化した竜の鳴り損ないみたいな怪物は吠えている。晴天を紅色に劈き(つんざ)、腕を、駄々を捏ねる赤子か如く振り回していた。


 風圧だけで、目が痛い。銀色の閃光が幾度か走って、一瞬悪寒がした。背後だ。


「……ああもう……」


 キャロルちゃんを庇う、状況理解の速さが違うから。涙目の女の子を勇者みたいに庇って、身を翻す。


 火の海から、丸焦げになった人影。腕を伸ばして、かひゅっと乾いた音を喉から鳴らす姿は、レトロゲームのゾンビのようで。


 鎧の番が壊れたか、鎧姿も半裸で。伺える肉は業火で焼けて、膨れ上がった筋肉繊維が皮膚を割いている。正月に放置した鏡餅みたいだな、なんて呑気に考える。湯気を上げる血は、寧ろ噴火してしまった火山のようでもある。


 固まった皮膚がぎちぎちと引き千切り、指を折り曲げ、向かって来やがる姿は筆舌に尽くし難く。壮絶であるが故に、僕は、本気で。本気の殺意を握るか逡巡する。


 迷った、本心から。問う。自己に。


 『誰かを救う為に行われる殺人は、許されるのか?』

 『殺人を如何なる理由であれ正当化する行為を、僕は最も強い言葉で非難する』


 僕はそうしてシドルド神父を糾弾し、セルフちゃんを追い詰め、王様の最後を道化で出迎えに行ったし、ハバラちゃんを責めて泣かせんとして、ツェールちゃんに後悔を叩き付け憂鬱になって、アイリスさんに触れられやしなかった。


『人の感覚と己が感覚は違うのではないかと、薄ら寒く在るのです』


『ふと己だけ、世界へ座してはならぬ異物のようで、恐ろしく在るのです』


『とても本当に、疲れてしまいました』


 過った、何時か口にした、無意識に過去が傷む。胸を握っていた、洗礼服の胸元が捻れてる。


「……、碌でもないな……僕ってさ……」


 死なないと、薄々気付いてはいた。両目を潰され、肩をあんなにも引き裂かれ、喉と肩にトンネルが出来ても立ち止まらない『生き物』なんざいない。いちゃあいけない。


 医学的な死の定義じゃなくて、人としての説法だ。僕の、一通りの行動は間違いだ。異常で、狂っている。何時もの僕らしくない。


 若しくは、酸欠を狙って意識を刈り取るようにも行動した、とか言えば体裁は良いのかも知れない。分かってはいたんだ、最初から。死なないだろうって、生きてなんかいないんだから。


 ああ、いや。生きているって定義が『意識』とかに宿るなら、彼は死んでいたとする。死人だと納得し、妥協して、保留して、歩く死人だと見下して、此処に帰結する。


 僕は、言い訳を考えながら死体を傷付ける気持ちで行動していたのだ、恥知らずにも。死体なら、それは『器物損壊罪』であり『致死罪』でも『傷害罪』でもないから。死体は『物』だ。肉の詰まった袋でしかない。


 それは、本心から、本当に。


 僕が『人を殺した』事になるかどうかの境界線を、捻出しようとした足掻きで。


 本質は変わらない。筈とか、曖昧なもんなんかじゃあない、変わる訳がねえ、変わっちゃあオジャンになる。今までと、之からも、全て。意地でもなければ、信念でもない。恥知らず、まじに恥知らず、恥知らずだ。


 綺麗事で飾って、僕は恥の上塗りはしやしない。自惚れをじぼれと読むような滑稽さと、知恵熱を頭の酷使と解釈する間抜けさが煩雑なままに混在する。この気持ち悪さは、不快は、良く知っている。


 セルフちゃんなんて、キャロルちゃんなんて、知らなきゃ良かった。それが僕の『当たり前』だったろうに。


 間違えるのは怖くない。

 怖いのは、間違えたままに目を逸らす事だ。

 なんざ宣う奴はどんな輩なんだろう、土足で失礼するにしたって限度や節度はある。僕は、この目を閉じない。どんな泥濘でも、ちゃんと見て、踏んで、面と向かって口にしている。


(お前)、間違えてない?』


 と。


 例えば勇者が魔王を打ち倒す物語で、英雄視に秘匿された悍ましい位に冷たい現実は、今の僕にだって突き刺さる。僕は僕を嫌悪する、拒絶する、だからか、生きていて、心底にほっとしたのだ。


 どんな姿でも、『僕は殺してない』って安心感に微睡んで、最低でカスで碌でもねえのが刻まれる。


 僕は、お前を心から嫌悪し、俯瞰する。


 この異常が『当たり前』になりつつある点が興味深く、至極堪えられなくて。


 お前は『異常が過ぎれば常になる』と言うように、非常事態が日常化する瞬間、『当たり前』は更新された。この町では、爆発や崩落、魔導機の出現すら『当たり前』の一部に成りつつあって。これは、偏にお前が『当たり前』を誰かの『当たり前』と取り違った致命的失敗(ファンブル)を認めようともしないから引き起こった全てだ。


 前のお前は、抵抗するのか。

 前のお前は、誰かに影響しようとしたのか。

 前のお前は、『当たり前』に死にたがっていたのか。

 前のお前は、誰かの死に心を痛めたか。

 前のお前も、碌でもねえに決まってる。


「……く、ぐ」


 鼻先に触れた火の粉、灰の欠片に意識を摩耗させて。


 レトロゲームのBGMが脳髄を焼く、昔、やったゲームの音楽。不協和音の波。ぎちぎち、関節や皮膚が鳴る。正に殭屍(キョンシー)みたいで、大方は屍人(ゾンビ)みたいで、チープで、隅々まで『人』とは呼べやしないのは分かる。


「……、……」


「かひゅ、ひゅぅぅ」


 緩慢な動きに反比例して足が動かない。逃げようと、僕はしなかった。『当たり前』が瓦解する、崩壊している。僕の中心が、(X)軸も(Y)軸も、原点がブレて不規則に乱れている。


 選択をしたくなかった。人生は選択の連続であるとするならば、僕は果たして選択して来られただろうか。妥協して、保留して、看過するのも選択する事になる世の中だけれど、選んだのはお前だろと突き付ける世の中だけれど、いっそ。


「ゆう、ゆう、ゆう、シャッっっ!」


 ぷらぷらした腕が僕を掴み、捻り上げようとする。言葉を置き換えれば、油圧機器かのようで、ぐわんとした視界の後に猛烈な衝撃。


 背をまた壁に押し付けられたらしい、パチパチと燃える木の壁を押し潰し、僕は埋もれるように浮いている。呼吸は、問題ない。胸倉を掴まれただけだから。


 今度ばかりは僕が悪かった、避ける選択だって出来たから。近くにいるキャロルちゃんなんて眼中にない、血走った目玉が痙攣して瞳孔が忙しなく収縮や膨張を繰り返している。筋が切れた腕でこんな膂力を用いる相手は、首に刺さったナイフを起点に吹き出す流血も意味がない相手は、本当に人間と定義すべきなのだろうか。


「くッ!?」


 キャロルちゃんが再び男に飛び掛かろうとするのを、足を突き出して蹴り飛ばした。僕は、又もや少女を蹴った。背後の壁が壊れそうだったから。


「あるるるるッ! ゆ、ゆう、じゃああっ!」


 瞬いたら、横合いから拳。凄まじい速度で、握り締められた拳が。


 腹部に突き刺さる。衣服は破けない、衝撃も大幅に減少しているのだろう。でも、それでも。


「かはッ!」


 口から、赤。殴られて、視界が、暗転する。緑が交わっていた視界も。朱色のトンネルに様変わりした。目前に揺れているのは、木の破片。事態を呑み込む前に、身体中に痛みが走る。脳味噌が揺さぶられる。


 殴られて無様にも壁を何枚も突き破って、床を跳ね転んだのだと理解するのに然程時間は必要なかった。理解出来た上でどうにもならなかったのだ、手足も、重心も、凄まじい威力の拳で制御不能だった。


 燃え盛る火、一面の業火。突き破った穴に引き寄せられる地獄みたいな炎は、いっそ飼い慣らされた金魚の群れのように幻想的で。


「ぐ、……息……」


 頭がぼんやりする。


 酸素が足りない、二酸化炭素が多い。床だって燃えている、呼吸を浅く、襟首の布に口を沈める。ああ、身体中が痛い。右腕は、痛覚が途中からない。神経をやられたのかも知れない。頭が痛いな、とか、思えば、目に染みる液体で視界が薄く色付いた。


 頭部からの出血はとても芳しくない。目玉を動かして、辺りを何度か見渡す。頭は木片の塊にぶつけたようだった。僕の身体は小山に埋まるようにあって、洗礼服があったのに右腕はあってはならない方向に歪曲していた。足は、折れていそうだな。そりゃあ痛覚ばかり身体が伝達する訳である、こうもズタボロになるとは正直思ってはいなかったし。


 改めて考える。この紅蓮渦巻く景色に押し潰されないように、僕は、僕の助かる道をやや他人事みたく考える。思考を重ねて、凭れ掛かる姿勢を動かそうともする。足に力が上手く伝わってない、立ち上がれそうにもないな。引き摺る、にしても、見える脱出経路は遠い。火の手も増しているし、なにより。


 紅蓮の中から人間が現れてすらいる。僕を殴った男だ。真っ赤な瞳をした、人間っぽくない男。火の手に蝕まれて、鎧に火が纏わり付いているのも構う事なく歩みを進めている。肩から血が未だに漏れているのに、ぎこちない足取りで。


「参ったな……」


 襟元で口を覆っているからか、ぼやきはどうにも小さい。鼓膜を叩くのは火事場特有の不快な音色、木製の柱や壁が倒壊する男ばかりだ。或いは、床を踏み締め歩み寄る男の金属混じりの足音。


 鎧が紅蓮を照り返している。手足から出る裾や袖に引火しているのに、払い除ける訳でもない。どうかしている、本当に、どうかしている。


「……、僕らしいな」


 このまま、そうだ、このままならいっそ、一思いに、ラクになっても。はたと、僕は口を絞る。思い掛けずに妙な事を口走らないようにだ。束の間、脳味噌を捏ねる。


 距離は、もう数歩。存外に早く到着しそうだ。諦めている、ようで、僕は簡単に生きる事から逃げられない人間だ。死ぬのは怖いし、痛いのは嫌いだ。思い残しはあるし、悔いもあるけど、それだって些末な事であるけれども、生きていたい、ではなく、生きてはいる、だからって死にたい訳じゃあない。


 念の為でも、一応でも、生きてはいたい。そんな話。


 諦めたくないから、ではない。僕はそんなに前向きじゃあない。

 死にたくないから、でもない。僕は其処まで悲観してない。


 だからこそ、金魚が群れる景色に銀を見付けて、酷く、心が軋んだ。


 ふわりと、銀の粒子が踊る。両膝を突いて、僕の前に彼女は存在する。


 近付いていた男が、奇妙に転倒して。丸い塊が床を跳ねて、火に没する。あれが頭部だと気付いてはいた。だから、目の前で折れ曲がった僕の右手を、慈しみ憐れみ手に取る彼女に、どんな顔をすれば良いか分からなかった。


「……アイリスさん」


 僕は。


 僕は、どう顔向けしろってんだよ。


 アイリスさんに、どうしたら償えるってんだよ。


 馬鹿野郎、こうなるなんざ阿呆でも分かる。


 それともあれか?


 お前さ、こんな窮地から救われる有り触れた場面に垂直に衝突して、『人を殺してくれてありがとう』とか『助けてくれてありがとう』とでも宣うつもりか?


 ふざけるな。


 ふざけるなよ。


 有り勝ちさ、嗚呼、良くある話だ。どいつもこいつも簡単に流してやがる話さ。


 誰かを助ける為に誰かを救わない話だ。


 ふざけるな。


 どうしてそう、貴女は逃げないんだ。僕は、どう顔向けしろってんだよ。


 僕は、言葉が出ずに。


「……、……」


 どんな台詞も淡いて、決める事も出来ずに。半開きで彼女に向ける言葉を探って、見付からない、見付かる筈もないから、ぐっと、閉じた。彼女の悲しそうな、申し訳なさそうな表情が堪らなく痛いから。泣きそうな彼女の、悲痛な顔に心が割れそうになる。


 助けられた、救えた、嬉しさに。その中に、背中を毟るような絶望が横たわっている事実に膝から崩れるような。


 ああ。


 心底から辟易する、下らねえ奴だお前なんざ。


 聞こえる、『お前なんて死んでしまえばいいのに』


 誰に言われたっけな、こんな今にも他人事に思う。

 皆さんはどう思います? 当たり前になってて流されちゃう事に付いて。

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